『日本史C〜すごくあたらしい歴史教科書』史文庫/中世編〜近代編


 全一八篇の短編からなる歴史小説のアンソロジー集。この通りキャンパスノートと一緒に置いても違和感がありません。
 詳細はこちら
 前回も書きましたが、半分は私自身の思考メモなので、何様だお前は、というくらい容赦がないです。今回は中世編から最後の近代編までです。

 中世編より前はこちらにまとめて書いてあります。


・中世編(鎌倉時代〜戦国時代)

すと世界『業火に咲く花』
 本文中で結構丁寧に説明しているのだけど、これは無理、予備知識がないとその説明も入ってこない。たぶん、内容には入れずによくわからない、という人が多かったのではないかと思う。教科書としては優れているとは思うけれど、小説を読むつもりで読もうとすると理解は難しいとも思う。
 鎌倉幕府開幕より源頼朝が没してから北条時頼時宗の父)が執権になるまでの間、御家人同士の間で血みどろの争いが行われていたことは、あまり知られていない。なぜかというと、通常、日本史の授業では教えないから。
 まず頼朝から三代の源氏将軍が絶えるまでの間に起きた抗争があって、次に北条氏が実権を確立する過程で起きた抗争があるのだけど、今回の三浦光村の三浦氏は後者の方で、北条家にこれという人物がいない時期のためか非常にマイナー。
 私も学生時分に史学科の友人が多かったのと、教職を取る過程でたまたまその付近の知識を持っていたので読めた。読めたけど、読む態勢に入るまでがわりと時間がかかった(気分の問題)。
 驚いたのはページを繰っていて、突然の名言が現れたことだった。
 三浦光村が崇徳院崇徳上皇が流刑の後出家した際の名)と対峙した際の会話。地の文で、亡霊とも幻影とも正体を一切明言していないところも素晴らしい。

「恐れながら申し上げますれば、保元の戦は遥か昔、敵も味方も既にこの世になく、弟君でいらっしゃった後白河の仙洞(後白河法皇)も、亡き鎌倉の右大将(源頼朝)も、幾度もその御為に法要を行い、白峰(讃岐国白峰山=現香川県)に立派な御陵を建てられましても、まだその恨みは尽きぬというのでしょうか」
「補陀洛山(恐らく和歌山県補陀洛山寺)の蓮池のほとりで微笑むも朕、この世に仇なし、ぬしの前に現れるのも朕、現世の者たちがそう思う姿に朕は現れる」
「ならば、その御身は現世に生きる者どもの幻にすぎぬというのでしょうか。我らがその心を強く持てば霧になって消えるのではございまするか」

 (中略)

「笑わせるな、犬よ。怨霊、魔縁、鬼の類は人の宿業。人が生きる限り逃れることは出来ぬ」

  本文186、187ページ
   ※括弧内は引用者の補記。

 思わず笑った。それ書いた。私も書いた。鬼を描いた歌詞にそう書いた。
 ですよねー。姿が見えなくとも、行いは巡り巡って己の元へ返ってくる。それがどんな形であるにせよ。
 崇徳院が光村を犬と言っているのは、三浦氏の行いから「三浦の犬は友をも食らう(本文179ページより)」と言われていたことに起因します。別段、見下しているわけではなく、犬呼ばわりされることが光村ひいては三浦氏が負った業だと、遠回しに言っているわけです。
 現代社会では、なにかやらかすとすぐさま社会的制裁が機能するのですが(わかりやすい例では飲酒運転したら免停とか)、そういう社会が存在しなかった時代では、因果応報という言葉通りいつか報いを受ける日がやってくるわけですな。
 だから、宗教が必要だった。すがるなにかが必要だった。それを瞽女(ごぜ:盲御前(めくらごぜん)という敬称に由来する女性の盲人芸能者。本来は旅芸人)であり仏道に帰依したらんという女の存在と念仏によって描いていると思いました。
 あと、題名の『業火に咲く花』のですが、作中に火焔はほぼ出てこないのですが、業火の「火は非、音読みして罪科の科」、花は「浄土に咲く蓮の花、すなわち念仏」という解釈が成り立ちました。
 鎌倉時代が好きな方は四の五の言わず読むべしです。
 私が挫折した『吾妻鏡』を読了しているからは言わずもがなでしょう。


向日葵塚ひなた『歌え、連ねよ花の笠』
 南北朝統一後の室町時代初期、農民一揆が多発した時代。解説にもあったとおり、一揆というと貧困の末ににっちもさっちもいかず年貢が納められないばかりか借金返済もままならない状態で村落全体が共謀して起こす暴動という先入観が強く、実際私もこの先入観に囚われていた。高校までの日本史では、一味神水血判状のごとく書かれているので、そうした先入観を持たせやすい。
 ところが、実際読んでみると、一揆の本来の意味に遡って一蓮托生覚悟の一致団結、村の再建のために方針を定め協力する人々の姿が描かれていて、非常に勉強になった。考えてみれば、この時代は武士も農民と同居していた(早い話が用心棒である)時代なので、総じて識字率や学識が高いレベルにあった時代でもある。

 一味神水の項目に、そもそもの謂われを記すべきだと思いました。どんだけ左寄りなんでしょね、日本の歴史教育は。貧困に虐げられる持たざる人々が搾取する持つ人へ反旗を翻す(うぇー)。こういうのを美談じみて語る教育を白い目で受けていたので、なんというか救われた思いがしました。
 この話では村の財源である温泉(道後温泉)の源泉が枯れたことに端を発し、年貢を取り立てに来た武士と交渉をする場面も出てくる。悪い意味で泥臭く血生臭い一揆の印象は全くなく、神泉が絡んでいるためか見苦しい内輪もめも出てこない。それどころか、年貢を取り立てに来た武士と交渉する場面すらある。あと、村の権力者(正確には立場的なものであって、権力をふるっているわけではない)も村の一員として描かれているのが好印象で、最後のシーンでそれがはっきりと伝わってきました。
 折しも、東日本大震災の復興の最中(いまもですが)に、芸予地震(これは頻発しています)が起きたた時期で、解説にもありましたが人々の繋がりや協力することで生まれる強い力が描かれていました。
 あと、読み始めたときにこの流れなら、歌が入っているといいなあ、と思ったら……。
 まあそういうことです。良い意味で予想を裏切られて楽しんで読めました。


上住断靱『銀蛇』
 時代は織田信長が台頭し天下人への道を歩き始めた頃。忍者で有名な伊賀が舞台。なんというか、歴史小説らしい話だった。解説にもあったとおり、諸説諸々あり真偽定かならぬ部分も多々ある人物を取り上げているためか、「銀蛇」こと百地三太夫が出てくるとどうにも作り物くさい感じがする。実際、忍術(策、軍略のたぐい)を使っているので、登場人物が状況を作っているので間違いではないのだが、いまひとつ腑に落ちなかった。

 内乱の最中にある伊賀十二家がひそかに手を結び、討つ敵は織田信長の三男・悪銭《びだせん》という不名誉なあだ名を持つ信雄とその腹心達。実際、信長の死後のお家騒動でも、家康を味方に引き入れながら結局のところ秀吉の懐柔策に乗ってしまう……担ぎがいのない神輿という認識があったので、信雄勢のチョロさ加減は「戦乱の世を甘く見てんじゃねーよ(全国各地より)」といった風情で滑稽です。
 しかし、終盤の合戦が序盤のそれと比べると、いかにも芝居くさく感じられてしまうのは否めませんでした。ただこれは最後に付記された百地三太夫という人物の不明確さ。専門の歴史学者も判断に迷うという記録を逆手にとって、忍術(オカルトめいた意味での)を演出してしまう作りは面白かったです。


・近世編(江戸時代)

狩野みくず『奥州女仇討異聞』
 下敷きになっているのは『碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)』で作中にもあるとおり、文楽や歌舞伎の演目にもなっているが、それらは浄瑠璃の「碁太平記白石噺」からの派生らしい(調べた)。
 江戸時代初期、三代将軍家光の治世で、武力を背景にした武断政治が行われており、お家取り潰しなども珍しくなく浪人の数が増加していた時代である。
 浪人の増加はこれ以前の慶長(大坂夏の陣のあった頃)、寛永の頃(宮本武蔵が流派を確立した頃)から起きているのだけど、治安に関してはその専制政治ゆえに比較的良かった時代でもある。他にも島原の乱を受けてのキリシタン弾圧の強化や鎖国の徹底化と、より日本が閉鎖的になっていった時代であり、役職に就いている武士はふんぞり返って「切り捨て御免の無礼うち」がまかり通っていた。そんな背景を舞台にした物語。
 なのだけど、あえて言葉を選ばず言ってしまうと竜頭蛇尾
 姉妹のうち姉が動作を通じて魅力を描きだしていて、期待が最高潮に高まったところで、小説としてのお話しは終わってしまう。正直なところ、なにを伝えようとして、なにを描こうとしていたのかがわからなかった。

 起承転結なら起から承に入ったところで終わっていて、序破急ならば序だけといった風情で、主要登場人物の特徴や性質が見えてきたところで、いきなり解説文調になり、そのまま終わってしまいました。
 このお話しで出てくる最大の著名人は、由井正雪なのですが名前とやったことが解説文のような内容で、期待してしまっただけに残念でした。べつに殺陣などがなくても、由井正雪と姉妹を直接会話させるだけでも十分面白いと思いました。由井正雪も色々といわくつきの人物なのだけど、それだけではなくて複雑な家庭内の事情抱えているなど、通常の歴史教育では教えない人間味の多い部分を持ち合わせていたりします。
 奥州に関しては伊達家、その他真田や風魔の血といった美味しい要素を含ませながらも、ほとんどチラ見せで終わってしまいます。
 なんらかの事情で、本来の完成形まで描けず、著者としては未完成ながらも完成作品として収録できるかたちにした、というのであれば理解はできますが、読者としては残念の一言に尽きる一作でした。


庭鳥『白い脚』
 多くの人が江戸時代と聞いて想起するものの多くは、この元禄年間に集約されている、と言っても過言ではないと思う。徳川将軍家の治政が盤石のものとなり、町人文化が花開いた時代。日本史ではなく現国の文学史にしても、江戸期の作品はおおよそこの時代のものが多い。
 心中事件、物書きの門左先生、浄瑠璃……とくれば、これが『曽根崎心中』、近松門左衛門を描いたのものであることは自ずとわかる。
 その描き方、見せ方がおそろしいほどに巧い。
 知っているあるいは憶えている人間なら連想ですぐ気づくだろうし、知らないあるいは忘れている人間にも、遜色なく伝わると思う。そしてなにより、知っていても新鮮に感じられるところが、先述した巧さ。
 共感しやすく、時代背景がそのまま背景として入ってくるので、歴史物と構える必要がない。
 なにより重要なのは、現在上演されている『曽根崎心中(の底本)』と原作には大きな相違点があることを小説のかたちで自然に伝えたことだと思う。

 さて、作者の庭鳥さんは、あとがきで「関東出身のため、上方の言葉になじみがなく、作中の会話がおかしな言葉遣いになっていますことお許しください」と書かれているのですが、これはむしろ正解だと思いました。
 関西の言葉遣いにするだけならともかく、この内容ならば我々が普段用いている言葉に近いこのかたちの方が伝わりやすいです。
 近松門左衛門をこれほど身近な存在に描けているのも、そうした会話における言葉遣いにあると思います。
 あと題名の付け方が巧妙です。まさかこういう内容だとは想像もつかないような言葉で、しかも内容とは無縁ではない、素晴らしい一作でした。


巫夏奇『二刀流の提灯男』
 時代は八代将軍吉宗の治政。享保の改革が軌道に乗り始めた時期。講談のような前口上があり、そこから物語始まる。……のだが、作者の意図がどこにあるのかがいまひとつ見えなかった。
 要するに『暴れん坊将軍』の時代なのだけど、この時代からしばらく大飢饉が続き、人々は自然の猛威と戦っていた時代でもある。だから、こうした荒唐無稽な話が語られていた、ということを描いたというのなら、なるほどとは思う。作品から時代背景が全く見えてこない。登場人物から地の文がほぼ完全に現代の一般小説で、時代小説風でもない。
 ただ、提灯男の正体とその出没背景は、浮き世の無情さを雄弁に語っていた。

 ぶっちゃけ、妖刀・雪斬の存在がなく十兵衛が源蔵から聞いた話から、事の背景を見抜いていくという筋だったなら、感想はかなり違ったと思います。提灯男についても荒唐無稽ではあるのですが、ことさらに存在感を強調していないので『番長更屋敷』の如き怪談話の雰囲気は感じました。
 言うなれば、雪斬はデウス・エクス・マキナです。
 それから言葉足らずのところが所々あって、娘と男が相思相愛の関係だったことが明記されておらず、いきなり実はそうだったという描き方をしているので、少々混乱しました。
 それから、二刀流はいずこに?


鋼雅暁『異国の風』
 黒船来航により鎖国の終わり、そして江戸時代の終わりの波を感じさせられた。文体も時代小説・歴史小説の雰囲気を残しつつ、現代の小説の文章に近い微妙なバランスの上に成り立っており、必要な情報を適宜出しつつテンポ良く進む展開も含め、作品全体から時代の風を感じられた。
 全体の分量は少ないため、物足りなく思う読者もいると思う。しかし、これまで約三百年間もの間、鎖国を続けて世界から引き籠もっていた日本が、否応なしにしかも性急に外の世界へと目を向けなければならなくなったのがこの時代。
 事情通の太一郎にしても状況を完全に把握しているわけではなく、一刀流免許皆伝の腕を買われてオランダ人警護の助太刀を頼まれた英次郎に至っては、なにがなにやらわからない。
 京都では尊王攘夷派と佐幕派が血みどろの争いを繰り広げ、江戸でも安政の大獄吉田松陰をはじめとする多くの志(それが正しいかどうかはさておいて)ある人々が圧殺されているのだが、戊辰戦争慶喜が大坂(この時代は大阪ではない)脱出するまでは、言葉は悪いが関東は世間知らずの人々の方が多かった時代でもある。黒船来航時に描かれたペリーの絵がいい証拠である。
 英次郎はそうした一般の視点を表し、かつ純粋な好奇心を持つ若者として描かれており、もしかしたらこの時期に外国へ渡航した武士を意識したのではないか、と思わされた。
 結末は吉田松陰(※)が果たせなかった外国への渡航の可能性を示唆しているようでもあり面白い。

※実はこの人、ペリー来航時に黒船に潜り込んで密航しようとして、本人と談判するところまで行ったものの、両国間の関係が極めて微妙である状況を重視した米国側の判断で送り返されている。この後、吉田松陰と同行した弟子は投獄され、後に松陰は松下村塾を開く。なお、ペリー本人は松陰の心意気を高く評価していたらしい。
 ちなみに、幕末の人物ならば高杉晋作がいちばん好きです。

 いささか時代遅れとなりつつある侍の気風を持った御家人次男英次郎と、昨今の事情に通じたやくざのふとっちょの親分太一郎のでこぼこコンビの関係が見ていて滑稽で微笑ましかったです。話の進み方が私の大好きな池波正太郎先生の『剣客商売』を彷彿させるところがあり、そこも非常に好みでした。
 あと、端役で出てくる英次郎の母親お絹をはじめとする人物がしっかり描かれていて、登場人物に人間味を感じられます。御家人の家である英次郎の自宅に畑があり、鶏を飼っているというのも、この時代の下級武士の生活を反映していますね。これもただあるとかいると書くのではなく、鶏が太一郎に懐いている描写があるなど、生活感がにじみ出ており好感が持てます。
 剣戟の場面があっさりしているのは、むしろこの人が上手い証拠で、実力が拮抗していない限り、立ち合いは一瞬で決まるものだからです。この交錯をいかに少ない言葉でかつ適切に、勝者の強さを表せるかは殺陣を描く上での大きなポイントだと思っています。
 いよいよもって、自分達の生きている時代に直結する過去を描かれている感触があり、楽しく読めました。


・近代編(明治〜昭和)

なぎさ『海より深く空より青く』
 日本最大の内戦である戊辰戦争の最中、彰義隊で知られる上野戦争から始まり、新撰組十番隊隊長原田左之助馬賊伝説を絡めたお話し。大筋はこの通りなのだが、わけがわかならないまま話が進んでしまう。
 視点が柚子という武家の娘の一人称で、周辺事情を京都で新撰組隊士と交流があっという兄から聞いた話以外ほとんど知らない。そのため、わけもわからないまま否応なしに、時代の波に翻弄される状態を体感させられた気がした。

 これ、まずもって上野戦争原田左之助について知らないと、完全に読者は置いてけぼりになります。そして、永倉新八戊辰戦争後の来歴を知らなければ最後の最後までわけがわかりません。難易度が高すぎます。
 また柚子の一人称であるにもかかわらず、その心情が読み取りにくく、行動原理がいまひとつ見えてこないんですね。どうしてそこでそういう行動を取るのか、というごく単純な動機が稀薄でした。
 いっぽうで話の筋ははっきりしているため、物語を進行させるために登場人物を作者が動かしているような気がして、最後まで一切の共感ができませんでした。
 ただ一点。歴史を描いた作品としては、わけもわからず流されるしかない状況とはどんなものなのかは良く伝わってきました。


アルト『沼辺に佇む』
 明治が終わり、元号が大正へと変わった頃。元老という権威的な印象の強い西園寺公望の政治家でも公家の末裔でもない姿を描いた作品。会話の相手である原は立憲政友会原敬。本文には日清・日露とまとめて書いてあるが、陸軍が強気になったのは日露戦争での大陸進出成功が起因している。
 ぶっちゃけ、これが災厄のはじまりで、日華事変(日中戦争)や太平洋戦争も全部ここに繋がっていると言っても過言ではないと思う。というより、アメリカの外交戦略を抜きにしても、近現代日本のターニング・ポイントは日露戦争にある、という話を学生時代に歴史好きの友人と良く話したものだった。
 本文にある陸相の辞任は、当時の内閣にとって大打撃であり、第二次西園寺内閣は相当追いつめられた状況にあったのだけど、ここで内閣総辞職を行ったため、陸軍は支持を失い後に大正デモクラシーと呼ばれる波がやってくる。
 この間隙をさらっと描いた短い作品。

 やっと文明の香りがしてきて、主催の唐橋さんに「その時代がお好きなら是非に」と薦められた理由がわかりました。明治の終わりから大正の初めの戦争がない時期は、混沌としていて非常に興味深いのです。この作品の時代なら、浅草には十二階こと凌雲閣があり、数年後には東京大正博が開かれます。
 しかし、その背景はきな臭く、人々はこれから来る嵐の前の静けさを感じ取っていたのかいないのか、様々な文化が花開きます。
 実は私、大正浪漫という表現が好みではありません。なぜかというと、歴史を都合の良く見ているような、綺麗な部分にだけ目を向けているような気がするからです。
 先に日露戦争が日本の近現代史におけるターニング・ポイントと書きましたが、二つ目がすぐ後に来ます。第一次世界大戦が終わり、一時期好景気へ向かい始めた日本に第二のターニング・ポイントである関東大震災が襲いかかるわけです。
 作品に話を戻すと、短いわりに骨太の内容で作中で西園寺や原が吸っている時代の空気を感じさせられました。西園寺と明治天皇の良い意味での親しい間柄が見え隠れする発言や、良く物忘れをするとか原に「細かいことは言いたくはありませんが」と前置きされた上で「あなた使っているのは、私の万年筆です」と苦言を呈されるのは微笑ましくすらありました。しかもこの万年筆のくだりはただの雑談ではなく、明治二年に西園寺が官位(公家出身の華族のため官位を持っている)を返上して望一郎と名乗ったことに繋げている辺りもおいしいです。もっともこれは知らなかったので、調べたのですが調べてみたいと興味をそそられる内容でした。
 最後に趣味の話をちょっと書かせて貰うと、海軍が主張していた戦艦三隻の建造とは、おそらく金剛型(この時点で金剛はすでに起工しているため)の比叡、榛名、霧島、のことではないかと思われます。

 ところで、『ゆる本Vol.18』に出した拙作『眩窓純喫茶一九一三』をこの後に置いても違和感がないと思うのですが、それは私の思い上がりでしょうか?(苦笑)


保田嵩史『端倪すべからず』
 説教強盗? 知らないなあ……と調べてみたら、説教強盗・妻木松吉事件なる人物が見つかった。作中の登場人物の一人東朝新聞(東京朝日新聞)の記者である三浦守は実在の人物で、作家三角寛と同一人物なのだそうだ。
 この説教強盗の手口については、作中に描かれていたのでわかったのだけど、そんなものが実在したのか気になったので調べてみたら出てきたのが刑事記録。大正末期、昭和改元頃まで来ると、事実をもとにした小説を書くにもどの程度、どの様に脚色するかが肝になってくるのだが、これは一本取られた。
 最初は関東大震災から復興しつつある東京で起きていた知られざる犯罪を描いた物と思いきや推理小説の色を帯びていき、作中にある「謎」は前提の決めつけから盲点となっていた事実だった。
 これは時代を反映していて、あの職業はそういう目で見られることもあったのかと思わされ、三浦守らがカフェ深読みしているところにあの人物を出したのは恐ろしい手管だった。

 この作品、とんでもない人物が出てきます。登場するなりわかります。私は思わず噴き出しそうになりました。その時代にいる人間なのだから、状況さえ揃えばひょいと出しても不思議ではないのですよね。なにを書いてもネタバレにしかならないのですが、要素の組み合わせ方が非常に上手いです。そこにあるものをとことん活用する手腕が悔しいくらいに巧いです。特に桜の……あー、あー(書けない)。
 いっぽうでアカ狩り(共産主義者弾圧)や復興景気はあったものの、そんなの焼け石に水でしかない、という時代背景もしっかり書いてあり隙がないところも好感触でした。
 いよいよ時代は激動の昭和へ突入する、その直前を捉えた良作でした。


 以上にて『日本史C』、読了しました。
 歯に衣着せぬ物言いで好き勝手書きましたが、ぶっちゃけ本当に興味が持てない、つまらない話には、なにも書きようがないのです。いちゃもん付けているように見えても、じつはそれだけ物申すと思わされるだけの力が作品にあったから書いてしまっただけです。
 突っ込みどころがある作品でも、突っ込むだけの気が向かなければ何も描きません。
 そんなの時間と心の無駄遣いだからです。
 これは、自分が言われる立場になった際はなにを言われても構わない、ただし悪口雑言は別にして。という私のスタンスから来ています。
 だから、私の作品に対しても――とくにお金払って買った物なら(合同誌やCDの歌詞含む)――好き勝手言ってくださいませ。


 この『日本史C』に参加された方にお薦めなのは、拙サイトにある『誰かあの鬼を知らないか』という東方プロジェクトの二次創作小説です。二次創作小説ですが、原作を全く知らなくても読めます。
 鬼、妖怪、巫女、五行思想、言葉遊び……そういうものが好きな方には、全般的にお薦めできます。