はじめてのハヤカワ文庫フェア『戦闘妖精・雪風』に寄せて

承前

 早川書房さんが六月二日より開催している「早川書房フォロワー5万人が選ぶ! はじめてのハヤカワ文庫フェア」において、神林長平先生の『戦闘妖精・雪風』の帯に私が書いた推薦文が採用されました。

 当時は「Twitterフォロワー5万人突破記念」と題して、「あなたが『最初のハヤカワ文庫』を人におすすめするなら、どの作品ですか…?」という主旨で「#早川書房5万」というハッシュタグを使ったごく単純な推薦アンケートでした。
 この際に、早川書房公式アカウントがリツイートをすることはあっても、こうしたフェアがあるということは知らされていませんでした。少なくとも、私は全く知らずに『戦闘妖精・雪風』を薦めるツイートを書いただけです。ちなみに、当時は特に反応が無かったので、「ですよねー」と思ってました(笑)。

 神林長平先生の、しかもあの『戦闘妖精・雪風』の帯に自分の文章が掲載されることは、後にも先にもこれが最初で最後でしょう。一期一会を噛みしめつつ、読者献本は保存用として保管し、戴いたブックカバーは有難く活用しております。

f:id:shisiki:20170617003122j:plain

 このような感じです。

 アカウント名は無記名も選択できたのですが、文責という意味合いを込めて記名に同意しました。
 相変わらず、こういうところはお堅い私です。
 もっとも、黒子として文章を書いてン年が経過していることもあり、自分自身の名を出す必要があるかないかで判断するようになっていることもあります。

 それはさておきまして、ブログならではの長文で、『戦闘妖精・雪風』との出会いについて書いてみたいと思います。ちなみに、この承前の文章、下記の本文を書いてから説明がないことに気づいて後から書いたものだったりします(苦笑)。

 

 その名は「雪風

  はたして、あの時の自分が中学生だったのか高校生だったのか、よく覚えていない。夏か冬かも覚えていないが、その名をはじめて知ったのはコミケ会場だった。
 コミケには中学二年くらいから友人の誘いで行くようになり、その後M3やコミティアと行動範囲は拡大していったのだが、それはまあさておいておこう。
 あの頃、十代の自分にとってのコミケというイベントは「TVでも漫画でも見たことのない素敵なメカが描かれた本を売っているお祭りみたいな場所」という認識だった。
 冗談ではない、本当である。
 実際、オリジナルのメカ本は多くあって、その中でジャンルは多岐に渡った。必然的に、そうしたメカや特撮、ミリタリー、SF関係の同人誌を扱ったブースを多く回って、二次創作と知るやサークルの人に知らないロボットのことを聞いたり(ガーランドとかゼオライマーとかレガシアムとか)、「アートミックってなんですか?」などと無知丸出しの質問を投げかけていた。
 困ったガキである。
 そんな時、あるブースに飾られていたジェット戦闘機の模型が目に留まった。あのサイズなら、おそらく1/144であろう。当時の印象は良く覚えている。

「なんだろう? このF-14F-15の合わせたような格好良い戦闘機は?」

 F-15Eを知らなかったこともあるが、機首やエアインテーク周りの形状とミサイルの取りつけ位置からF-14を想起したのだと思う。

 

 双発複座、クリップドデルタの主翼カナード水平尾翼のスリーサーフィス、双垂直尾翼ベントラルフィンにベクターノズル、機首に小さく雪風の文字。

 

 そんな言葉は当時は知らないのでF-15F-14かと思いながらも、なんだこいつは? の一言に尽きた。
 携帯電話なんか持っていないから、サークルの人にお願いしてじっくり見させてもらった後、ただひと言聞いた。

 

「この戦闘機はなんですか?」
「ああ。これは『戦闘妖精・雪風』という小説に出てくる雪風という戦闘偵察機フルスクラッチで作ったんですよ」

 

 その人は、スーパーシルフともシルフィードとも言わなかった。
 ただ、「雪風」と言った。

 しかも、私がある程度、模型についての知識を持っていることを知った上での発言なので、フルスクラッチという言葉が出ているが、雪風については端的かつ正確に戦闘偵察機としか言っていない。

 

 端的でありながら淡泊ではなく、要点を正確に押さえた言葉。

 

 私はその時、フェアリィ星人に会ったのかもしれない。あるいは、FAF広報部コミケット特派員だったのかも。

 さて、この結果どういうことになったかと言えば、雪風の存在はその模型のシルエットとともにあり続けた。
 残念ながら、ハヤカワ文庫や創元SF文庫に手を出すのは二十代になってからのことで、十代の頃は本屋の棚から消滅寸前の朝日ソノラマを好んで読んでいた。というより、もうあちこちで姿を消し始めていた。
 そもそも架空戦記からSFへ移行していったので、必然的に徳間や中央公論が並ぶ棚をさまよっていた。航空小説も大好きだったので、集英社講談社、光文社辺りの棚をうろついており、なかなか早川書房の棚に辿り着けなった。


戦闘妖精との邂逅

 きっかけは些細なことだった。
 時折、読んでいる作品の中に出て来るSFの名著の数々がわからない。読んだことがない。どこにある、と探した。そして、ハヤカワ文庫に辿り着いた。

 Twitterにも書いたが、最初に読んだハヤカワ文庫は、PKディックだったのか、ティプトリーだったのか、はたまたハインラインだったのか……「(苦笑いで)覚えてない」と答えるしかない。
 ただ、最初に読んだ神林長平作品は『戦闘妖精・雪風』である。
 時期としては、OVAが発売される直前くらいだろうか。
 表紙のスーパシルフ・雪風横山宏版から長谷川正治版になり、『戦闘妖精・雪風〈改〉』として再版された頃である。
 あれだけ思わせぶりなことを書いておいて申し訳ないが、ここに至るまでの間が全くの空白で存在すら忘れていたのである。
 しかし、当時の記憶はしっかり残っていて、読んでいる間に脳裏を飛翔していたのは、あの時見た模型をそのまま実機にしたような雪風だった。
 特に「フェアリィ・冬」のラストではこのイメージが強く、「浮け、雪風」のシーンで『レドームが突き抜けた空間』は、“どの視点”から見てもあの雪風以外に考えられない。
 これは、後にOVAで動的な絵として強烈な印象を焼きつけられた山下いくと版スーパーシルフが現れてもなお揺るぎない。その代わり、FRX-99(レイフ)と次の『グッドラック 戦闘妖精・雪風』で出てくる特殊戦七番機ランヴァボンは、山下版スーパーシルフになっているが。

 そこにあったのはまさしく「端的でありながら淡泊ではなく、要点を正確に押さえた言葉の群れ」に他ならなかった。

 いまに至るまで、何度も何度も読み返している。最も多く読んでいる神林作品であり、最も多く読んでいるハヤカワ文庫である。
 この特徴的な文体がその後、ファンの間で神林言語と呼ばれていることを知るのだが、実のところ「それがどうした」というブーメラン戦士じみた不遜なひと言が私の回答でもある。
 『雪風』は『雪風』ではないか、と。

 

対比意識

 『戦闘妖精・雪風』においては、様々な地球製コンピュータが機械知性体と総称されることがある。地球製とあるのは、フェアリィ星は物語の舞台であると同時に地球人類であるFAF(フェアリィ空軍)と謎の異星体ジャムとの戦場でもあるためである。

 地球製とは言うが、正確には人類製(対義語はジャム製)とした方が適当なのかもしれない。
 この世界において、仮にフェアリィ製なるものがあるとしたら、それはFAFの人間が作ったものではないか、と思うからだ。

 通路と呼ばれる超空間通路によって、地球の南極がフェアリィ星に接続されてしまった世界。人類は初期の抵抗でジャムを通路の向こう側にあるフェアリィ星に押し込み、基地を築き地球への侵攻を阻んでいる。それから三十年、ジャムとの戦いは続いている。
 これが『戦闘妖精・雪風』の物語の背景だが、三十年も経てばフェアリィ星での出来事は地球の人々にとって対岸の火事になってしまう。
 『戦闘妖精・雪風』の序章にある架空の書籍『ジ・インベーダー』において、「いつの時代のものでもよい、世界地図を広げたとき、そのどこにも戦争、紛争、対立の示されていない世界地図など例外中の例外である」とこの本の著者リン・ジャクスン(『雪風』の登場人物)は書いている。そして、それは『雪風』が最初に発行された当時の冷戦構造下にあった世界情勢を暗に示しているのだと思う。
 ちなみに、この見解は2002年に発行された『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』(早川書房)に掲載された東浩紀のコラムにも書いてあるが、私の見解は少し異なっている。『グッドラック 戦闘妖精・雪風』が刊行された当時も冷戦構造というわかりやすい対立がなくなっただけで、リン・ジャクスンの言葉に込められていた『戦闘妖精・雪風』の背景に潜んでいるものは、『グッドラック 戦闘妖精・雪風』でも変わっていないと思う。
 むしろ、前述したように「世界のあちこちで紛争や対立が絶えないのに、そうしたいさかいとは無縁な場所においては対岸の火事と化している」という警鐘を『戦士の休暇(グッドラック収録)』で鳴らしているように思えてならない。

 とまれ、『戦闘妖精・雪風』を読んでいると こうした現実の合わせ鏡を見ているような思いに駆られることはある。また、人間と機械、受容と拒絶、共生と対立、生と死、理解し合おうとすることと理解し得ないもの、といった対比が多く出てくるし、読んでいるうちにそうした対比を意識することが多々ある。

 対比と言えば、帯に採用された一文は、漢字とひらがなが混在している。

 ほとんど無意識だったのだが、この一文をそのまま使うことで対比の意識を含めることができると気づかされ、早川書房のセンスに「さすが」と思った。
 連絡を受けた際に修正しようかと悩んだ末、このまま使ってもらうことにしたのは、おそらく当時の自分が無意識のうちに漢字とひらがなの混在をそのままにしたのだろう、と考えたからだった。
 『戦闘妖精・雪風』という作品には、そう思わされてしまうところもある。面白い。


妖精の虚像

 そもそも「ハヤカワ文庫で誰かに最初に薦めるとしたら何か?」というお題に対して、『たったひとつの冴えたやりかた』でも『冷たい方程式』でも『夏への扉』でも『華氏四五一度』でも『MOUSE(マウス)』でも『スワロウテイル』でもなく『戦闘妖精・雪風』が思い浮かんだのは、空戦ものとして読んでしまっても良いし、人間模様を読み込んでも良いし、物語全体を捉えて思考にふけるのも良い……そういう多様な読み方が出来ると思ったからだった。
 そして、そういう多様な読み方を年月の経過とともに、読んだ人が自分の中でできると思ったからだった。

 読みやすさという部分も当然考えていて、『戦闘妖精・雪風』は短編の集合体が結果として長編になっている小説なので、一気に読まなくとも良いという部分も大きかった。

 本に限らず、ある作品を誰かに薦めるという行為は、きわめて難しいことだと思っている。
 単純に気に入ったものを「これ面白かったよー」と報告と共感を求めて、話題に出すなら細かいことは考えなくてもいい。相手が興味を抱いてくれればしめたものだし、共感が得られなければそれまでだからだ。

 しかし、本気で作品を薦めるとなると、相手が誰であれ難易度はぐんと上がる。
 どの作品を、なんと言って、どう薦めるか。
 猛烈に悩む。

 大体からして、感想を書くのだって難しいのである。
 もっとも、感想については「自分が恥ずかしくなければ、思いの丈をぶちまければ良い」と思っているのだけど、その思いをどう言葉にするかが難しいのである。

 そういった自分自身の内心の葛藤も含めた上で、『戦闘妖精・雪風』についての言葉は簡潔に出てきた。そして、その事にあまり驚かなかった。もっとも、早川書房から連絡が来たときは仰天したが。
 いきなり操縦席に放り込まれて、目の前のディスプレイでやり取りを始めたような心地だった。

f:id:shisiki:20170619125035j:plain

 この画像はTwitterで告知するからには、少しは宣伝らしくしようと思って作ったものだが、連絡を受けた私自身の心象風景でもある。

 『戦闘妖精・雪風』シリーズは、現在『戦闘妖精・雪風〈改〉』、『グッドラック 戦闘妖精・雪風』、『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』が全てハヤカワ文庫(ハヤカワJA)から刊行されている。どれも好きだが何度も読み返してしまうのは、やはり『戦闘妖精・雪風〈改〉』である。


f:id:shisiki:20170617003123j:plain

  この『雪風』を読むとき、私の脳裏にはいつもあの時見た模型そのままの実機がフェアリィ星の空を飛んでいる。

 

※文中、一部敬称略とさせていただきました。


 

www.hayakawa-online.co.jp

はじめてのハヤカワ文庫フェア (詳細)

 

はてなブログに移行しました。

はてなダイアリーからはてなブログ

 正直、ブログに関しては「もうなくても良いかもしれない」くらいに思っていました。いまのところあえて削除する必然性も見当たらないので、現状維持という名の放置状態のままにしていた、というのが本当のところです。
 サイトの方は存在そのものに意味があるのと、最近「私の情報を更新しないまま、過去の私の情報で第三者に話すひと」がいることを知り、頭を抱える事態がありAboutを修正しました。


 これも最近のことなのですが、「相手の考えを変えるより自分のやりかた変えた方が早いし楽(ただし、相手に考えをあらためて貰う必要がある場合は除く)」という思考に至りました。

 上記の問題ついては、サイトなりTwitter(目につきやすい)のプロフィールをちゃんと書いておけば、どっちが正しいかは一目瞭然ですよね。実際に会う場合は、私本人が話せば良いわけですし。
 というわけで、比較的緩めに──有り体に言えばいい加減に──書いていたAbout部分もそれなりに真面目に書き直したのでした。この名義でやってないことも絡めて書いたため、いわゆるお仕事履歴は書いてないんですけどね。
 これは、あのサイトに関してはプライベート寄りにしておきたい、という思いがあります。
 もっとも、インターネットという場に公開している以上、ある程度の公共性を帯びることは避けられないですけども。
 心持ちの問題です。

 

 そもそもなぜこの時期に移行したのか

  文芸同人界隈(正確には文芸に留まらない)でなにかと縁のある秋山真琴くんが「ありがとうダイアリー、よろしくブログ - 雲上四季」という記事を書いてまして、有料サービスの終了がはじまったことを知りました。
 これは、遠からずはてなダイアリーのサービスそのものが終了する可能性が出てきたのではあるまいか?
 実際問題としては、その時に考えれば良いですが、当面はサイトの維持が必要と判明し、移転作業に思いのほか手間取ったため、こちらも移転してしまおうと思った次第です。
 サービスが終了したら終了したで、「まあ仕方ないね」と流すのもありかと思ったのですが、ここでひねくれ者根性が顔を出しました。

 自分の意志で削除するのは構わないが、「サービス終了のお知らせ」で削除されてしまうのは気に入らない。

 それでも割り切らないといけないことはあるのですが、現状で選択肢があって、しかもその選択肢を先送りできる手段があるのなら、選んだ方がイイデショ? みたいなささやきに従ってみました。
 ささやきの主が天使なのか、悪魔なのか、ジャム*1なのか、ゴースト*2なのかはわかりませんが(苦笑)。

 

移行してみて

 ぶっちゃけ、はてなダイアリーに慣れていると「UIが使いにくい」の一言に尽きます。

 中でも、画像のアップロード機能周りがイマイチ……と思ったのですが*3
 画面解像度の向上に伴って、ブログに画像をアップすると主張がすさまじいのです。
 これは、どういう画像をアップするか、そも画像を掲載する目的は何か、によって変わってくる部分です。
 そこで閲覧者の立場に移動してみると、あえて必要がなければ文字だけで“も”いいじゃん、という結論に至りました。
 結局ここも心持ち次第だなあ、と一時は不満を抱いたものの思い直しました。


 今後どこまでブログを活用していくのか?
 ある日突然「ブログは終了しました」とサイトに書く日が来るのではないのか?


 こうした疑問が自分の中にある時点で、気にするほどのことでもないかー、となりました。


はてなだったわけ

 ついでに舞台裏のお話を一つ。
 もともと、はてなダイアリーを使おうと思ったのは、その当時はてなキーワードの利便性が高かったからです。これのいいところは、記事を書いている人にとっては周知の事実でも読んでいる側からすれば「なんぞ?」と首を傾げてしまう単語をブログ側の機能で補えるところにありました。
 しかし、近年はキーワードを編集する人が少なくなってきて、あんまり役に立ってないという思いを抱いていたからです(私自身も久しく書いていません)。それに、私の場合は自力で調べた方が早いからです。

 あんたといっしょにするな。


 もちろん、承知しております。
 大体からして、私が書く内容で補う必要のある言葉は、極度に専門性が高いか(大抵は図書館関連か模型関連)、ニッチな趣味(何とは言いませんが)だったりするので、どのみち補註を書くことになるからです。
 あとは、端から「わかる人だけわかっていただければ良いです」と思っている内容、つまり読者層を限定しているケースですね。
 サポート対象外です、と言われるケースですね(なんと嫌なたとえだろう!)。


とりあえずのブログの立ち位置

 サイトトップに書くには情報量が多すぎる事柄や逆にサイトトップに書くほどのことでもない徒然、機会と余裕があれば音楽や本のレビュー、模型雑記などを掲載する場所としたいと考えています。
 あと、万が一サイトを更新できなくったときの避難所としての使うことですね。
 正直なところ、古い記事はとことん古いので恥ずかしいのですが、アーカイブの存在が信頼性に繋がることはありますからね。
 これは、自分自身が実感していることなので、いまのところは残しておきます。
 

 

 

*1:神林長平戦闘妖精・雪風』(ハヤカワ文庫)に出てくる異星体の名前。

*2:士郎正宗攻殻機動隊』(講談社)に出てくる概念

*3:見たままモードだとなぜか横長の写真が自動で縦長になる

CGSモビルワーカー


機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』よりCGSモビルワーカー(MW)を三日月・オーガス仕様っぽく作ってみました。キットは「HG IBO ARMS MSオプションセット1&CGSモビルワーカー」で、色を塗っただけで本体には手を入れていません。
このMWだけのためにオプションセット1を買ったのに、未塗装のまま長いこと放置していたのを一気に仕上げました。


フロント。


サイド。


リア。

火星の大地から。



様々な角度から。


実は鉄血の視聴を決定づけたメカがこいつです。
最初のPVでお目見えしたとき、これまでのガンダムだったらこういうメカは戦闘で活躍する事もなく、デザインも――恐らく意図的に――野暮ったいものだったのですが、鉄血のMWは八面六臂の活躍振りを期待させてくれました。
実際、第一期では明らかに主力でしたからね。


あおりの一枚はなかなか雰囲気で出てるかも。


あんまり良く見えませんが、ボディ前部左右のウィンカーっぽいライトと銃のセンサーは塗ってあります。


射撃態勢。


待機姿勢。


窓の塗装が粗いのが気になるところなのですが、実戦にしょっちゅう狩り出されている機体なんてわりとこんなもんなのかも。


そんなわけで、ボディの白もあえて均一にならないように塗っています。


小さいのでいざ写真を撮るとなると、どうしても上側からになりがちです。


何気に後ろ姿がいかしていると思うのです。


この型のMWは、第一期のほぼ全編にわたって登場しますが、三日月の白、明弘の水色、シノの赤紫の機体は、第1話と2話にしか出てこないんですよね。

一度やってみたかった一円玉比較。

このくらいのサイズです。操縦席部分の窓は、精密面相筆があればもうちょっと頑張れたかも……と思いましたが、それ以前にルーペが必要でしょうね。
自分の工作技術の限界を感じました。


ヴァルケンシューティングゲームヒストリカ)と並べてみる。
これくらいのサイズ比だと群で来られると脅威になりそうですね。


スティレットフレームアームズ)と並べてみる。
蹴っ飛ばされそうですね。
実際劇中で足蹴にされていましたが。

カラーレシピ(基本的に筆塗り)
・下地:なし。
・本体白:ガンダムカラー(ラッカー)・ホワイト5(古いカラーセットの白)
・本体グレー:タミヤ(エナメル)・ジャーマングレー
・車輪:タミヤ(エナメル)・ラバーブラック
・武装:Mrカラー(ラッカー)・ジャーマングレイ
・表面処理:Mrカラー(ラッカー)つや消しスプレー
・本体及び武装センサー:ガンダムマーカー(ラッカー)・メタリックグリーン
・本体ライト:ガンダムマーカースミ入れ用ブラウン+水性顔料マジック赤
・スミ入れ:タミヤ(エナメル)スミ入れ塗料ブラック

もっとも苦戦したのが本体ライトで、塗る面積が狭いためかはたまた保管してあった塗料が古かったのかどうしても色が定着せず、それならばとあるもので組み合わせてみました。
本体の白はもともと少し灰色がかった白なのですが、サーフェイサーをあえて使わず濃いグリーンの成形色を下地にする形で青味を出す試みをしています。個人的には成功で、二度塗りしたらほぼ狙った色になりました。
この白に対してつや消しを強めに吹いてから、スミ入れブラックを全体に塗って少し放置してから拭き取るというウェザリングっぽいことをしています。
操縦席の窓は、最初エナメルのジャーマングレーで塗ろうとしたのですが、いやあはみ出る事はみ出る事……。塗ってもはみ出るし、はみ出た部分を綿棒などで拭うと窓も拭ってしまうというループに陥りかけたところで、楊枝の先端に薄め液をつけて白を削り取るという方法を採りました。
それから、冬場なのでそこまで気を遣わなくても大丈夫なのですが、乾燥させる時間を長めに取っています。大体、一回の塗装に付き一日です。

『ゆる本Vol.30,31』の補遺など備忘録

 うちのサイトのAboutページをスクロールしていくと、寄稿先の情報が出てくるのですが、『ゆる本Vol.30』はオフセット誌なのにコピー誌となっていたのを修正しました。
 これ、自分が継続して寄稿していた頃はコピー誌だったため、秋山さんから著者献本を受け取るまでオフセットになっているとは思ってもなかったのです。受け取った時点で修正していないので、なにを言っても言い訳になりますが(‥;)

 文学フリマが全国展開をはじめて、文芸同人では毎度お世話になっている秋山さんの雲上回廊も全国行脚をはじめました。『ゆる本』もそれに合わせて発行されるため、『Vol.30(初頒は16年9月の文学フリマ岩手)』と『Vol.31(初頒は16年11月の文学フリマ東京)』を両方揃えている方はどれくらいいるのでしょう。なお、これより前のバックナンバーから読んでいる方はもっと少ないと思いますが、こちらは全て電子化されているため、勘定には入れません。

 ぶっちゃけ、今回“も”東京文フリには行けなかったので、実際のところ刷り部数に対してどれくらい出ているのか私は知りません。今年下半期はイベント*1に行くつもりで予定に組み込んでいても、いざその月になると別の予定が入ってきたり体調を崩したりして行けてません。

 話が逸れました。
 えっと、『ゆる本Vol.16』以降、私の短編小説にちらほらから登場する「千住きすか」というキャラクターがいます。『ゆる本Vol.30(『電信柱のキツツキ様』)』からきすかと「高崎舞羽《たかさきまいは》」という小娘二人をレギュラーキャラに据えたオムニバス形式で書くようにしたので、忘れる前に少し触れておこうと思いました。

 といっても、大したことじゃないんです。
 『ゆる本Vol.16』と『Vol.17』の千住きすかと『Vol.30』以降(『Vol.31(『Eternity Of Moment』)』含め)の私の作品に登場する千住きすかは、容姿も性格も変わってませんが同名異人です。当然ながら背景世界も違います。
 書く側の都合をぶっちゃけると、過去作のキャラをサルベージしてリライトしたためこうなりました。相方になる舞羽については、きすかと絡みやすいタイプを模索しつつある程度書いていて楽しめるキャラにしてみました。

 きすかは「なんとなく日本人っぽくない名前を平仮名で」という発想から名前を考えて、むかーし考えた「町の一角の(主に住環境の面における)権利を有している人間だから千住」というネタを掛け合わせてつけました。
 舞羽は、永久る〜ぷという同人ゲームサークル(現在は活動休止)のSTG『TWilight INSaniy』の三組目の双子主人公ホシミ姉妹の姉ホシミ マイハ(星海 舞羽)から名前を拝借しました。容姿も性格もまるっきり別人ですが。
 書いておかないと忘れそうなので、いま書いています。

 当初の目論見では『ゆる本』に限らず、このオムニバス短編を書いていくつもりでいたのですが、実際はそんな余裕はなく次も『ゆる本』への掲載と相成りました。
 9月の更新時にサイトトップに書いた「掲載の場が『ゆる本』になるとは限りませんが……」というひと言は当時のこうした考えからのものなのですが、現実は甘くないです。
 現実は甘くないです。

 ところで、『ゆる本Vol.30』は添田健一さんの『鳥占いし少女』の連載がはじまった号でもあり、私がこの号からオムニバス形式を採用したのはただの偶然です。
 添田さんからはTwitterで「偶然というよりも、常連寄稿者同士が雑誌の躍進を考えた結果という流れでしょうか」というリプライをいただきましたが、私はといえばその様な殊勝な心がけは微塵もなく、「連作を提供し続けられるフォーマットを作って書いてみる」という考えと刊行のタイミングが合ったからという理由でしたorz。

 『ゆる本』については、有難いことに購入してさらにはこの作品に言及してくれる人がいて、そこに来て同業者(この場合は添田さん)からも「次も是非是非」と背中を押されると、次も出さなければいけないのではないかという義務感に似たものを感じます。
 あと「次が出そうな作品」を世に出してしまったことに対する責任感のような意識の芽生えがあり、

 この様な葛藤が生じます。(出典:佐藤明機『ビブリオテーク・リヴ』コスミック)
 どうしよう?

 そして、もう一つ。自分の作風は「架空の存在を文章表現で可視化する(=想像力に働きかける)」ことが根底にあるので、添田さんの作風とこのやりかたが『ゆる本』という誌面で対照的な存在になってしまっているのでは? という問いの解を得るには続けてみるしかなく……。
 どうしよう?

 どうしよう? といえば久しくブログを書いていなかったので、宣伝とか感想とかなにかしら明確な意図のない記事の書き方を忘れかけています。
 それから、私自身の変化もあります。なにか気になったことがあって勢いで文章にしても、それを公開すること疑問を抱くようになり、最近では勢いで書く前に自分の中に留め置くようになりました。
 これが良いのか悪いのかわかるのは、たぶん五年か十年かそれくらい先じゃないかと思います。
 歯切れが悪いですが、こんなところでいったん結びます。

*1:麦酒夜宴とかM3秋とか麦酒夜宴とか

みなそこのレトロフューチャー/宵町めめ『龍宮町は海の底 1』

龍宮町は海の底 1巻 (ガムコミックスプラス)

龍宮町は海の底 1巻 (ガムコミックスプラス)

 現在、コミックガムにて連載中(水曜更新)。

 あらためて単行本で読んでみると、より鮮明に見えてくるところがあって面白いですね。以下、連載開始当時からTwitterでちょこちょこ感想をツイートしていたので、多少重複になると思います。

 単行本を手にして驚いたのは、扉絵(1ページ)でした。
 これが表紙でも本として十分通用するレベルで、小説だとしたらこれが表紙になっていたかもと思いました。
 かつて、図書館で幾度となく見てきた児童文学や一般文芸の四六判の表紙を彷彿させる、シンプルながら印象的なデザインです。あれ、一見どれも似かよっているようで、装丁は工夫がされているので、頭の片隅にでも覚えておくと、本を判別するときに楽なんですよね。背の請求記号のみに頼っていると、見間違えることがあるので……と話が逸れたので戻します。

 やはり、最初のハイライトは一話の冒頭で、まそらと澄音が教室から電車に乗り込むまでを描いた10ページの3、4コマですね。ここ、台詞も擬音もまーったくないのですが、たった2コマで校内から構内(まぎらわしい)への移動が体感として伝わってくるんですよ。
 これは連載当時も「おおっ」と思い書いたことなのですが、単行本で読んでみると2コマしか割いていないため、学校と駅との繋がりがどういうルートになっているのかがまったくわかりません。謎です。わかるのは、駅と学校が直結していることだけ。
 こうした謎が龍宮町という舞台そのものの謎を形成するピースになっていて、それが積み重なっていって、後半になって明確に「謎」として提示される部分が強調されて、不気味さすら伴うようになります。
 連載時に感じた得体の知れない不気味さは、こういうところに起因していたのかもしれません。「一話冒頭にして、作者の術中に!? やられたー」と手の平で顔をぱんとやってしまいました。

 龍宮町の町並みや学生寮の個人部屋の中などを見ていると、おおよそ1980後半から90年代初頭当時の日本と60〜80年代頃に描かれた未来予想図を掛け合わせたような印象があって、親近感が湧きます。
 言い換えると、子ども頃に読んだ図鑑だとか科学系の事典に載っていたような架空世界と当時の現実世界をそのままくっついているような感じなので、奇妙な懐かしさと「ありそう」と思えてしまう不思議な説得力があるんですね。
 ついでに、レトロフューチャーについてちょっと触れておくと、こうした作品は結構好きなのですが、大抵の作者は自分よりはるかに年上か(中には鬼籍に入っている人もいる)、二十歳以上年上か、少し年上か……とまあ、世代が上なのです。
 そうなると、レトロな部分に対する感覚も空想の領域になってしまうんです、私の場合。
 これはこれで面白いのですが、実感がありません。
 あえて想像の側に全てを割り振った例は、ダンボール模型作家である燈さんの第N区無人居住区でしょうか。

 龍宮町のレトロフューチャーは、この現実感「ああ、そういうのあった」とか「こういうこと空想してた」といった懐かしい匂いがします。
 この辺は世代にもよるでしょうが。
 世代にもよるでしょうが。

 自分は比較的初期に、この作品に対して「SF」という感想を述べたうちの一人だと思うのですが、きわどいところでSF考証と科学考証の深淵に入らない位置を保っているめめさんのバランス感覚は、素晴らしいと思います。
 たとえば、龍宮町の気密構造(潜水服を着て泳ぐ授業の出入りについてなど……)や海神神社について突っ込んでしまうと、そんだけで脳がショートします。前者については、深度何メートルにあって、だとしたら水圧はいくつで……と色々大変なことになります。

 あんまり書くとネタバレになってしまうので控えますが、まそらと澄音がある事件に関わったときに帯の言葉の意味がわかります。

「海の底に沈んだ町“龍宮町”。平和な町で青春を満喫していた“まそら”“澄音”。しかし、海底都市の魔の手はすぐそこまで迫っていた……!!」

 物語の中で、直に脅威と接する二人なのですが、それはトリガーに過ぎず本当の脅威はその先にあります。冷戦の核抑止による一触即発という緊張という現実がありながら、平和を享受していたバブル期の日本を彷彿させます。
 私はこまっしゃくれた子どもだったので、「いつ世界が吹っ飛んでもわからない状況なのに、どうしてこうも大人は暢気なのだろう」と疑問に思っていました。そうした意味で、自分の未来についてあんまり実感が湧かなかったのですね。そのくせ、好奇心が強かったものだから、負ではなく正の方向の可能性については興味津々でした。
 だから、まそらの気持ちは、非常に共感できます。

 まそらと澄音について、よくよく見ているとまそらがやや演技臭さのある少年のような振る舞いをしているところと、自然な動き方をしているところがあります。大抵、そこには澄音の心理状態が伴っていて、読んでいると実は一話時点の澄音がやや不安定な状態にあることに気づかされました。
 あと、同じ1日をそれぞれの視点から描いている第四話と第五話は、一冊にまとまっている単行本ならでは対比が強調されていてこれも連載で読んでいた人間にとっては、嬉しいポイントでした。

 個人的に好きなキャラは、学級委員長の品川有華です。容姿や性格もそうなのですが、等身大の中学三年生という点も好印象でした。
 と言いますか、あれほどの勢いはありませんでしが、ああいうタイプの女の子、まさに中学三年当時のクラスメイトにいました。
 まそらが怒濤のダメ出しを食らうシーンは、既視感すら覚えます(笑)。
 あとは、境先生ですね。

 先の展開が気になるところですが、個人的に気になっているのは「記憶と記録(日記)をどう関連づけているのか」というところですね。
 作者の宵待めめさんは、同人誌『川底幻燈』シリーズで記憶や思い出について、深く掘り下げて描いているので、日記や日記ポストが今後の話にどう絡んでくるのか、それともあえては触れないのか。いずれにせよ、一読者としては楽しみなところであります。

 個人的にも、作者的(本人談)にも「是非とも小中学生に読んで欲しい一作」なのですが……ごめんなさい、これは「おっさんホイホイ」だと思います。
 
 あとがきにあった海底都市の図ですが、おそらく学研の図鑑か子ども向けの科学系事典だと思います(註:この種の資料には、辞典ではなく事典を用います)。
 私もそうした本で見た記憶があります。

 はてさて、ネタバレ回避しようとすると、感想を書くのって物凄く難しいですね!
 最近ではあまり見られなくなってしまったタイプの作品であり、これは衰退したのではなく書き手がいなくなったというのが私の見解です。
 そうしたわけで、みなそこのレトロフューチャーに触れてみませんか?