ウィトゲンシュタイン/野矢茂樹 訳『論理哲学論考』岩波文庫

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 

 知人が「『論理哲学論考(以降『論考』と略す』)』は数式が出てきたところで挫折した」と書いていたのだが、いまあらためて読んでみると“過去の自分が数式をすっ飛ばして読んでいた”ことが判明した。

 こうした読書が必要だと思ったから、『論理哲学的論考』を手に取ったので、大っ嫌いな数式にも向き合うことができた。覚悟ができていたのかもしれない。
 そうして気づいたのは、なにゆえウィトゲンシュタインが『論考』で数式を用いたのか、ということだ。

 おそらく、「どの言語に訳されても数式は数式のまま表されるから」ではなかろうか。ウィトゲンシュタイン自身がラッセルの解説について「英語からドイツ語への翻訳時の変化」を問題視しているように。

 そこで、専門家ではない読者(つまり私だ)は、訳注に頼ることになる。個人的に岩波文庫の訳注は「参照しにくく余談が多い」印象が強かったのだが、この『論考』の訳注は必要なことあるいは、必要と思われることだけが書いてあった。

 そのため、数式が出てくると訳注をもとに適宜日本語に変換して読んでいた。数式については、「数式という形」で内容を表している場合もあるので(ぶっちゃけ図もある)、この場合は形として解釈できた、と思う。ただし、全体記号だけは踏まえておかないと読めなかったけれども。


 むしろ、前半では「ア・プリオリ=経験的認識に先立つ」、後半では「トートロジー(同語反復)≒論理空間全域において真になる命題」という認識がないと苦労すると思う。しかも、ここでさえトートロジーに対しては「≒(ほとんど等しい)」を用いたように、何度も同じ訳注を見る羽目になった。なお、『論考』においてトートロジーについて同語反復という記述はない。ただ、トートロジーという言葉に対して同語反復という訳語が存在するため、読む際に頭の隅に置いておいた(楽だった)。

 本文を読んだ後に、ラッセルの解説に対して首をひねったのは、訳注を読む限りでは正しい反応だったらしい。解釈が間違っていると書いてあるし、ウィトゲンシュタイン自身もラッセルの『論考』の解釈には異を唱えていたらしい。


 最後にある翻訳者の解説もわかりやすく助かる。私が持っている岩波の『論考』は、初刷が2003年8月19日の第19刷(2012年12月25日)ものなので、2003年以前に刊行された同著と比べると格段に読みやすくなっていると思う。

 私が初めて『論考』に触れたのは、大学一年か二年の頃でありかつ大学図書館の蔵書だったと記憶しているので、これより古く読みにくかったのではないかと思う。もっとも、当時読んだ記憶が完全に揮発しており、かつ前述の通り数式を読み飛ばしていたことだけは明らかなので、読んでいたとは言えないだろう。


 一方で、この当時不真面目に読んだ記憶が揮発していたため、先入観や記憶違いに惑わされることなく読めたのは僥倖だったと思う。


 とまあ、こんな本も読んでいるんですよ。とメモ代わりに。
 ちなみに、最近読んだ本の中ではヤーコブ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界(岩波文庫)』がとても面白かった。

 

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

 

『楽園追放-Expelled from Pradice-』はSFアニメファンのためのSFアニメ

 はじめに
 荒廃した地球を捨てた人類の98%は情報体となって地球と月の間にあるコロニー・ディーヴァ内のVR空間に移住していた。ときに西暦2400年、ディーヴァは地上からの執拗なハッキングを受けていた。保安局の命令により捜査官のアンジェラ(釘宮理恵)はハッキング犯を突き止めるべく、VR空間から地上に降りることとなる。アンジェラは仲間を出し抜くために地上活動用の体の生成を16歳で切り上げ、地上に残った人類の協力者であるディンゴ三木眞一郎)と凸凹コンビを組んでハッカーを捜すことになるのだが……。
 導入はまあこんな感じです。


最初に感じ取ったのはP.K.ディックの世界
 『ブレードランナー』が取り上げられるとき、必ずと言っていいほど序盤のアジア風未来都市の話題が上るのですが、私がこの映画を語るとしたら終盤の対決シーンです。

 なぜこれを引き合いに出したのかと言えば『楽園追放』の前半で、アンジェラがディンゴに話すディーヴァでの体験に「私は何百億光年むこうのガンマ線バーストを聞いたことがある」という台詞があるのですが、これもろに『ブレードランナー』のオマージュなんですよ(BR終盤のレプリカントの死に際の台詞に類似)。
 そして、映画『ブレードランナー』のイメージが強すぎるゆえに忘れられがちなのですが、原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』における重要なシーンは、廃虚と荒野が舞台になっています。

 と言ったわけで、特に強く反映されているのが『ブレードランナー』であり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』なのですが!
 これは、SFアニメファンのためのSFアニメです。


2014年までのSFアニメに対する賛辞であり宣言
 ぶっちゃけ『メガゾーン23』のパート1、2、3の全部を一つにまとめて、『FREEDOM』と合成させ独自にアレンジしたモノ、と言えば(私と)同好の士にはわかりやすいと思います。
 大体80年代半ば頃から0年代初頭にかけて作られた、OVA、TVアニメ、映画……そうした先達に敬意を払いつつ、「我々は2014年にいるあなた達の子孫の一人である」と言っている作品だと思います。

 すなわち、『王立宇宙軍オネアミスの翼~』、『メガゾーン23』、『メガゾーン23 PART2』、『レアガルフォース』、『レリックアーマー・レガシアム』、『メガゾーン23Ⅲ』、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ(除OVA)』、『マクロスプラス』、『serial experiments lain』、『TRIGUN-トライガン-』、『カウボーイビバップ』、『攻殻機動隊-GHOST IN THE SHELL-』、『青の6号』、『VIRUS-virus buster serge-』、『攻殻機動隊-STAND ALONE COMPLEX-』、『ヴァンドレッド』、『戦闘妖精雪風』、『FREEDOM』、『ICE-アイス-』、『翠星のガルガンチュア』……うむ、切りがなくなってきたぞ、ってくらいにそういうアニメばっかり好き好んで見てきた人間向けです。
 補足すると、実写を入れると際限が無くなり(特にAI関連)、書籍を含めると大変なことになるので省いてあります。
 
 それゆえに「そういう人間以外にこれをぶち当てて大丈夫なんかいな? いや、ハヤカワと創元をそれなりに読んでればいけるか?」と思ってしまったくらいです。
 
 娯楽としてのSFって誰もかれもが同じ事を繰り返し試行錯誤することでデータを更新し続けているアーカイブみたいなものなんじゃないかなあ? と最近思っていることもあります。
 ところで、列挙して驚いたのですが、ここに並ぶガンダム系列の作品がありません。ガンダムはSFじゃないなどとは言いませんが、この系統からは外れるってことですね。マクロスにしてもプラスじゃないと、引き合いに出す意味がないくらいです。
 しかし、『ガンダムセンチネル』がアニメ化されていたら、間違いなく入っていたでしょう。映像化はよ。


楽園≒ユートピアディストピアとポスト・アポカリプス
 ディーヴァが管理社会の側面を有し権限による格差が存在するためか、楽園=ディストピアという部分はたしかにあるのですが、管理の仕方はさておき社会貢献という点が重視されていることからすると、ユートピアの要素も併せ持っているように思えます。
 ユートピアは理想郷という意味ですが、しかしそれが「誰にとっての理想なのか」となったとき、ディーヴァならば「人類にとっての理想郷。すなわち楽園」となるのでしょうが、それはすなわち個人の幸福追求ではなく、集団(人類全体)の幸福追求であるがために、管理システムが必要となり結果的に管理社会かつ社会貢献度(世界の維持)に比例する格差を生み出しています。
 そして、ユートピアは、奴隷階層の存在を前提としています。
 このシステムは、ディーヴァという環境を維持するために必要不可欠なもので、個人の幸福追求が集団すなわち社会の幸福追求と矛盾した場合、社会的制裁が発動しその個人は反社会的存在として弾かれるわけです。この辺は、現実の、私達が生きている今の世界と同じです。
 しかし、ディーヴァがディストピアである由縁は、管理社会かつ格差が存在するということよりも、そこに生きる人々がそうした世界に疑問を抱いていないという点にあると思います。
 この格差を生み出してしまう社会貢献度についてディンゴから疑問を呈されたとき、アンジェラは「当然でしょ」と答えます。
 教育による思考誘導どころではありません、社会ぐるみの洗脳です。
 これこそが、ディーヴァがディストピアである由縁です。
 
 対して、地上(地球)はポスト・アポカリプス的な世界として描かれています。
 
 なんか小難しいことを書いているように思われるかもしれませんが、見ながら反射的に考えたことを出力しているだけです。
 私の思考がそういう方向にとんがっているだけです。


楽園とは
 『楽園追放』のサブタイトルは『-Expelled from Pradice-』であり、『Pradice Lost』ではないんですよね。虚淵氏がニトロプラスのライターであることを踏まえると、『パラダイスロスト(light)』というエロゲーを思い出します。
 さて、『楽園追放』の楽園とは、果たしてディーヴァのことなのでしょうかね?
 作中でディンゴとアンジェラは最初は同じタイミングで同じ選択肢を、次にそれぞれ異なるタイミングで同じ選択肢と向き合うことになります。
 これが示唆する場所はどちらもある意味では楽園なんじゃないかなあ、と思いながら見ていました。
 

物語の行き着く先について
 amazonだったかな? 「これは序章」といった主旨のレビューがあったのですが、私からすると「フルコースです、おなかいっぱいです」となります。
 商売のお話しはさておくと、この内容でこういう幕引きでよかったと思います。
 もし、アンジェラやディンゴが別の選択肢を選んでしまったり、フロンティアセッターが別のかたちで目的を達成してしまったら、すんごいもしゃもしゃしたと思います。

 欲を言うなら、少々テンポが良すぎてどんどん進んであっという間に終わってしまうので、アンジェラとディンゴの言葉をもっと入れて欲しいとも思いました。最初の少しぎくしゃくした関係での会話やその後、フロンティアセッターに接触するまでの間の会話シーンが話としての必要最低限なものに留まるため、もう少し無駄話をさせて欲しかったというのがあります。
 では、言葉が足りないのかというとそんな事は無く、映像作品の特性を最大限に活用していて、最初から最後まで表情や仕草から読み取れる言葉の数は膨大でした。
 個人的には、アンジェラがバイタンらしき麺類のスープに香辛料を入れてもらって「うあ、美味しい」って顔をするシーンと、「ごっそり戴いていくわよ」と言うときの悪い娘な顔が好きです。
 ついでに、私は「ロリババア最高!」な人間なので、身体年齢より精神年齢が上というのは非常にポイントが高い部分でもあります(いきなり性癖を暴露するな)。
 

アンジェラはあの時、なぜ目を見開いたのか
 これはネタバレです。
 終盤の戦闘シーンで一瞬、アンジェラがそれまで見せたことがないような驚きをあらわにするシーンがあります。
 目を見開き。動揺を露わにするシーンです。
 映像はスローから静止にいたり、カメラは上空から撃ち下ろすニューアーハンを横から引きで映しています。
 アーハンのコクピットは、全周モニターなので――機体の周囲360度を見渡せるので――、画面から視聴者が見ている光景をアンジェラはその中心から俯瞰で見える位置にいることになります。
 とはいえ、見える範囲もたかが知れているのですが、地球は丸いので遮蔽物の少ない荒野は結構遠くまで見渡せるんですよね。
 つまり自分が地上に降りて、自分の脚で移動した範囲がどの程度かは数字で知っていても、実感として理解していなかったことに、そしてこの瞬間に理解したことが伝わってくるんですよ。
 世界に対する自分の小ささを思い知った瞬間であり、視聴者に思い知らせる瞬間ではないかと思いました。
 これを察して、フロンティアセッターがあの問いを投げかけたのだとしたら、彼は相手に敬意を払い、相手をしっかり見ている証拠です。
 物語の構成とかそういう視点を持ち込むとシンプルな仕掛け方なのですけどね。
 そんなことは捨て置いて、素直に感動したいシーンです。


アーカイブの意味
 これ、わりと重要なテーマとして潜んでいます。作中でロックを知らないアンジェラ対して、ディンゴが「ディーヴァはさ。ありとあらゆる人類の文明をアーカイブしてんだろ。なのにロックがないのかい?」と問い掛けます。この時のアンジェラの回答はこちら。

「未来に残す必要もない。無価値なサブカルチャーと判断されたんでしょ」

 結論から言うと、アーカイブを作成する際には保存対象となるものに対して、恣意的な振り分けを行ってはいけません。ジャンルが「人類全体」のアーカイブだとしたら、それこそ役に立つかどうか、未来に残す価値があるかどうか、なんてどうでも良いのです。
 逆にアーカイブだからこそ「役に立たなかったものがあれば、これは役に立たなかったものです」と残さないと意味がないのです。
 この辺は私が元・図書館員であるがゆえの発想かもしれませんが、今年(2017年)の初めにまさしく「役に立たなかった技術の資料が必要なのに、図書館が残していない」という話を聞かされたからでもあります。
 まさしく、アーカイブに穴を見た思いがしました。
 そして、完全性を目指したゆえの振り分けを行ったゆえに、完全性を失ってしまうという矛盾でもあります。
 これを『楽園追放』は突き付けてきます。


虚淵さんはMZ23がお好き?
 一時期、ゲーム業界のお仕事に首を突っ込んでいたことがあるのですが、ここで驚いたのは自分が「マニアックな趣味」だと思っていた『メガゾーン23』が共通言語、あるいは基礎知識とされていることがままあったことです。
 特にエロゲー業界では顕著で、とある広報担当の方は「常識です」とまで仰っていました。私はガーランドが格好良かったから、レンタルビデオ店を探し回って見ただけなんですけどね。見ていたお陰で意外なところで、やり取りが楽になりました。
 さて、アーハンのコクピット、端末であるということ、高機動戦の描き方(板野サーカスの方ではなく荒牧リスペクト)、どう見てもガーランドです。本当にありがとう御座いました(歓喜)。
 そもそもディーヴァの誕生経緯やフロンティアセッターの目的からして、じつにそれっぽいんですよね。
 ニトロプラス作品にもそういうところがまれに顔を出すので、これって本当はこういうのが大好きなんじゃないかなあ、と思いました。
 『浄火の紋章』という『リベリオン』の二次創作も作ってますし、いわゆるグロかったりえぐい話は得意だけれどいちばん好きなものではないのかも、とすら思いました。
 まあ、『メガゾーン23』自体、かなりとんがった作品なんですけどね。メカ好きだったら世評がどれほど散々でも、Ⅲの前巻は絶対に見るべきです。E=XガーランドVSハーガンをのシーンのためだけに見て損はありません。
 ちなみに、音楽的にロックなのは最初の『メガゾーン23』で、内容がロックなのは『PART2』です。
 それから、映像において血液とか臓物とかそういう描写を前面に出してくる方は、板野サーカス板野一郎氏その人だったりします。


基底床にあるSF要素
 書いていて気づいたのですが、映像作品を見るときなにを重視するかという点は人によって違います。
 『楽園追放』は自分のように「言葉としては語られていない。表情や仕草、人物やものの動きやカメラワークにどどの様なメッセージや意図が込められているか、という演出」を重視している人にはわかりやすいと思います。
 現実と仮想現実とか、人間の定義とか、実現できている楽園と未知の可能性とか……そういうことがぜーんぶ映像の中にあるので、あれこれ解釈したり考える必要がないんですよね。
 これらの演出の地盤になっているのが過去の先達から受け継いできたSF要素であるがために、SF要素が奥に引っ込んでいる面白い構造をしているとも思いました。

 逆に、これを見てSFアニメを感じないということは、そうした作品が自分のアーカイブに少ないから、だと思います。
 良いも悪いもありません。
 この自分のアーカイブの偏りは、自分が自分である証拠です。
 これをどう活用して、どう外に反映させるかも、自分が自分である証拠です。

 だから、私は『楽園追放』が大好きです。
 今後、折に触れて見返すのだろうなあ、と思います。

 ところで、DVD同梱のブックレットにゴーギャンの絵からの引用があるのですが、これって私が大好きな言葉なんですよ。「あー、こりゃ好きなわけだ」と納得した次第です。

『われわれはどこから来たのか
 われわれは何者か
 われわれはどこへ行くのか――』

 

  ※このテキストは2017年7月29日に書いたものです。

 

2018年6月3日(日)追記

『楽園追放』プロデューサー野口光一氏インタビュー

ascii.jp

 記事は2015年2月7日。劇場公開の翌年のインタビュー。この記事を知らずに上記のテキストを書いたため、「楽園追放が80年代OVAテイストな理由」のくだりを読んで、思わず苦笑してしまった。 

 

伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』ハヤカワ文庫

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 人間の性質について語る際に、性善説性悪説が持ち出されることがありますが……。
 実際には、人間の善きも悪しきも、温かさも冷たさも、強さも弱さも、環境に起因するものなのですよね。そうした人間の在り方を、超巨大太陽フレアにより世界規模の大停電という天災を背景に描き出した作品です。
 なお、この環境というのは、いま身を置いている環境だけではなく、育った環境も引っくるめています。

 超巨大太陽フレアによる世界停電。明日訪れるかもしれない天災を肌で感じ取れる、いま読んで欲しい一冊、です。

 というか、少しでも興味があるならいますぐ読んでください。さもないと、とても素晴らしい映画を観たとき、「あの時、劇場で観ておけばよかった……」と同じ後悔することになります。
 それほど肌感覚が瑞々しく、鮮度が作品を活かしています。


 じつは、発売決定時から目をつけていて、発売日前に予約して、発売日翌日には入手していたのですが、読んだのは年も押し迫った昨日今日です。あわあわ。

 あらすじはハヤカワオンラインにある通りなのですが、こちらでも大雑把に紹介します。

超巨大太陽フレア(CME)による太陽嵐が地球に襲来し、膨大な宇宙線と磁気圏の乱れによって、各種衛星はもとより地上の送電設備(おもに変電所)が潰滅。世界規模の大停電が発生する。テレワークの体験で北海道・知床斜里町に滞在していたプログラマー・香山秀行は、ふとしたきっかけから東京~知床の往復行を決意する。辛うじて生き残った運輸網を駆使して辿り着いた首都圏は、自分がそこで過ごしていた頃とは様変わりしていた。そして、この往復行は彼にとっても、世界にとってもCME以後の生活の始まりに過ぎなかったのである。 

  とまあ、こんな感じです。
 帯の宣伝文は、宇宙物理学者で太陽フレア研究者の柴田一成氏ですので、簡潔かつ的確に作品を紹介しています。
 赤字に白抜き文字の「超巨大太陽フレアが発生。全世界停電勃発!」という惹句を見ると、『日本沈没』のようなパニック小説が想起されますが、すぐ横にある通りあえてひと言で表すならシミュレーション小説です。
 正確な年代は明記されていませんが、現代(2017年)と考えて問題ないです。これは、本文中で「2012年を数年前」と言っている台詞があるからです。

 きわめて読みやすいのもこの作品の特徴で、私は最初の3行を読んで度肝を抜かれ、2ページ目に達したとき、椅子からずり落ちつつ「勘が当たった。それも大正解だった!」と歓喜していました。
 引用します。

 着陸態勢に入った機内の窓の外に、正方形の畑がパッチワークのように広がっている。
 六月の北海道の、脳天気なまでに澄みきった空。眼下をぼんやり見ながら、香山秀行は数日前に木島社長に言われたことを思い出していた。

(空行3行)

「ちょっと知床行ってこいや」
 目の前にいる、このあくが強くて強引な上司は、社長兼編集長。ITと技術系のニュースサイト「TechVision」を六年前に立ち上げた人だ。自分はその会社で記事編集や表示に使う、バックエンドのシステムを作る仕事をしている。

(ここまでが1ページ)

  ルビは省略しましたが、終始こんなペースです。わかりにくいかもしれませんが、木島社長の台詞以降は、香山秀行25歳独身の一人称になります。
 太陽フレアなど専門分野に突っ込んだ用語などが出てきますが、香山秀行25歳独身が専門家ではないため、素人が外部から情報を受け取るという点で、読者と立場はまったく同じです。
 一人称ですので、彼が理解できていないことは書かれていませんし、JAXAだとか気象庁だとかそういう最前線に立つこともありません。ただ一人の人間として、周囲の人々と協力しつつ、目の前にある危機に対処していくお話しです。
 より噛み砕けば、素人が素人なりに生き残る方法を探っていくお話しです。

 停電でITが事実上休眠状態になったとしても、これまでそこで培った経験は彼の中に生きているので、これを世界停電という未曾有の天災への対処法に応用していきます。当然ながら、周囲の人々もその人なりの人生を歩んできたわけですから、自分が持っていない物を他の人が持っていることを実感させられます。
 知恵を絞って、持っている知識を応用して活用していく流れは、静かな躍動感を持っています。最初こそ意気消沈していた彼が、生気溢れる存在になっていく過程にもなっていました。

 香山秀行25歳独身が潜在能力を持っていたとか、偶然に状況を打破する道具を手に入れることができたとか、そういった要素は皆無です。すべて、彼がこれまで関わってきた人々やいま側にいる人々が大きな支えとなり、彼自身も知らず誰かの支えになっている、という人間関係によるものです。
 群像劇ではなく、人間関係を描いた物語です。

 また、全世界規模のマクロな出来事を、いち個人の立場というミクロな視点で描いた作品でもあります。
 社会科学(Social Scienceと自然科学(Natural Science)に立脚した、非常にリアリティのあるSF(Science Fiction)と言えるでしょう。
 科学=科学技術(Science Technology)ではないのです! と早川書房さんの無言のアピールが伝わってくる作品でもありますね。


 ここで、秋口に読んだSFを思い出しました。
 同じハヤカワ文庫から出ている藤井太洋氏の『オービタル・クラウド』です。

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  この作品もあり得るかもしれない未来を描いたものですが、最大の違いは主人公が玄人であり、各分野プロフェッショナルの集団がネットワークを駆使して世界規模の活動を行うことにあります。
 どこかの感想サイトで「特別な能力を持たない主人公が~」と書かれていましたが、人工衛星の軌道要素を暗算ではじき出すのは、特別な能力です。
 
 『オービタル・クラウド』は、その分野の玄人が世界規模の危機にJAXA、CIA、NORADまで巻き込んで(巻き込まれて?)対抗するお話しであり、マクロな出来事をマクロな視点で捉えた作品です。
 いっぽう『赤いオーロラの街で』は、世界規模の危機に素人同士が協力して向き合っていく作品で、マクロな出来事をミクロな視点で捉えた作品でもあります。
 是非併せて読みたい二作なのですが、『オービタル・クラウド』は若干敷居が高いので、薦める際によく考えないといけないと思ってます。
 逆に、『赤いオーロラの街で』は、のべつまくなし誰彼構わず薦めています。それほど読みやすく、いい意味でお手頃だからです。
 もっとも、好みや相性ばかりはどうにもなりませんので、言うほどゴリ押しはしていません。

 

 柴田一成氏が「今度はスーパーフレアで世界が終わりかけた惨状について……もちろん、本当に世界が終わらないための警告の書として(この想像力を活かして書いて貰いたい)」と解説を締めくくっていました(括弧内はこちらで補いました)。
 それはそれで興味深いのですが、私としてはこの作品を北海道にいた香山秀行25歳独身ではなく、東京にいた木島社長バツイチの視点からあるいは作中に登場する貨物船船員の甲斐氏の視点から描いて欲しいなあ……と思いました。
 一人称ゆえに、他の地域がどうなっているのかがほとんどわからない状況で話が進むからです。一人の人間がインターネットもTVもラジオすら限られた短波放送しかない状況で、得られる情報がどれほど少ないかという点でこれは大正解です。
 ですが、もし同じテーマで違う物語を読めるなら、そうした違う立場にいた人々から見た惨状と対応の仕方を読んでみたいと思いました。

 

 ところで、この小説は一人称なのですが、香山秀行自身を表す「僕」は作中に一回しか出てきません。日本語の文章は主語を省略しても通じるとは知っていましたし、私自身も視点となる主人公の人称を排した小説を書いたことがあります。
 驚いたのは別の部分でして、「僕は~」とどこにも書いていないのに、一人の人間が知覚している世界だということが自然に感じ取れる部分です。
 冷めているわけでも極度に自分を客観視しているわけでもなく、ごくごく自然体なのです。
 感情の起伏があまり大きくないから、と捉えることもできますが、そうした事態に遭遇しなければ振れ幅はそう大きく現れません。むしろ、予想だにしない出来事が起きたとき、感情が麻痺して「え? え!?」みたいな状態になると思います。というか、私はそうなります。
 こうした部分からも伊藤瑞彦さんは観察力の優れた方だなあ、と感じ入りました。

 

  個人的に気になったのが「テレワーク」という言葉で、作中では――一人称と言うこともあって――当たり前に使われているのですが、あまり馴染みのない言葉だと思います。

 実際、テレワークに相当することを自分でやっていても、あえて使う機会がないという人も多いのではないでしょうか。ましてや、そうした働き方に縁の無い人からすると、この単語で引っかかってしまいかねません。

 この言葉、あんまり普及してませんよ? 

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 私としては、なんとなくわかる言葉でもないと思っているため、基本的に使いませんし、使わなくてもなんの問題もありません。そうした現状こそが、問題なのかもしれませんが。
 テレワークという言葉の扱いの難しさは、ひと言でこれという日本語に置き換えられない点にあると思います。

 呼び方よりもそうした勤務形態を認知してもらうことの方が重要、という点も大きく作用しているでしょうから、ここは難しいことです。

 ひとに薦めるとき、これがいちばん説明の面倒くさい部分だったこともあります(苦笑)

 

追記【ネタバレ】
 世界がスーパーフレアに見舞われた時、主人公は北海道にいるため首都圏の様子はわからないため、木島社長から当時の様子を聞くくだりがあります。

 CME直撃による停電発生が日本時間では深夜だったため、被害は最小限に留まった。これは交通量の少ない時間帯であり、オフィス街のみならず住宅街の稼働率が低かったから。この逆の例が関東大震災
 問題は翌日で、会社に連絡が付かないので、どうしていいかわからない。同じように、こうした際のガイドラインを――3.11以降もなお――設けていない会社は、対応がまったくできない。

 というわけで、個人の判断に委ねられるのですが、連絡が付かないからとりあえず出社しようとした人間が少なからずいたという記述があり、苦笑する他ありませんでした。
 全員が全員そうしたわけではない、という点が現代を反映していて、これが80年代だったら過半数が通勤を試みたと書いた方がリアリティが増したと思います。つまり、こうした変化はあれども、現代日本あるいは戦後日本社会が有してしまった硬直性は、未だに柔軟性を阻害している、と遠回しに苦言を呈しているように思えました。

 いっぽうで、ディーゼル車(気動車)を使用している路線は、後に信号係兼踏切係を配置して最低限稼動させ、数ヶ月以内には山手線もディーゼル車を導入して運行を開始。GPSに頼りきりだった航法を昔ながらの天測を用いることで、最低限の航路を確保する。……などと各方面におけるプロフェッショナルがどう対応するかも書いていて、好悪両方から描かれていました。
 だからこそ、空路に関しての対応に疑問が残りました。通常の旅客便や国際線は無理だとしても、国内に限るなら早期警戒管制機AWACS)と航空機搭載の無線を活用すれば、最低限の輸送ルート、特に人命に関わる医療品の輸送路を確保できたのでは? ということです。医療関係の輸送に関しては本筋とも絡むのですが、もっとマクロな視点でのことです。
 ミサイル警戒網がダウンした段階で核保有国が誤射を避けるためホットラインが生きているうちに打ち合わせをした、という描写があり、物語後半でGPSを最低限稼動させるために各国が協力して衛星を打ち上げているのに、空路についてはほとんど触れられないままでした。
 冒頭でのGPSの狂いとハイパーフレア発生により女満別空港緊急着陸した国際線旅客機が列を成している、といった被害の描写はあります。しかし、他の分野で見られた復興の描写はありません。
 この辺りはさじ加減なので、是非を問うことは難しいのですが、飛行機だって昔は天測で飛んでいたのです。CMEの地上への影響は電磁パルス(EMP)と違って、電子機器を直接破壊するような性質を持っていないため、その時飛んでいないAWACSは無事なはずだからです。
 使えるものは本来とは違う用法でも使う、という本作に通底する復興のための応用力が空路に関してはまったく描かれていないのです。
 この点は、本作で唯一腑に落ちなかった点でした。

 

 

 

スタニスワフ・レム/沼野充義@訳『ソラリス』ハヤカワ文庫

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 最初に警告する。これから『ソラリス』を読む全ての人に警告する。本書を寝る前に読んではいけない。どこに栞を挟もうとも、内容とは関係なくあなただけの悪夢を見ることになるだろう。
 読者の存在する現実において『ソラリス』は、人間の裡に潜む直視しがたい心理を夢という無意識の中に投影するからである。
 
 以前の『戦闘妖精・雪風』に関する記事で「最初に読んだハヤカワ文庫は、思い出そうとしても思い出せない」と書いたが、2017年12月のEテレの「100分de名著」での紹介を記念した帯をまとった『ソラリス』を目にしたとき、はっと思い出した。
 
 私が最初に読んだハヤカワ文庫は、この2015年4月に再版された『ソラリス』の旧版『ソラリスの陽のもとに』だった。しかし、内容についてはあらすじと同程度しか憶えていない。
 そんな折、出先で立ち寄った書店でこの『ソラリス』を見つけた。
 今年のはじめにインターネット上の評判だけを見て、内容を自分の目で確かめずに買った本があったのだが、これが大失敗だった。購入してからさて読もうかと開いたら、1ページ目から文章も内容も肌に合わず挫折したのである。
 
 作品の良し悪し如何に関わらず、個人の好みや相性は存在する。
 
 本の場合、文章に対するものと内容に対するものがある。
 前者については、ある程度こらえることができるし、歳月を経てから好きになることもある。後者については、研究であるとか論文を書くためであるとか、なにがしが必要に迫られれば読めないことはない。
 しかし、これが両方揃ってしまうと悲劇でしかない。
 読まずに手放すしかなかった。
 
 この苦すぎる経験から、「初めて読む作家の本は、必ず冒頭から読んで買うか買わないかを判断する」という規則を自分の中に設けた。
 デビュー作も例外にしていないが、直感には従うようにしている。
 というわけで、伊藤瑞彦さんの『赤いオーロラの街で』は、迷いなく書店で予約し楽しみに発売を待っている。

 話が横道に逸れたが、『ソラリス』についてもこの法則は適応した。その結果、読み始めてみたら止まらなくなったので、これはいかんと買った次第である。
 
 本書に対する感想は、冒頭の一文が全てだと言っていい。
 ソラリス。意思を持つ海に覆われた二重太陽(二重恒星)を有する惑星。その空に設けられたステーションで起きた不可思議な出来事は、人間が人間であるがゆえに避け得ない葛藤や苦悩が“海”からの干渉《コンタクト》によって実体化されたものである。
 私はそう捉えた。
 一人称で綴られる物語は、徐々に研究ノートの様相を呈していき、ソラリスへのアプローチが実は長い時間を掛けて行われていたことが明らかになっていく。
 最初こそ独特な世界に引き込まれるように読んでいたが、半ばに達すると果たして自分は内容を理解しているのか不安になり、ついには登場人物らがそうであるように読者である自分自身の正気を疑い始め、最終的には理解と言うよりは寛解に近い読後感を得た。
 
 この記事を書いている時点で最後の「翻訳者による解説」は読んでいない。
 なぜかというと、そこになんらかの回答例が記されていたら、自分なりの回答を得ようとすることなく“わかったような気になる”危険があったためである。
 小説というより本に限らず、あらゆる作品に対して自分なりの見解を抱く前に他者の見解を見て、わかった気になるのは非常に勿体ないからだ。私からすれば、害悪でしかない。もちろん自分にとって。
 他者の見解に「そうそれ!」と同意を示すには、自分なりの見解を持っているからこそ出来ることではないかと思う。
 
 とまあ、そんな事をあらためて考えさせられる本でもあった。

 

はじめてのハヤカワ文庫フェア『戦闘妖精・雪風』に寄せて

承前

 早川書房さんが六月二日より開催している「早川書房フォロワー5万人が選ぶ! はじめてのハヤカワ文庫フェア」において、神林長平先生の『戦闘妖精・雪風』の帯に私が書いた推薦文が採用されました。

 当時は「Twitterフォロワー5万人突破記念」と題して、「あなたが『最初のハヤカワ文庫』を人におすすめするなら、どの作品ですか…?」という主旨で「#早川書房5万」というハッシュタグを使ったごく単純な推薦アンケートでした。
 この際に、早川書房公式アカウントがリツイートをすることはあっても、こうしたフェアがあるということは知らされていませんでした。少なくとも、私は全く知らずに『戦闘妖精・雪風』を薦めるツイートを書いただけです。ちなみに、当時は特に反応が無かったので、「ですよねー」と思ってました(笑)。

 神林長平先生の、しかもあの『戦闘妖精・雪風』の帯に自分の文章が掲載されることは、後にも先にもこれが最初で最後でしょう。一期一会を噛みしめつつ、読者献本は保存用として保管し、戴いたブックカバーは有難く活用しております。

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 このような感じです。

 アカウント名は無記名も選択できたのですが、文責という意味合いを込めて記名に同意しました。
 相変わらず、こういうところはお堅い私です。
 もっとも、黒子として文章を書いてン年が経過していることもあり、自分自身の名を出す必要があるかないかで判断するようになっていることもあります。

 それはさておきまして、ブログならではの長文で、『戦闘妖精・雪風』との出会いについて書いてみたいと思います。ちなみに、この承前の文章、下記の本文を書いてから説明がないことに気づいて後から書いたものだったりします(苦笑)。

 

 その名は「雪風

  はたして、あの時の自分が中学生だったのか高校生だったのか、よく覚えていない。夏か冬かも覚えていないが、その名をはじめて知ったのはコミケ会場だった。
 コミケには中学二年くらいから友人の誘いで行くようになり、その後M3やコミティアと行動範囲は拡大していったのだが、それはまあさておいておこう。
 あの頃、十代の自分にとってのコミケというイベントは「TVでも漫画でも見たことのない素敵なメカが描かれた本を売っているお祭りみたいな場所」という認識だった。
 冗談ではない、本当である。
 実際、オリジナルのメカ本は多くあって、その中でジャンルは多岐に渡った。必然的に、そうしたメカや特撮、ミリタリー、SF関係の同人誌を扱ったブースを多く回って、二次創作と知るやサークルの人に知らないロボットのことを聞いたり(ガーランドとかゼオライマーとかレガシアムとか)、「アートミックってなんですか?」などと無知丸出しの質問を投げかけていた。
 困ったガキである。
 そんな時、あるブースに飾られていたジェット戦闘機の模型が目に留まった。あのサイズなら、おそらく1/144であろう。当時の印象は良く覚えている。

「なんだろう? このF-14F-15の合わせたような格好良い戦闘機は?」

 F-15Eを知らなかったこともあるが、機首やエアインテーク周りの形状とミサイルの取りつけ位置からF-14を想起したのだと思う。

 

 双発複座、クリップドデルタの主翼カナード水平尾翼のスリーサーフィス、双垂直尾翼ベントラルフィンにベクターノズル、機首に小さく雪風の文字。

 

 そんな言葉は当時は知らないのでF-15F-14かと思いながらも、なんだこいつは? の一言に尽きた。
 携帯電話なんか持っていないから、サークルの人にお願いしてじっくり見させてもらった後、ただひと言聞いた。

 

「この戦闘機はなんですか?」
「ああ。これは『戦闘妖精・雪風』という小説に出てくる雪風という戦闘偵察機フルスクラッチで作ったんですよ」

 

 その人は、スーパーシルフともシルフィードとも言わなかった。
 ただ、「雪風」と言った。

 しかも、私がある程度、模型についての知識を持っていることを知った上での発言なので、フルスクラッチという言葉が出ているが、雪風については端的かつ正確に戦闘偵察機としか言っていない。

 

 端的でありながら淡泊ではなく、要点を正確に押さえた言葉。

 

 私はその時、フェアリィ星人に会ったのかもしれない。あるいは、FAF広報部コミケット特派員だったのかも。

 さて、この結果どういうことになったかと言えば、雪風の存在はその模型のシルエットとともにあり続けた。
 残念ながら、ハヤカワ文庫や創元SF文庫に手を出すのは二十代になってからのことで、十代の頃は本屋の棚から消滅寸前の朝日ソノラマを好んで読んでいた。というより、もうあちこちで姿を消し始めていた。
 そもそも架空戦記からSFへ移行していったので、必然的に徳間や中央公論が並ぶ棚をさまよっていた。航空小説も大好きだったので、集英社講談社、光文社辺りの棚をうろついており、なかなか早川書房の棚に辿り着けなった。


戦闘妖精との邂逅

 きっかけは些細なことだった。
 時折、読んでいる作品の中に出て来るSFの名著の数々がわからない。読んだことがない。どこにある、と探した。そして、ハヤカワ文庫に辿り着いた。

 Twitterにも書いたが、最初に読んだハヤカワ文庫は、PKディックだったのか、ティプトリーだったのか、はたまたハインラインだったのか……「(苦笑いで)覚えてない」と答えるしかない。
 ただ、最初に読んだ神林長平作品は『戦闘妖精・雪風』である。
 時期としては、OVAが発売される直前くらいだろうか。
 表紙のスーパシルフ・雪風横山宏版から長谷川正治版になり、『戦闘妖精・雪風〈改〉』として再版された頃である。
 あれだけ思わせぶりなことを書いておいて申し訳ないが、ここに至るまでの間が全くの空白で存在すら忘れていたのである。
 しかし、当時の記憶はしっかり残っていて、読んでいる間に脳裏を飛翔していたのは、あの時見た模型をそのまま実機にしたような雪風だった。
 特に「フェアリィ・冬」のラストではこのイメージが強く、「浮け、雪風」のシーンで『レドームが突き抜けた空間』は、“どの視点”から見てもあの雪風以外に考えられない。
 これは、後にOVAで動的な絵として強烈な印象を焼きつけられた山下いくと版スーパーシルフが現れてもなお揺るぎない。その代わり、FRX-99(レイフ)と次の『グッドラック 戦闘妖精・雪風』で出てくる特殊戦七番機ランヴァボンは、山下版スーパーシルフになっているが。

 そこにあったのはまさしく「端的でありながら淡泊ではなく、要点を正確に押さえた言葉の群れ」に他ならなかった。

 いまに至るまで、何度も何度も読み返している。最も多く読んでいる神林作品であり、最も多く読んでいるハヤカワ文庫である。
 この特徴的な文体がその後、ファンの間で神林言語と呼ばれていることを知るのだが、実のところ「それがどうした」というブーメラン戦士じみた不遜なひと言が私の回答でもある。
 『雪風』は『雪風』ではないか、と。

 

対比意識

 『戦闘妖精・雪風』においては、様々な地球製コンピュータが機械知性体と総称されることがある。地球製とあるのは、フェアリィ星は物語の舞台であると同時に地球人類であるFAF(フェアリィ空軍)と謎の異星体ジャムとの戦場でもあるためである。

 地球製とは言うが、正確には人類製(対義語はジャム製)とした方が適当なのかもしれない。
 この世界において、仮にフェアリィ製なるものがあるとしたら、それはFAFの人間が作ったものではないか、と思うからだ。

 通路と呼ばれる超空間通路によって、地球の南極がフェアリィ星に接続されてしまった世界。人類は初期の抵抗でジャムを通路の向こう側にあるフェアリィ星に押し込み、基地を築き地球への侵攻を阻んでいる。それから三十年、ジャムとの戦いは続いている。
 これが『戦闘妖精・雪風』の物語の背景だが、三十年も経てばフェアリィ星での出来事は地球の人々にとって対岸の火事になってしまう。
 『戦闘妖精・雪風』の序章にある架空の書籍『ジ・インベーダー』において、「いつの時代のものでもよい、世界地図を広げたとき、そのどこにも戦争、紛争、対立の示されていない世界地図など例外中の例外である」とこの本の著者リン・ジャクスン(『雪風』の登場人物)は書いている。そして、それは『雪風』が最初に発行された当時の冷戦構造下にあった世界情勢を暗に示しているのだと思う。
 ちなみに、この見解は2002年に発行された『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』(早川書房)に掲載された東浩紀のコラムにも書いてあるが、私の見解は少し異なっている。『グッドラック 戦闘妖精・雪風』が刊行された当時も冷戦構造というわかりやすい対立がなくなっただけで、リン・ジャクスンの言葉に込められていた『戦闘妖精・雪風』の背景に潜んでいるものは、『グッドラック 戦闘妖精・雪風』でも変わっていないと思う。
 むしろ、前述したように「世界のあちこちで紛争や対立が絶えないのに、そうしたいさかいとは無縁な場所においては対岸の火事と化している」という警鐘を『戦士の休暇(グッドラック収録)』で鳴らしているように思えてならない。

 とまれ、『戦闘妖精・雪風』を読んでいると こうした現実の合わせ鏡を見ているような思いに駆られることはある。また、人間と機械、受容と拒絶、共生と対立、生と死、理解し合おうとすることと理解し得ないもの、といった対比が多く出てくるし、読んでいるうちにそうした対比を意識することが多々ある。

 対比と言えば、帯に採用された一文は、漢字とひらがなが混在している。

 ほとんど無意識だったのだが、この一文をそのまま使うことで対比の意識を含めることができると気づかされ、早川書房のセンスに「さすが」と思った。
 連絡を受けた際に修正しようかと悩んだ末、このまま使ってもらうことにしたのは、おそらく当時の自分が無意識のうちに漢字とひらがなの混在をそのままにしたのだろう、と考えたからだった。
 『戦闘妖精・雪風』という作品には、そう思わされてしまうところもある。面白い。


妖精の虚像

 そもそも「ハヤカワ文庫で誰かに最初に薦めるとしたら何か?」というお題に対して、『たったひとつの冴えたやりかた』でも『冷たい方程式』でも『夏への扉』でも『華氏四五一度』でも『MOUSE(マウス)』でも『スワロウテイル』でもなく『戦闘妖精・雪風』が思い浮かんだのは、空戦ものとして読んでしまっても良いし、人間模様を読み込んでも良いし、物語全体を捉えて思考にふけるのも良い……そういう多様な読み方が出来ると思ったからだった。
 そして、そういう多様な読み方を年月の経過とともに、読んだ人が自分の中でできると思ったからだった。

 読みやすさという部分も当然考えていて、『戦闘妖精・雪風』は短編の集合体が結果として長編になっている小説なので、一気に読まなくとも良いという部分も大きかった。

 本に限らず、ある作品を誰かに薦めるという行為は、きわめて難しいことだと思っている。
 単純に気に入ったものを「これ面白かったよー」と報告と共感を求めて、話題に出すなら細かいことは考えなくてもいい。相手が興味を抱いてくれればしめたものだし、共感が得られなければそれまでだからだ。

 しかし、本気で作品を薦めるとなると、相手が誰であれ難易度はぐんと上がる。
 どの作品を、なんと言って、どう薦めるか。
 猛烈に悩む。

 大体からして、感想を書くのだって難しいのである。
 もっとも、感想については「自分が恥ずかしくなければ、思いの丈をぶちまければ良い」と思っているのだけど、その思いをどう言葉にするかが難しいのである。

 そういった自分自身の内心の葛藤も含めた上で、『戦闘妖精・雪風』についての言葉は簡潔に出てきた。そして、その事にあまり驚かなかった。もっとも、早川書房から連絡が来たときは仰天したが。
 いきなり操縦席に放り込まれて、目の前のディスプレイでやり取りを始めたような心地だった。

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 この画像はTwitterで告知するからには、少しは宣伝らしくしようと思って作ったものだが、連絡を受けた私自身の心象風景でもある。

 『戦闘妖精・雪風』シリーズは、現在『戦闘妖精・雪風〈改〉』、『グッドラック 戦闘妖精・雪風』、『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』が全てハヤカワ文庫(ハヤカワJA)から刊行されている。どれも好きだが何度も読み返してしまうのは、やはり『戦闘妖精・雪風〈改〉』である。


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  この『雪風』を読むとき、私の脳裏にはいつもあの時見た模型そのままの実機がフェアリィ星の空を飛んでいる。

 

※文中、一部敬称略とさせていただきました。


 

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はじめてのハヤカワ文庫フェア (詳細)