リアクションみたいな記事を書いてみる

 ひさしぶりに面倒くさい事を考えている秋山くんを見た気がした。

 というのは、彼は結構こういう文章を書いているからです。そもそも蒼桐が秋山真琴を見つけたのは、はてなダイアリー時代の「思考」とかなんかそんなカテゴリーで投稿していた長文を読んで気になったからです。
 当時の自分は読むことにも書くことにも貪欲で、ついでに不遜極まりない小僧だったので「毎日毎日これほどの長文を投稿するのはどんなヤツなのだろう?」と興味を抱いたのでした。
 なお、いまでも不遜なあるいは傲慢な面は持っていると思いますが、少なくとも「そういうところが自分にはあるので気をつけよう」と意識してはいます。行き届いていなかったらごめんなさい。


 過去の話はこれくらいにしましょう。
 最近ご無沙汰なのですが、なんのかんので秋山くんとの縁は結構長く続いています。表に出る機会が重ならないだけで、そこに関係性が生まれれば機会は巡ってくるでしょう。大雑把にもほどがあるとは思いますが、それくらいがちょうど良いと最近思えるようになりました。
 他者との距離は、無理に詰めようとすると大抵はろくな事にならない、ということを身を以て知ったからです。
 いっぽうで、いつなにが起きるかわからないので、機会を見つけたならどんどん活かして行こうとも思っています。
 それが、自分にとっての「悔いを残さない選択のやりかた」なのではないかな、と。

 リンク先の記事を見ての通り、秋山真琴という人間は行動に際して計画的なのですが、結構思いつきで動く行き当たりばったりな面があります。行き当たりばったりでも支障が無いように計画を立てる人間、とも言えるかもしれません。
 実際、彼と関わって計画通りにいかなくとも結果が伴わなかったことはないし、結果が目算から外れても不満足だったことはないです。
 その結果に満足できるかできないか、言い換えれば自分が納得できるかできないかは私のとって非常に重要で、何を以て結果を成果と見定めるかの判断基準が常に自分に在るような気がします(傲慢ですね)。もちろん、依頼者など相手が存在する場合は別にして。

 記事を読んでいて、蒼桐大紀と秋山真琴の接点となっているのは「自分と他人や世界との関係性」に注視している事じゃないかなと思いました。当時、『山吹色外典』の校正を蒼桐に依頼したのは、この接点の共通性に気づいていたのかな、とも。
 結構、言葉の使い方の間違いや言い回しが変だったりして、もとの文章に干渉するぎりぎりまで突っ込みました。文語も結構多かったので、本棚から『広辞林(広辞苑の御先祖様)』を引っ張り出して対応する言葉を探したこともありますね。ちなみに、いまでもこういうケースはあるので、紙の辞書はなるべく保持してあります。

 

山吹色外典 (回廊文庫)

山吹色外典 (回廊文庫)

 
山吹色外典

山吹色外典

 

 
 それはさておき、本人が自信作というように関わった他者からしても、自信を持ってオススメできる短編集です。
 読みやすい、と感じた人がいたら私はこっそりにやにやします。

 人生百年ですかあ……。
 それくらいの気構えでいた方が良いのかもしれませんね。
 というわけで、自分のペースでゆるゆると生きていきます。

 

 ……ぶっちゃけ、そうとでも書いておかないとすぐ焦るのですよ。