本棚にある詩集の話

 付箋だらけにした『論理哲学論考』を本棚に差し込むと、付箋が飛び出ている本が目に付いた。『寺山修司少女詩集』だった。付箋を貼るほど熱心に読んだわりには、以前いつ読んだのか思い出せない。まあ、そんなもんだよな。だから、付箋を貼ったのだろうな……などと思いつつ、なんとなく国内作家の詩集を全部引っ張り出して布団の上に放射状に並べてみた。
 六冊。あれ? こんなものか?
 ともあれ、詩集はさほど数を持っていないため、蔵書している本はなにかしら買ったきっかけがある。特に国内作家だと顕著だ。と言うより、国外作家を含めてしまうと話も思考もややこしくなるので省いている。

西条八十詩集』白凰社→作詞の試行錯誤の過程か、「蝶(そういう題の詩がある)」を知った際であろう。
『誤解 田村隆一詩集』集英社→???
寺山修司少女詩集』角川文庫→たぶん、桜庭一樹が好きだった頃であろう*1
中原中也詩集』新潮文庫→詩歌を書き始めた頃であろう。
『日本の詩歌 萩原朔太郎』中公文庫。→同上

 改めて眺めてみると、保存状態は同じなのに扱われ方が顕著に異なる。この中で最も綺麗なのは中原中也。明らかに一回読んでそれっきりという体で、実際に影響も受けていない。付箋も貼っていなければ、栞すら挟んでいない。

中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)


 付箋を辿っていって受けた影響の大きさを思い知らされたのは寺山修司であり、おそらく最も良く吸収できていた頃なのだろうなあ、とも思った。「天文学」のところに付箋が貼ってあるのは、「バーチャルスター天文学」との関連を見出したからだろうね、わかるわー。

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

寺山修司少女詩集 (角川文庫)


 萩原朔太郎は、なぜその位置に付箋を貼ったのかが一瞥してすぐにわかってしまう。中公文庫のこの本は、註が非常に細かく、ついでに活字が小さく、情報量が豊富だ。変な位置に付箋を見つけたら、ページ下に視線を移せばいい。補註の位置と合致する。

 というか、「Omegaの瞳」はどれだけ好きなんだ。付箋が貼ってあってしかも栞まで挟んであった。好きだもんな。『猫町』にしたって、折に触れて手に取ることがあるからな。


 西条八十は、折を見て再読した方がいいかなー、と思った。まだまだ自分の中に浸透しきっていない。白鳳社のこのシリーズは、版型のわりに分量が多いので、詩集としてはコストパフォーマンスが優秀だと思う。

西條八十詩集 (青春の詩集 日本篇 20)

西條八十詩集 (青春の詩集 日本篇 20)


 さて、『田村隆一詩集 誤解』だけがなぜ持っているのかわからない。1978年度版、四六判。関係の無い本の帯が挟まっていたのも覚えている。その帯を心惹かれたページに挟んだのも覚えている。

 しかし、どういうきっかけで買ったのかだけが思い出せない。

 えっと、『さよならを教えて・公式設定原画集』で石埜三千保さんが紹介していたのは、入沢康夫だったか。現代詩を薦めてきそうな人間って、他にいたっけなあ? 
 こんな事考えていたら、以前読んだ茨木のり子の詩集を思い出して、うっかり注文しようとしてしまった。思いとどまった。
 茨木のり子梨木香歩がエッセイで引用していて「え、こんな詩も書く人なの?」と驚いて、地元の図書館で二、三冊まとめて借りてきて読んだのである。ああ、これにもきっかけがあるな。
 当時もいまも買うまで踏み切れないのは、装幀を豪華にした所為で値段が高いからなのである。 そこまで好きではない、ということもあるが、収録されている量が少ないのがわかっているから思い切れない。キンドル? あれは詩歌を読むにはおそろしく不向きなツールだと思う。尾形亀之助の『色ガラスの街』がそうだった。

 一応、詩歌を書く人間からすると、改行や一行の字数、1ページ内に表示される範囲も含めて作品なので、青空文庫のように余計なことをせずアーカイブしてくれた方がまだ伝わるのである。詩人とはめんどくせえ人種なのである。ぶっちゃけ、青空文庫を許容できる(縦書き→横書き)自分はまだ良い方で、昔詩集を出すというので寄稿した際に、改行で揉めていた人がいたなあ、などと遠い目をしてしまう。だったら、作者側で版型に合わせて調節すりゃいいじゃん、と思っていたことも思い出してしまった。え、その詩集はどうしたかって? いやあ、とんと記憶に御座いませぬ。

 ここまで記憶を遡行したのに、『田村隆一詩集 誤解』はどういうきっかけで買ったのだろうか?
 思い出せない。

*1:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の頃だと思われる