強襲装甲艦イサリビ(ガンダム名鑑ガム2)

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 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』より強襲装甲艦イサリビです。
 当時(2018年冬頃)の模型製作スキルを注ぎ込んで、全長約7cmのキットを全塗装しました。今回は製作中に写真を撮っておいたので、製作過程も書いてみようと思います。

 

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 艦首が大きく推進器や主砲塔は左右にセットされる特異なデザインは、ぶ厚い装甲で敵弾を防ぎつつ進行するためだとか(母艦が簡単に沈んでは困る)。当然、重装甲を活かさない手は無く、作中でも吶喊をかける殴り込み戦術が行われていましたね。

 

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 こちらは艦尾から。放映初登場時には艦尾だけしか映っておらず、安定翼も艦尾方向へ折りたたまれていたためこっちが艦首だと思ってしまったので、実際に宇宙空間に現れたときには「そういうデザインだったのか!」と驚きました。だって、推進器口も見えなかったんですもん。

 

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 全体的に仕上げが汚いのはスミ入れ部分が細かいこともありますが、そのままだと鉄血らしくないので、ある程度は狙って汚してあります。

 

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 側面から見ると良くわかりますが、無骨な印象とは裏腹に海洋生物を思わせる流麗なラインを有する艦でもあります。

 

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 艦橋部は戦闘時収納されるため、艦首から艦尾までのラインが一直線になり、この姿が美しいのです。実際、再現しようか迷ったのですが、今回は塗装に専念することにしました。

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 で、ぶっちゃけ、どれくらいの小さいのかというと、これくらいの大きさです。
 まず、一円玉比較。

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 アルミ缶比較(後で気付いたのですがスプレー缶を使えば良かったですね)。

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 そして、以前作ったCGSモビルワーカーと並べた写真です。

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  このくらいちっちゃいです。
 京商の1/64ミニカーRX-8と同じくらいでした(トミカは大体1/55~1/61くらい)。

 デカールはHG鉄血のオルフェンズデカール2に付属している鉄華団マークをそのまま使っています。

 

製作編

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 そもそも「2分で作る!」という謳い文句の塗装しない前提のキットというより食玩なのでグレー1色です。これは何をしているところなのかというと、イサリビの「白」をどの色にするかランナーに塗って検討をしているところです。
 筆塗り+仕上げにトップコートが基本なので、なるべく一発塗りで済ましたいため下地の色との相性も合わせて見ていきます。これは、混色を用いる場合も同じです。塗料瓶が映っていませんが、キャラクターホワイトの隣は明灰白色です。
 塗料の色だけ見るとガルグレーがそれっぽいのですが、塗ってみると悪い意味で泥臭さが強くなってしまいました。さらに、今回は白の上にタミヤエナメルのスミ入れブラックをぶちまける予定なので、ここの色よりも暗くなります。

 ガンダムカラーホワイト1にしました。大きく分けてくすんだ白と赤の二色で塗り分けるため、白の部分を大体の見当で塗ります。はみ出してしまった部分は、乾燥後にラッカー薄め液を綿棒に染み込ませて修正します。

 今度は赤(艦艇色)です。というわけで、ひたすらマスキングします。
 この時、隙間を見逃すと白が侵食されてしまうため徹底してやります。

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 そして、塗ります。

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 こうした塗り分けはラッカーとエナメルと言った具合に塗料の種類を変えると楽なのですが、最終スミ入れと細部にエナメル塗料を使うため、クレオス一本勝負です。んまあ、面積が違うだけで、普段からやっている塗り分けなんですけどね。
 次に、砲塔を製作します。

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 キット付属の砲塔は砲身がただの出っ張りなので、ちょん切って砲塔基部に真鍮線を接着します。艦船模型のテクニックの応用です。なんで、この工具箱には真鍮線があるんだろう? と思いつつ補強も兼ねてサーフェイサー1000を噴いておきます。

 それでは、お楽しみタイム。マスキングテープを剥がします。

 

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 上手くできました!
 塗料をエナメルに切り替え、ジャーマングレイとガンメタルを塗ります。色の名前は同じでもタミヤエナメルの方がクレオスラッカーのジャーマングレイよりも、色が濃いのでちょっとした違いを求めたいときにも使い分けは有効です。あと、元の塗料がつや消しと半光沢という違いもあります。

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 砲塔も塗ってみたらそれっぽくなりました。

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 大成功!

 これを左右合体させて接着し、接着境界面の塗装を修正し、スミ入れをして、アンカーを塗って、最終組立をし、水性プレミアムトップコート(つや消し)を噴いて、艦橋舷窓と艦首のライトを塗り、デカールを貼ったら完成です。

 

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   付属している台座は小さいので、製作当初は市販のミニカーケースを流用(ネジ穴があるのはそのため)したものを使っています。その後、丁度良いケースがお手頃価格でヤフオクに出ていたので落札し、現在はこのケースに入れています(前後にスリットがある方です)。

・ カラーレシピ

 白=ガンダムカラーホワイト1(クレオスラッカー)
 赤=艦艇色(クレオスラッカー)
 砲塔など=ジャーマングレイ(タミヤエナメル)
 推進器部=ガンメタル(タミヤエナメル)
 艦橋窓=ガンクローム+クリアグリーン(タミヤエナメル)
 舷灯など=ガンクローム+クリアイエロー(タミヤエナメル)
 艦尾後部の「く」の字モールド=ホワイト(タミヤエナメル)
 仕上げ=水性プレミアムトップコートつや消し(クレオス)
 ※クレオス=Mrカラー

 何やら最後が「あーっと言う間に~」みたいなノリになってしまいましたが、この工程は写真を撮っている余裕が無いのでいつも省略です。

 そんなわけで、自分史上最小モデルが完成しました。

ブリット

 

ブリット (字幕版)

ブリット (字幕版)

 

 スティーブ・マックィーン主演、1968年のアメリカ映画。坂の多い街、サンフランシスコでの初代フォード・マスタングVSダッジ・チャージャーのカーチェイスが有名だろうか。マスタングを駆るマックィーン本人は「当時の自分が発揮できる最高のテクニックを出し切った」と言ったらしい。レーサー出身の俳優なので、この発言に疑問はないが、オンボードカメラが無い時代に、あのスタントをどうやって撮ったのだろう? そう思えるほど、不自然さがなかった。おそらく、カットの繋ぎやカメラアングルで何らかの魔法を用いているのだろう。

 カーチェイスは、映画中盤にあり、以降はマックィーンがわずかな手がかりから黒幕を突き止めるまで、ノンストップで邁進していく姿が描かれる。

 ラストシーンが非常に淡々としていて、「今日日の映画では通らないだろうなぁ」と思った。しかしながら、言葉はなく、クレジットさえも最低限に抑えた終わり方は実に渋い。特に、ブリット警部補(マックィーン)が寝室のドアを閉め、洗面台で顔を洗うシーンから『ブレード・ランナー』のラストを思い出した(もしかして、原型か?)。

 

 サンフランシスコは、『ナイトライダー』などにも良く出てくる街なので、雰囲気はそれなりに見慣れたアメリカの街並みなのだが、シスコに限らず60年代末期の古きものと新しきものが混じり合っている風景は、ちょっとしたカルチャーショックだった。

 50年代の車(いわゆる長寿車種ではない)と70年代に入ってから主流となる車が一緒に走っているし、病院の中は40年代と言われても信じてしまいそうな古びた部分が出てくる。アメリカ合衆国という国を象徴するかのような多彩な人種がそうした風景の中で動いているのに、70年代に爆発的に増加するニューシネマにあるようなイデオロギー的なものは感じられない。ありのままを映したらこうなる、という感じだったからこそびっくりしたのかもしれない。

 そうして気付かされるのは、現代に近づくにつれて変化が画一的になっているという事であり、いまもなお加速しているという事だ。

 マックィーンの魅力を知るために見たつもりが、彼を起点に映画の見方を新たに1つ教えられた気がした。

 

オリヴァー・サックス(訳:大田直子)『心の視力』早川書房

 

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

 

視力を失う、失語症や知覚失認をわずらう……。
知覚に障害を負ったとき、脳と心はどのように対応していくのだろうか。
サックスの患者となった、楽譜を読めなくなったピアニストは、やがて文学や日常のさまざまなものを識別できなくなっていくが、音楽の助けにより穏やかな日常をいとなんでいる。脳卒中失読症になった作家は、苦労はあったもののの自らの体験をもとにしたミステリを執筆するまでになる。
そして、サックス自身、生まれつき人の顔が見わけられない「相貌失認」をわずらっていたが、さらに癌により右目の視力を失って心に豊かな視覚世界を築く人もいる。目と脳の奇妙で驚くべき働きを卓越した洞察力と患者への温かな視線で描き出した傑作医学エッセイ集。


   (カバー折り返し解説文より) 

 

おおざっぱに言って、本書のテーマは「見る」力とその欠如である。
 
   (訳者あとがきより)
 

 

 解説文にある通り、開業医(脳神経科医)であるサックス先生の一人称で、各患者の診療経過をその症例の医学的解説を交えて綴られた医療エッセイの体裁を取っている。
 特に、〈残像──日記より〉では、二〇〇五年一二月一七日~二〇〇九年一二月九日のあいだ、メラノーマ──黒色腫。腫瘍の一種。すなわち癌──が発覚してから、治療──薬ほか、レーザー照射、放射線治療──による見え方の変遷と、その時々の生々しい感情が記されている。他のどの症例よりも簡潔な文章でありながら、ガンや失明の恐怖やまだ見えることへの安堵などに共感を覚えてしまうほどだ。

 自分の身に起こったこと──自分が感じていること──を他者にわかるように言葉で伝えるのは実はかなり難しい。これは、小説の描写とは似て非なる表現であり、文章として整っている必要はなく、想像の余地は少ない方がいい。
 おそらく、医師が患者からの病状を聞く際には、そうした点に注意を払っていると思う。ときに言葉を補ったり、これまで発せられた内容から類推して合致する言葉で「こうですか?」と確認を取るのは、会話を通して病状に対する認識を一致させるためであろう。
 つまり、病状申告は患者が行うものだが、問題点をあらわにする病状把握は、患者と医師で行うものである。『心の視力』では、こうした過程がごく自然にやわらかな筆致で記されている(訳が良いこともある)。

 〈初見演奏〉、〈文士〉、〈失顔症〉、〈ステレオ・スー〉、これらはすべて異なる症例であるが、サックス先生の患者に対する真摯な向き合い方は変わらない。サックス先生が患者の訴えを聞き、ときには言葉を接いだり単語を言い換えたりして、患者に内在する病因を会話(音声会話に限らず)によりあらわにしていく様が伝わってくる。

 病状には大きく分けて、明らかに様相がわかるものと、本人の申告やあるいは医療機器──聴診器や拡大鏡といったありふれた医療器具から、レントゲンやMRIといった大がかりな機材に至るまであらゆる医療専門機器──を用いなければ、専門医であってもまったく見当が付かないものがあると思う。素人でも、隣人の顔が普段より赤ければ診断を下すことができなくとも、「熱があるのではないか?」という様子を読み取ることはできる(自分自身のみでの観察ならば、自覚症状の有無に相当する)。

 真に恐ろしいのは、本人(自覚症状がない)も周囲もまったく異常に気がつけない種類の病なのだが、話の趣旨から逸れるためこの一言を添えるに止めておく。

 先に引用した解説文にあるように、サックス先生自身が生まれつき人の顔を見わけられない〈相貌失認〉と共に生きてきた人間であり、『私はしょっちゅう医学談義に花の咲くような家庭で育った(「はじめに」より)。』ことも大きく作用しているだろう。なお、この文章は『私自身が医師になり、さらに逸話を語るようになったのは必然だったのかもしれない。』と結ばれている。

 専門的なことについては、それぞれの分野に明るい方々にゆだねるとして、私としては『心の視力』を読んで、サックス先生が極めて「聞き上手な医師」であると同時に、「話し上手な患者」だという感想を抱いた。

 本書は、脳神経科医としての知見を交え、先行研究の事例や人がものを認識する能力や発話能力、言語表現能力についてまで及ぶ興味深い論旨が展開されている。そのためか、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考(論考)』で述べた「語る」と「示す」の相違も引き合いに出されており、私としてはつくづく『論考』を再読しておいて良かったと思わされた。

 

 ちなみに、私にサックスを薦めてくれたのはSCA自さんで、Twitterでのちょっとしたやり取りの折、「(前略)ちなみにオススメはジュリオ・トノーとかリンデンとかR・ダグラスとかダマシオとかラマチャンドランとかサックス先生も読んで欲しいですし、贅沢言えばカーネマンとかカリーリとかザルカダキスとか」というリプライを頂戴したのである。
 トノーとリンデン、ダグラスは読んだことはないものの、傾向は大体知っていたため、ダマシオ、ラマチャンドランに惹かれたのだが、前者はあちこちで「訳が悪い」と翻訳者の専門知識のなさを糾弾するレビューが散見され、後者は地元の図書館が所蔵していなかったので、「サックス先生って、オリヴァー・サックスのことかな?」と一点読みで検索してみたら、『意識の川をゆく』を見つけたのである。これが、非常に興味深かったのと、地元の図書館がサックスの本はほぼすべて所蔵していたので『心の視力』、『見てしまう人々(いまこれを読んでいる)』、『意識の川をゆく』を借りてきた。

 門田充宏さんの『風牙』を読み終えたその勢いで『追憶の杜』を買ったものの、知覚や認識といった分野の知見に、欠けている部分があるように思えて専門書を少し読んでからにしよう、とAmazonを眺め図書館を漁ってみたのである。幸いなことに、上述のように参考意見は頂戴していた。


 最近強く感じるのは、知識は自分の中で体系化していかないと全体が機能しないということである。私は物事を考えるとき、櫛形のツリー状に捉える傾向があるため、途中が欠けていると自分の想像で繋ぐしかない。表面上は問題ないのだが、いわばハリボテの知識なので簡単にボロが出るし、本当に必要な場面では役に立たない。
 櫛形のツリー状とは書いたが、トップダウンでもボトムアップでもなく、全体表示すると大体そういう形になるというだけで、XYだけではなくZ軸もある。ホワイトボードやコルクボードに項目ごとのメモを貼り付けて、点と点を線で結ぶ捉え方(これもXYだけに見えて隠れたZ軸がある)もあると思う。

 

門田充宏『風牙』東京創元社

 

風牙 (創元日本SF叢書)

風牙 (創元日本SF叢書)

 

記憶翻訳者《インタープリタ》とは、依頼人の心から抽出した記憶データに潜行し、他者に理解可能な映像として再構築する技能者である。珊瑚はトップ・インターブリタとして期待され、さまざまな背景を持つ依頼人の記憶翻訳を手がけていた。 

   この「記憶に潜行する」シーンから物語は始まるのだが、『ニューロマンサー』に代表される意識だけが身体から抜け出して活動するような表現を用いながら、その過程については新鮮な切り口で明解に描かれている。


 『風牙』における記憶への潜行は、記憶翻訳者《インタープリタ》として訓練を受けた過剰共感能力者によって行われる。
 過剰共感能力者とは、他者の思考や情動をあたかも自分自身のそれであるかのように、過剰なまでに共感してしまう能力を持つ人間である。作中にも出てくるが、他者の心を察する能力というよりは、他者の感覚・思考・情動を自動的に受け容れてしまう深刻な障害である。共感性が強ければ強いほど自他の境界が曖昧になり、自己形成にさえ支障を来しかねない。
 当然、日常生活を送るのも難しいため、上記の過程で大きなトラブル──収録作『虚ろの座』にて描かれる──に遭遇した主人公・珊瑚(表紙の少女)の実年齢は25歳である。もうちっと歳食っていたらストライクゾーン直撃のロリババアだったのに、あぶないあぶない(なにがだ)

 これを能力として解釈したのが、記憶翻訳事業の先駆者である民間企業・九龍の創業者にして社長の不二であり、珊瑚にとっては雇い主であると同時に個人的な恩義がある大切な人でもある。


 物語は不二が不治の病に罹り余命を宣告されたのきっかけに、自分自身の記憶補完(翻訳された記憶はデータとして保存できる)を望んだ事に端を発する。通常、プライバシーの観点から記憶翻訳者は広義の意味での身内の記憶翻訳には関わらないのがセオリーなのだが、潜行した記憶翻訳者は全て初期段階ではじき出され、不二は意識不明の状態に陥っていた。
 そんなわけで、九龍随一の記憶翻訳者(誇張表現ではない)の珊瑚に、例外的措置として白羽の矢が立てられたのである。こうして表題作にして最初に配置された『風牙』の物語は幕を開ける。

 

 記憶翻訳者は まず対象=依頼人の主観を解釈し、次に自分自身の主観として再解釈することで、他人の記憶の中に自分を反映させる。この際、自他の区別を付けるための補助装置・共感ジャマー(過剰共感能力者ならば日常的にも使っている)やサポートユニット、外部からのモニタリング要員の助力を受けつつ、対象と自分を別個の存在として自己を保つ。その上で、対象の記憶へ影響が及ばないように、記憶の情景に己を反映させる。
 つまり、自分がいないはずの過去にいたことにするのが、翻訳の第一段階となる解釈と第二段階の再解釈であり、このイメージを誰でも体験できる視・聴・嗅・触・味を伴った映像データとして汎用化するのが記憶翻訳と呼ばれる作業になる。

 記憶翻訳と記憶(≒体験)の汎用化の技術を応用した娯楽コンテンツ──ヴァーチャルリアリティのハイエンド版──を提供するのが九龍の商売であり、記憶翻訳者である珊瑚の仕事というわけだ。

  脳科学や意識の在り方、ついでにMRIfMRI──というか核磁気共鳴を利用した医療機器──について、いくらかでも知見があるとすこぶる面白い。

 

 愛犬との思い出に込められた飼い主の思い入れと「自分が自分であること」の根底にあるものを描いた表題作『風牙』は、面白いし出来も良いのだけど、個人的には珊瑚が記憶という内的世界ではなく、珊瑚の自室やお気に入りの喫茶店、上司や同僚、新たに知り合う人々とおもに母親についての事柄──珊瑚自身の母への思いも含めて──が語られる『みなもとへ還る』がいちばん好き。

 『閉鎖回廊』は、ホラーゲームを彷彿させる娯楽コンテンツのベーターテスト中に発生したトラブルを通して描かれる“恐怖”を克明に描いており、小説として面白いと思うがそれがゆえに“私”は苦手だった。

 『虚ろの座』は、『風牙』、『閉鎖回廊』、『みなもとへ還る』へ至る物語のルーツを前3作とは異なるアプローチで描いた本来なら語られざる過去の物語。

 

 読み落としでなければ、九龍の所在地が明確に記されていないのだが、断片から全体像が浮かび上がる描写には驚かされた。日本列島本州のどこかにあるそれなりの都市の一部であるのは間違いないのだが、それ以上のことは判然としない。それとも「都心=東京都心と捉えるのは想像力の放棄である」という私のひねくれ根性のせいだろうか。いずれにせよ、ありそうな街の情景が読んでいると自然に浮かび上がってくるのである。この細部から総体が形作られるやりかたは、記憶翻訳の描写にも良く似ている。

 
 登場人物が非常に魅力的な作品であり、主人公の珊瑚はコテコテの関西弁で話すのだが、どことなくのんびりとしている。関西と言っても内陸寄りの訛りだからかもしれない。ネイティヴを聞いたことがあると想像しやすい。個人的には、九龍の技術者ショージくんこと東海林と、言葉遣いから姿勢の良さまで窺えてしまうカマラ女史(バリバリのキャリアウーマンにこの名を冠してしまうネーミング・センスも素敵)が印象に残った。次作『追憶の杜』にも出てくるだろうか。いまから読むのが楽しみである。

  ところで、巻末の解説を書いているのが、長谷敏司さんなのだけど、冒頭からしてすごい。なにしろ「(前略)これほど高い適性を持つSF娯楽小説の書き手を、四年もの間、紙の書籍としてはほぼ塩漬けにしていた東京創元社は、相当に罪深いということになる。」と糾弾している(2018年10月31日 初版)
 あとがきを読んだ後にこの一文が待っているので、いち読者としてはこれに続く作品解説はうなずくしかなかない内容だった。『追憶の杜』を読む前にあらためてこの分野を勉強しようと思い、オリヴァー・サックスの著書を三冊ほど図書館で借りてきた。

 余談だが、長谷さんはデビュー作『戦略拠点32098 楽園』において、記憶にまつわるエピソードを書いている。角川スニーカー文庫、2001年12月1日初版。第六回角川スニーカー大賞受賞作ということもあり、同氏の作品の中では後の『円環少女』シリーズと並んで最も読みやすい。ただし、文章そのものの読みやすさでは、『楽園』が抜きん出ている。イラストはCHOCOさんで、巻頭カラーページと設定画があるのみで挿し絵が一切無い。この思い切りが最初に見る絵のイメージを文章に結びつけ、未知の惑星の空の下、草原を駆けるマリアと、それを見守り、あるいは追いかけるガタルバとヴァロワの姿が浮かび上がってくる。白状すると、私はいまでもなお長谷作品の中では『楽園』が最も好きだ。
 残念ながら絶版。電子書籍はあるので、気になった方はそちらを当たって頂きたい。 

 

 『風牙』も単行本に先行して出版されたKindle版もあるので、一応紹介しておくが、いま買うのであれば同じKindle版でも『風牙(創元日本SF叢書)』の方がお得であろう。

風牙 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作

風牙 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作

 
風牙 (創元日本SF叢書)

風牙 (創元日本SF叢書)

 

 

ジェラルド・エーデルマン『脳は空より広いか』草思社

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

 

 

 意識はどこからどの様に発生するのか、について。科学的かつ論理的に書いた本。この手の専門書では抜群に読みやすい良書です。用語解説や訳注も丁寧なのですが、できれば先に『論理哲学論考』を読むことをお薦めします。

 奇跡的に地元の図書館が所蔵していました。

 最近の公共図書館はこんな枕詞が必要なのは、例えばこの分野ではベストセラーの『脳は眠らない』は一冊も持ってなかったり、『夢を見る脳』は置いてないのに『意識は傍観者である』は所蔵していたり、となんとも中途半端な有り様だからです。

 ここの得意分野は民俗学だとは前々からわかっているのですが、「あれがなくてこれがない」感をひさしぶりに味わいました。というか、採光的な意味で明るい図書館って居心地が悪いので、改装されてから利用することが極端に減ったこともあるんですけどね。