CGSモビルワーカー


機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』よりCGSモビルワーカー(MW)を三日月・オーガス仕様っぽく作ってみました。キットは「HG IBO ARMS MSオプションセット1&CGSモビルワーカー」で、色を塗っただけで本体には手を入れていません。
このMWだけのためにオプションセット1を買ったのに、未塗装のまま長いこと放置していたのを一気に仕上げました。


フロント。


サイド。


リア。

火星の大地から。



様々な角度から。


実は鉄血の視聴を決定づけたメカがこいつです。
最初のPVでお目見えしたとき、これまでのガンダムだったらこういうメカは戦闘で活躍する事もなく、デザインも――恐らく意図的に――野暮ったいものだったのですが、鉄血のMWは八面六臂の活躍振りを期待させてくれました。
実際、第一期では明らかに主力でしたからね。


あおりの一枚はなかなか雰囲気で出てるかも。


あんまり良く見えませんが、ボディ前部左右のウィンカーっぽいライトと銃のセンサーは塗ってあります。


射撃態勢。


待機姿勢。


窓の塗装が粗いのが気になるところなのですが、実戦にしょっちゅう狩り出されている機体なんてわりとこんなもんなのかも。


そんなわけで、ボディの白もあえて均一にならないように塗っています。


小さいのでいざ写真を撮るとなると、どうしても上側からになりがちです。


何気に後ろ姿がいかしていると思うのです。


この型のMWは、第一期のほぼ全編にわたって登場しますが、三日月の白、明弘の水色、シノの赤紫の機体は、第1話と2話にしか出てこないんですよね。

一度やってみたかった一円玉比較。

このくらいのサイズです。操縦席部分の窓は、精密面相筆があればもうちょっと頑張れたかも……と思いましたが、それ以前にルーペが必要でしょうね。
自分の工作技術の限界を感じました。


ヴァルケンシューティングゲームヒストリカ)と並べてみる。
これくらいのサイズ比だと群で来られると脅威になりそうですね。


スティレットフレームアームズ)と並べてみる。
蹴っ飛ばされそうですね。
実際劇中で足蹴にされていましたが。

カラーレシピ(基本的に筆塗り)
・下地:なし。
・本体白:ガンダムカラー(ラッカー)・ホワイト5(古いカラーセットの白)
・本体グレー:タミヤ(エナメル)・ジャーマングレー
・車輪:タミヤ(エナメル)・ラバーブラック
・武装:Mrカラー(ラッカー)・ジャーマングレイ
・表面処理:Mrカラー(ラッカー)つや消しスプレー
・本体及び武装センサー:ガンダムマーカー(ラッカー)・メタリックグリーン
・本体ライト:ガンダムマーカースミ入れ用ブラウン+水性顔料マジック赤
・スミ入れ:タミヤ(エナメル)スミ入れ塗料ブラック

もっとも苦戦したのが本体ライトで、塗る面積が狭いためかはたまた保管してあった塗料が古かったのかどうしても色が定着せず、それならばとあるもので組み合わせてみました。
本体の白はもともと少し灰色がかった白なのですが、サーフェイサーをあえて使わず濃いグリーンの成形色を下地にする形で青味を出す試みをしています。個人的には成功で、二度塗りしたらほぼ狙った色になりました。
この白に対してつや消しを強めに吹いてから、スミ入れブラックを全体に塗って少し放置してから拭き取るというウェザリングっぽいことをしています。
操縦席の窓は、最初エナメルのジャーマングレーで塗ろうとしたのですが、いやあはみ出る事はみ出る事……。塗ってもはみ出るし、はみ出た部分を綿棒などで拭うと窓も拭ってしまうというループに陥りかけたところで、楊枝の先端に薄め液をつけて白を削り取るという方法を採りました。
それから、冬場なのでそこまで気を遣わなくても大丈夫なのですが、乾燥させる時間を長めに取っています。大体、一回の塗装に付き一日です。

『ゆる本Vol.30,31』の補遺など備忘録

 うちのサイトのAboutページをスクロールしていくと、寄稿先の情報が出てくるのですが、『ゆる本Vol.30』はオフセット誌なのにコピー誌となっていたのを修正しました。
 これ、自分が継続して寄稿していた頃はコピー誌だったため、秋山さんから著者献本を受け取るまでオフセットになっているとは思ってもなかったのです。受け取った時点で修正していないので、なにを言っても言い訳になりますが(‥;)

 文学フリマが全国展開をはじめて、文芸同人では毎度お世話になっている秋山さんの雲上回廊も全国行脚をはじめました。『ゆる本』もそれに合わせて発行されるため、『Vol.30(初頒は16年9月の文学フリマ岩手)』と『Vol.31(初頒は16年11月の文学フリマ東京)』を両方揃えている方はどれくらいいるのでしょう。なお、これより前のバックナンバーから読んでいる方はもっと少ないと思いますが、こちらは全て電子化されているため、勘定には入れません。

 ぶっちゃけ、今回“も”東京文フリには行けなかったので、実際のところ刷り部数に対してどれくらい出ているのか私は知りません。今年下半期はイベント*1に行くつもりで予定に組み込んでいても、いざその月になると別の予定が入ってきたり体調を崩したりして行けてません。

 話が逸れました。
 えっと、『ゆる本Vol.16』以降、私の短編小説にちらほらから登場する「千住きすか」というキャラクターがいます。『ゆる本Vol.30(『電信柱のキツツキ様』)』からきすかと「高崎舞羽《たかさきまいは》」という小娘二人をレギュラーキャラに据えたオムニバス形式で書くようにしたので、忘れる前に少し触れておこうと思いました。

 といっても、大したことじゃないんです。
 『ゆる本Vol.16』と『Vol.17』の千住きすかと『Vol.30』以降(『Vol.31(『Eternity Of Moment』)』含め)の私の作品に登場する千住きすかは、容姿も性格も変わってませんが同名異人です。当然ながら背景世界も違います。
 書く側の都合をぶっちゃけると、過去作のキャラをサルベージしてリライトしたためこうなりました。相方になる舞羽については、きすかと絡みやすいタイプを模索しつつある程度書いていて楽しめるキャラにしてみました。

 きすかは「なんとなく日本人っぽくない名前を平仮名で」という発想から名前を考えて、むかーし考えた「町の一角の(主に住環境の面における)権利を有している人間だから千住」というネタを掛け合わせてつけました。
 舞羽は、永久る〜ぷという同人ゲームサークル(現在は活動休止)のSTG『TWilight INSaniy』の三組目の双子主人公ホシミ姉妹の姉ホシミ マイハ(星海 舞羽)から名前を拝借しました。容姿も性格もまるっきり別人ですが。
 書いておかないと忘れそうなので、いま書いています。

 当初の目論見では『ゆる本』に限らず、このオムニバス短編を書いていくつもりでいたのですが、実際はそんな余裕はなく次も『ゆる本』への掲載と相成りました。
 9月の更新時にサイトトップに書いた「掲載の場が『ゆる本』になるとは限りませんが……」というひと言は当時のこうした考えからのものなのですが、現実は甘くないです。
 現実は甘くないです。

 ところで、『ゆる本Vol.30』は添田健一さんの『鳥占いし少女』の連載がはじまった号でもあり、私がこの号からオムニバス形式を採用したのはただの偶然です。
 添田さんからはTwitterで「偶然というよりも、常連寄稿者同士が雑誌の躍進を考えた結果という流れでしょうか」というリプライをいただきましたが、私はといえばその様な殊勝な心がけは微塵もなく、「連作を提供し続けられるフォーマットを作って書いてみる」という考えと刊行のタイミングが合ったからという理由でしたorz。

 『ゆる本』については、有難いことに購入してさらにはこの作品に言及してくれる人がいて、そこに来て同業者(この場合は添田さん)からも「次も是非是非」と背中を押されると、次も出さなければいけないのではないかという義務感に似たものを感じます。
 あと「次が出そうな作品」を世に出してしまったことに対する責任感のような意識の芽生えがあり、

 この様な葛藤が生じます。(出典:佐藤明機『ビブリオテーク・リヴ』コスミック)
 どうしよう?

 そして、もう一つ。自分の作風は「架空の存在を文章表現で可視化する(=想像力に働きかける)」ことが根底にあるので、添田さんの作風とこのやりかたが『ゆる本』という誌面で対照的な存在になってしまっているのでは? という問いの解を得るには続けてみるしかなく……。
 どうしよう?

 どうしよう? といえば久しくブログを書いていなかったので、宣伝とか感想とかなにかしら明確な意図のない記事の書き方を忘れかけています。
 それから、私自身の変化もあります。なにか気になったことがあって勢いで文章にしても、それを公開すること疑問を抱くようになり、最近では勢いで書く前に自分の中に留め置くようになりました。
 これが良いのか悪いのかわかるのは、たぶん五年か十年かそれくらい先じゃないかと思います。
 歯切れが悪いですが、こんなところでいったん結びます。

*1:麦酒夜宴とかM3秋とか麦酒夜宴とか

みなそこのレトロフューチャー/宵町めめ『龍宮町は海の底 1』

龍宮町は海の底 1巻 (ガムコミックスプラス)

龍宮町は海の底 1巻 (ガムコミックスプラス)

 現在、コミックガムにて連載中(水曜更新)。

 あらためて単行本で読んでみると、より鮮明に見えてくるところがあって面白いですね。以下、連載開始当時からTwitterでちょこちょこ感想をツイートしていたので、多少重複になると思います。

 単行本を手にして驚いたのは、扉絵(1ページ)でした。
 これが表紙でも本として十分通用するレベルで、小説だとしたらこれが表紙になっていたかもと思いました。
 かつて、図書館で幾度となく見てきた児童文学や一般文芸の四六判の表紙を彷彿させる、シンプルながら印象的なデザインです。あれ、一見どれも似かよっているようで、装丁は工夫がされているので、頭の片隅にでも覚えておくと、本を判別するときに楽なんですよね。背の請求記号のみに頼っていると、見間違えることがあるので……と話が逸れたので戻します。

 やはり、最初のハイライトは一話の冒頭で、まそらと澄音が教室から電車に乗り込むまでを描いた10ページの3、4コマですね。ここ、台詞も擬音もまーったくないのですが、たった2コマで校内から構内(まぎらわしい)への移動が体感として伝わってくるんですよ。
 これは連載当時も「おおっ」と思い書いたことなのですが、単行本で読んでみると2コマしか割いていないため、学校と駅との繋がりがどういうルートになっているのかがまったくわかりません。謎です。わかるのは、駅と学校が直結していることだけ。
 こうした謎が龍宮町という舞台そのものの謎を形成するピースになっていて、それが積み重なっていって、後半になって明確に「謎」として提示される部分が強調されて、不気味さすら伴うようになります。
 連載時に感じた得体の知れない不気味さは、こういうところに起因していたのかもしれません。「一話冒頭にして、作者の術中に!? やられたー」と手の平で顔をぱんとやってしまいました。

 龍宮町の町並みや学生寮の個人部屋の中などを見ていると、おおよそ1980後半から90年代初頭当時の日本と60〜80年代頃に描かれた未来予想図を掛け合わせたような印象があって、親近感が湧きます。
 言い換えると、子ども頃に読んだ図鑑だとか科学系の事典に載っていたような架空世界と当時の現実世界をそのままくっついているような感じなので、奇妙な懐かしさと「ありそう」と思えてしまう不思議な説得力があるんですね。
 ついでに、レトロフューチャーについてちょっと触れておくと、こうした作品は結構好きなのですが、大抵の作者は自分よりはるかに年上か(中には鬼籍に入っている人もいる)、二十歳以上年上か、少し年上か……とまあ、世代が上なのです。
 そうなると、レトロな部分に対する感覚も空想の領域になってしまうんです、私の場合。
 これはこれで面白いのですが、実感がありません。
 あえて想像の側に全てを割り振った例は、ダンボール模型作家である燈さんの第N区無人居住区でしょうか。

 龍宮町のレトロフューチャーは、この現実感「ああ、そういうのあった」とか「こういうこと空想してた」といった懐かしい匂いがします。
 この辺は世代にもよるでしょうが。
 世代にもよるでしょうが。

 自分は比較的初期に、この作品に対して「SF」という感想を述べたうちの一人だと思うのですが、きわどいところでSF考証と科学考証の深淵に入らない位置を保っているめめさんのバランス感覚は、素晴らしいと思います。
 たとえば、龍宮町の気密構造(潜水服を着て泳ぐ授業の出入りについてなど……)や海神神社について突っ込んでしまうと、そんだけで脳がショートします。前者については、深度何メートルにあって、だとしたら水圧はいくつで……と色々大変なことになります。

 あんまり書くとネタバレになってしまうので控えますが、まそらと澄音がある事件に関わったときに帯の言葉の意味がわかります。

「海の底に沈んだ町“龍宮町”。平和な町で青春を満喫していた“まそら”“澄音”。しかし、海底都市の魔の手はすぐそこまで迫っていた……!!」

 物語の中で、直に脅威と接する二人なのですが、それはトリガーに過ぎず本当の脅威はその先にあります。冷戦の核抑止による一触即発という緊張という現実がありながら、平和を享受していたバブル期の日本を彷彿させます。
 私はこまっしゃくれた子どもだったので、「いつ世界が吹っ飛んでもわからない状況なのに、どうしてこうも大人は暢気なのだろう」と疑問に思っていました。そうした意味で、自分の未来についてあんまり実感が湧かなかったのですね。そのくせ、好奇心が強かったものだから、負ではなく正の方向の可能性については興味津々でした。
 だから、まそらの気持ちは、非常に共感できます。

 まそらと澄音について、よくよく見ているとまそらがやや演技臭さのある少年のような振る舞いをしているところと、自然な動き方をしているところがあります。大抵、そこには澄音の心理状態が伴っていて、読んでいると実は一話時点の澄音がやや不安定な状態にあることに気づかされました。
 あと、同じ1日をそれぞれの視点から描いている第四話と第五話は、一冊にまとまっている単行本ならでは対比が強調されていてこれも連載で読んでいた人間にとっては、嬉しいポイントでした。

 個人的に好きなキャラは、学級委員長の品川有華です。容姿や性格もそうなのですが、等身大の中学三年生という点も好印象でした。
 と言いますか、あれほどの勢いはありませんでしが、ああいうタイプの女の子、まさに中学三年当時のクラスメイトにいました。
 まそらが怒濤のダメ出しを食らうシーンは、既視感すら覚えます(笑)。
 あとは、境先生ですね。

 先の展開が気になるところですが、個人的に気になっているのは「記憶と記録(日記)をどう関連づけているのか」というところですね。
 作者の宵待めめさんは、同人誌『川底幻燈』シリーズで記憶や思い出について、深く掘り下げて描いているので、日記や日記ポストが今後の話にどう絡んでくるのか、それともあえては触れないのか。いずれにせよ、一読者としては楽しみなところであります。

 個人的にも、作者的(本人談)にも「是非とも小中学生に読んで欲しい一作」なのですが……ごめんなさい、これは「おっさんホイホイ」だと思います。
 
 あとがきにあった海底都市の図ですが、おそらく学研の図鑑か子ども向けの科学系事典だと思います(註:この種の資料には、辞典ではなく事典を用います)。
 私もそうした本で見た記憶があります。

 はてさて、ネタバレ回避しようとすると、感想を書くのって物凄く難しいですね!
 最近ではあまり見られなくなってしまったタイプの作品であり、これは衰退したのではなく書き手がいなくなったというのが私の見解です。
 そうしたわけで、みなそこのレトロフューチャーに触れてみませんか?

bermei.inazawa『worldlink op.1』

worldlink op.1

worldlink op.1

 いつも見ている景色は、いつも同じ表情をしていないのかもしれない。
 深く考えるときのために聴こうと思っていたCDが、何も考えないときのために聴くCDになっている。

 試聴から受けた印象と実際に聴いてみた印象が大きく異なっていて、現在は自分の中で思っていなかった位置にいる一枚。
 帯にある「すこし、世界が変わって見えますように」という一節は、CD制作中からbermeiさんが言っていたことで、これは企画を考えた当初から一貫したコンセプトなのだと思う。
 ひとによって感じ方は違うから一概には言えないけれど、私個人の感想を本人に肉声で告げるとしたら、最初の一行だけで十分だったりする。
 それほどシンプルで、何を伝えたいかが明確なミニアルバム。

 新しいCDを手にしたとき、まず最初に必ずン十年選手のCDコンポで聴くことにしている。単純に手元にある再生機器の中で、最も音が良いからということもあるのだけれど、デスクの真後ろの壁際にあるクローゼットの上にスピーカーが置いてある事も関係している。
 空間に響く音は正直なので、たとえヘッドフォンの方が良い音で聴けたとしても、作詞依頼でもない限りはなるべくスピーカーで聴く。
 そんな理由。

 私の場合、音楽の性質や自分に合うか合わないかは、大体最初の30秒(早ければ数秒)でわかってしまうため*1、『worldlink op.1』は、再生して椅子に戻る前に停止してディスクを取り出した。

 なぜかというと「外に出たくなった」からで、その時は外出する余力がなかったから。
 これは、座業や閉鎖空間にいる時間が長いひとほど顕著に表れるのではないかと思うのだけど、いかが?
 ちなみに、私は過去から現在に至るまで、どちらにも該当するので骨の髄まで染み渡った。なにせ後者については、勤務場所は図書館(館内は静粛に)だったのだから、この衝動からは逃れようがない。

 逆にあえてPCに向かった状態で聴こうとすると、1曲目の冒頭が不協和音に近いレベルに達する。
 少なくとも、私の場合はそう。

 というわけで、iPodに入れて近所を歩きながらイヤホンで聴いてみると、全く印象が違って二重に驚いた。一つ目は最初に書いた通りで、二つ目は冒頭から一気に曲に引き込まれたからだった。
 時刻は日付の変わった深夜だったけれど、もう寒くもないしむしろ日が出て来ると同時に風が強くなる昨今は都合が良かった。

 「Worldlink Established」は、テンポを作っていくあるいは伝えていく性質を強く持っていて、これはほぼ歩行移動と同期している。ここから目に見える景色と耳から聞こえる音楽がだんだん交じり合っていく。

 「Sank In The Sky」とは良く名づけたものだと思った。というのも、この曲を聴いているとき、意識せずに空を見上げたからだった。なぜって、次の瞬間に視界へ映り込んだのは──

 星空。

 自宅付近は近くに旧道があることも手伝って、近年──といってももう十年くらい経つけど──やたら明るくなった街灯のため、周辺の住宅の影に入らないと星が見えない。
 そもそも、意識して顔を上げないと空は見えない。

 ところで、『らじおぞんで』という超高難易度弾幕STGにこんな一説がある。

─僕等は空に輝く 沢山の下らない星々の一つだった。
 出来ることなら ずっと そんな下らない星でいたかった─

 自作については、実はこれが理想とする形の一つでもある。
 だって、空を見れば絶対見えるし、視界に留まれるか、好まれるか否かは別にしてもそこにあり続けることはできるでしょ?
 そんなわけで、この作品から受けた影響は強く、ぞんで以前とぞんで以後で、私の文章は変異している。ぶっちゃけると、2004年以降で、つまり本格的に作詞を始めた頃だったりする。
 これを自分の中から引っ張り出されたのには参った。

 閑話休題

 「Dim Of Dusk」は、中間に位置する曲ということもあって、ちょっと冒険してみたくなる。大体、どの道がどこに繋がっているかわかっているのだけれど、あえて奇妙なルートを選んでみたくなる。曲がるつもりのなかった角で曲がってみたくなる。もう少し遠くへ行ってみたくなる。
 たぶん、音楽としての主張が強いのはこの曲だと思う。

 「Way Home」。これもよくぞ名づけたりとしか言いようがなくて、この曲に入ると、そろそろ帰ろうかなあ、という心地になる。この曲があるからアルバムとして成立していると言っても過言ではないと思うし、たぶんそういう意図か彼自身が見せたいテンポとかリズム(音楽のではなく生体の)の現れではないのかなあ、などと思った。
 実際、この時点で16分48秒経過で、この曲は5分34秒なので4曲目でありながら、一曲で折り返し地点になっている。
 というのも、行きより帰りの方が急ぎ足になるから。

 「Feedbackloop」。CPNL-0012のシングル持ってないちくせう……ではなくて、もともと「studioCampanella 15周年活動記念トリビュート企画CD『Resonances』と同企画本『ほしめぐり』」に合わせて作られた曲なので、これだけちょっと毛色が違う。
 とはいえ、この時点から『worldlink op.1』の構想があったのか方向性は同じで、曲の性質と相まってそれまでの4曲を取りまとめる役を担っていると思う。
 この曲は全曲中最も長いので、少し急ぎ足で帰路についても大体ちょうどいい位置に辿り着いている。

 各曲ごとに書いてみるとこんな感じかな。
 それぞれファーストインプレッションが書いてあるけれど、実際には似たようなことを数度繰り返していて、この前は「Feedbackloop」に入ったときに自宅からさほど離れていない位置にいるにもかかわらず「あれ、ここどこだ?」となったことがある。

 冒頭で書いたことに話を戻すと、歩きながら聴いている間もあれこれ考えてはいるのだけど、椅子の上で「うんうん」考えているようなことは完全に忘れていて、ふとした瞬間に「あ、それだ」というように思い出すように思いつく。
 いずれにせよ「うんうん」考えているようなときは、大抵行き詰まっているので一回離れた方がいい。
 離れた方がいいのだけど、そう簡単に引き離せるものではない。
 そんな状態が悪化傾向にあったので、「考えを整理するのに良いのでは?」と思ってM3直前にbermeiさんに取り置きをお願いしてまで手に入れたのだけど、当初の想定とは全く違う聴き方をしている。
 思考をうながすのではなく、思考を停止するために絶大な効果を発揮している。

 私はこれをbermeiリセットと呼んでいる。
 
 どうせいざ机に向かえば、思いついたことを書かずにはいられず、こういうとき聴く音楽は、現在個人的トランスの二強HSPさん(=鼻そうめんPさん=Hiroyuki ODAさん)CTさん(=Clean Tearsさん)の曲から入る。

 つまり、いま現在「bermeiリセット→HSP&CTトランス」という流れが自分の中に形成されつつある。

 『worldlink op.1』については、実は列車の中でも聴いてみたのだけど、一度この感覚を知ってしまうとどうもしっくりこない。
 自力で動かないと響かないのだ。
 特に運動不足の私は(‥;


 M3こぼれ話。
 はっきり言って健康体とは言えない状態なので、以前TwitterのDMで少し突っ込んだやり取りをしたnkさんのブースで挨拶ついでにちょっとその話題を出したところ、30分無停止ウォーキングなる手法を教えてもらった。
 その後、閉会間近になってようやくbermeiさんのブースに辿り着き、その話を絡めつつ話していると、是非にと実践してみることを勧められる。それから、ちょっとびっくりするような話を聞かされたりしつつ、「以前より痩せたけど、顔つきは良い感じ」と嬉しい言葉をもらった。
 彼は少ない言葉で核心を突く。


 さあ、大体ネタは割れてきたな。
 最初はすっかり忘れていたのだけれど、二回目からiPodを片手に実践してみると本当に無停止(交差点などは例外として)で30分歩けてしまう。個人的な感覚だけど、音楽を聴きながら歩いているときの方が疲れない。
 『worldlink op.1』の総再生時間は28分42秒。
 私から「30分」という数字を聴いた瞬間、推しが強くなった理由が良くわかった。鋭い。あざといのではなく、鋭いのである。自分のCDの長さと、私が和尚さん(nkさんのこと)の助言を無視できない性質だということが瞬間的に結びつけられたに違いない。鋭い。

 私のように明確な指標や目安があった方がやりやすい人間にとっては、この30分かつ無停止でというのは大きなポイントで、時間のやり繰り(忙しいのではなく私が下手なだけ)と天候さえ合致すれば、ウォーキングに出られるようになった。
 それから、これも重要な要素だと判明したので書いておくと、歩いていてつまらない場所はどうやっても続かない。
 というのも、nkさん本人が「良いとわかっていながら続けられなくて……あ、歩いている場所がつまらないんだ」と言っていたからで、私の場合は実家のある周辺地図は頭の中にあるようなところに住んでいるものの、歩いていてつまらないと思ったことはない。
 町はあれこれ様相を変えているが、そんなことは関係なく、外に出ると必ず目にはいるのがNTTの鉄塔で、高い建物なんてそうざらにないから私の中ではランドマークになっている。
 そして、私はあの鉄塔を見るのが好きだったりする。
 30分という時間を考慮すると、あの鉄塔が見える範囲が大体の目安になるので、道順をどう変えようが距離を取ろうが見てはわかるものがそこにあるから戻るタイミングが図りやすい。
 これに加えて『worldlink op.1』の28分42秒という再生時間は、きわめて合理的に作用する。

 でもこれって、nkさんと知り合っていなければ有り得なかったことで、私に彼を紹介したのは誰であろうbermeiさんなのだ。
 見事なまでのFeedbackloopである。

*1:これは浅草橋時代のM3で外周サークルを順繰りに試聴していくいう阿呆な真似をしたためだと思われる

『7文字でつながる連作超短編を書こう! 2015』

この本について、サイトの方には結構長くトップに載せていたけれど、ブログには一切触れていなかったことにいまさら気づきました。

amazonの在庫もなくなっているし(2016.1/19時点)。

ごめんなさい。

画像を見ての通り、参加者がやたら多いです。総勢五十人です。
どこかで見た名前があるなー、と思ったらまず本人で間違いないでしょう。
主催は秋山真琴さん(雲上回廊)と加楽幽明さん(闇擽)の2サークルなんですが、参加者の中に個人サークルを運営しているひともいるので(私のように維持だけしているひとも含めて)、サークル数だけでも結構な数になりますね。

事の発端はおそらく、2015年を迎えるにあたって七年前(2008年)にやった七文字企画をやってみよう、という秋山さん(id:sinden)の思いつきでしょう。
2008年のときは、mixiでトピックを立てて参加者だけアクセスできるようにして、500文字の字数制限(超短篇の目安)と「前者の作品から任意の七文字を抜粋して使う」というルールで掲示板で書いたんです。

そういう企画の場に使うのには向いていましたね、mixi
いっぽうで、人を集めるならTwitterの方が早いですね。

話を戻すと、今回の人選は秋山さんと加楽さんが相談して声かけ(メール)して集めたそうです。
というわけで、自作について少し書きます。

参加表明をした後に「前の方にしてね(はあと)」みたいな希望を出したら、前回と同じく二番目に配置されました。
それから企画サイトができて、いよいよ最初の作品(秋山真琴著)が送られてきたとき、一読して「好きなものを書いたなー」というのと挑戦状を送りつけられた気分になりました。
というのも、第二走者(リレー小説なので)から見ると、七年前と同じような終わりかたをしていて、しかも今回は七年前より「七文字さえ継承すれば他に制限はなにもありません」というフリーダムっぷり。

どうしよう? いや、どうしてくれようか? というのが当時の本音です。

幸い次の葉原のぶよさんがなにを書いても適当(適切妥当)に書いてくれそうだったので、少しばかり暴走することにしました。
まず前回と同じくヒロインを出すことにしたのですが、秋山さんの好きなツーテールツインテール)のヘアスタイルは、前回そうとは知らずに出したので(しかも偶然、描いた特徴が微妙に初音ミクに似ていた)使えない。
そこで、ポニテにしたわけですよ。
本当は絵的(挿し絵ありませんけど)にうなじが見える髪型が良かったのですが、描写に字数を食うのでこれは止めました。

あとこれは私のごく個人的な主義なのですが、挿し絵があるにせよないにせよ極端な字数制限のない小説でキャラクター(=登場人物)の容姿を描かないことは手抜きに等しい、と思っているので情景描写の他に人物の描写に500文字程度しか使えないのに字数を割いています。
なぜって、それもキャラクターを構成する要素だからです。
私の場合、視覚情報を重視するので誰の視点で、どう見せるのかによって、このバランスは変わってきますが、今回は三人称のデフォルトやや控えめ(字数制限があるため)でやりました。
それから聴覚情報も大事にしているつもりなので、どういう声かを書くよりなんとなく聞こえそうな台詞回しにしてあります。まあ、こいつならこういう言い方するだろう、みたいな考えです。
いっぽうで、擬音語はいわばゲージ消費のため撃ちに等しい、と思っているため滅多に使いません。

もともと、サイバーパンクやSF寄りの人間なので、なんかメカ出したかったんですけどもさすがに字数が足りないので、DSR-1という知っている人は「ああ、あれか」という見た目がメカメカしいスナイパーライフルで我慢しました。

歴史やら仏教関連の知識は、最初の就職先で必要に迫られて覚えたことで、他はそこからの延長線上にある知識なので、芋づる式に得たもので専門ではありません。それらも、好きではありますけども。

秋山さんの作品が「そのまま続きを書けそう」な終わりかただったので、これをCDでいうところのイントロに見立てて、いきなり違う雰囲気の曲調にしてすぱっと終わるかたちにしました。FO(フェードアウト)ではないあるいは、ほとんどない感じにして「こっからが幕開けだー」とばかりに、最後の一行を書きました。
結果として、上手い具合に繋がったんじゃないかなあ、と思います。

葉原さんは超短篇界隈では有名なひとらしいのですが、上手く拾ってくれたなあ、と感謝しています。
秋山さんの作品が一人称で閉鎖的だったので、あえて領域が限定されているような閉鎖性を前面に出してから最後に開放するというやりかたで書いたのですが(夜なのも夜光色をイメージしたから)、葉原さんは色々な意味で明るい世界を描いていて、結果的に前後の作品との連携で成り立っていると思います、これ。

今回目指したのは、本来小説ではまず表現できないであろう映像/音楽におけるな表現されるものを書いてみることでした。
先に視点について書きましたが、この作品に関してはカメラがありカメラワークがあり、秒数と同期した曲の展開があります。作者的に。
でも、作詞するときに使っている部分は一切稼働させていなかったんですよね。

仰々しい題名はいわゆる外行き仕様で、核になっているのは『Passage(パサージュ)』です。

この『7文字でつながる連作超短編を書こう! 2015』は、基本的にどこから読んでも問題ない仕様ですが、大抵のひとは最初から読むと思うので先を読んでもらえるよう心がけました。
始まりから情報量が多い割りに、流しても構わんくらいな勢いで駆け抜けるように終わるのはそのためです。

在庫はまだあるのかな?
というより、何部刷ったのか私知りません。
フルカラーカバー付きで134ページ(表紙込み)で頒価が500円だから、完売で赤を出さない想定なら400部くらいかな。

ちなみに、頂いた著者献本はこういうところに置いてあります。