Feedback to Myself~OVA『戦闘妖精雪風』を十数年ぶりに全話を通して見て気付いたこと~

 先日、OVA戦闘妖精雪風』のBlu-ray DISC BOXを買った。

 何故〝いま〟なのかというと、〝いま全話通して見るべき〟だと思ったからだ。しかし、DVDは全巻揃えるに至らず時間経過とともに散逸し、現在手元に残っているのはVol.1のみ。VHSカセットに至っては一本も残っていない。見ようとしても映像ソフトがない。これ以外で手元に残っている映像ソフトは、『戦闘妖精雪風 FAF航空戦史(DVD)』だけだ。

 それならば、とBlu-ray DISC BOXを買うことにしたのである。

 

 

 もともと買う気はあったので、Amazonの欲しいものリストに登録してあった。しかし、登録してはいたものの「まあ、気が向いた時でいいか」と思って買っていなかったのだ。

 こんな風に思っていると「その時は永遠に来ない」という言説もあるが、これは半分当たっていて半分外れている。
 というのは、時期が経つと変化する要素があるものについては、確かに〝その時〟は永遠に来ないからだ。
 一方で「まあ、気が向いた時でいいか」と思っていたら、本当に〝その時〟が来てしまうこともある。今回のように保留にしておいたものならそれを買えばいいが、運が悪いと入手困難となっていて手を尽くし足を棒にして探し回る羽目になる。

 

 OVA戦闘妖精雪風』を全話通して見るのは最初のVHS時代以来なので、実に15年ぶり(Vol.5が出たのは2005年)のことだ。計算してみると本当に15年ぶりなのだから「フムン……15年か」などとうそぶいてもいられない。うわお! である。


 このブランクの間に、DVDでは特に好きだと〝思い込んでいた〟巻を買って見ていたが、Vol.1から全話通して見返すことはしていない。Vol.1が残っていたのは、恐らくこの巻だけで一応完結した話として見ることができるからだろう。

 

 でまあ、実際見てみると、この通常版が出た際にすぐ買わなかった理由がわかった。

 自分の指向(誤字に非ずかつ嗜好も含む)に無自覚な頃に触れた深く〝刺さった〟映像作品は、「なぜ自分がそこまで惹かれるのか」わかっていないと──好きであり語れもするが──再視聴という追体験への忌避感を育ててしまう。時間が経てば経つほど、感性を揺さぶられた衝撃が強ければ強いほど、そして影響が大きければ大きいほど、傷口を見る恐さにも似て無意識に再視聴を避けてしまうのである。

 

 なぜか? 

 

 初見で深く〝刺さった〟作品であってもその要因に対して無自覚で、当時の感性、知識、視野、そして自己分析が不足していると「自分が惹かれる本当の理由」がわからない。好きなことはわかっていたが、その根底に「どうしてどこまで好きなのか」という要因がわかっていないからだ。

 つまり、自分自身に対する無理解がそうした自分を直視する忌避感(自己嫌悪の一種)を生み、好きな作品にもかかわらずじっくりと見返すことを避けてしまうのだ。

 

 映像作品は再生時間に対して情報量が膨大であり、また読書と異なり自分側で見る速度や情報量を調整することはできない。スローなどで再生速度を変えることはできるが、そうすると体験(体感)も変わってしまう。そもそもあえてそうした操作をする場合は、何か確認したい特定のポイントがある場合だろう(一瞬の挙動であるとか、短時間に表示された文字列であるとか)。


 OVA戦闘妖精雪風』は小説とは異なる展開で、独自のストーリーが完結するため様々な面でアレンジされている。

 

 ストーリーの展開や結末、登場人物や雪風をはじめとする戦闘知性体の関係性、FAF側の事情や地球側の事情、ジャムの在り方、など大枠から細部に至るまで原作小説とは異なるアプローチで描いている(これは巻が進行するに従って顕著になる)。

 それでいながら、根底にでは原作と同じことを描いており、アニメならではの解釈も非常に印象的なのだけど、いま全話通して見てみるとそういうシーンを根こそぎ忘れている。つまり、作品における肝心要とも言える部分をそっくり忘れていたのである。小説に関しては言語化すらできるのにもかかわらず、だ。

 

 しかも、たったひと言で。

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 >徹頭徹尾、人間を描いた作品。

 

 後半はフェアを意識した──他者へ薦めるために付け加えた──言葉であり、作品については上記の一文が全てである。

 OVAの原作である小説『戦闘妖精・雪風〈改〉』は、本の状態からもわかるとおり数え切れないほど再読していて、いまのところ年単位でのブランク期間は存在しない。つい最初から最後まで読み返してしまうこともある。

 

 あと、個人的に「参ったなぁ」と思ったのは、少なくとも他のシーンよりは多く見ていたはずの戦闘シーンについても、かなりの見落としが多かったことだ。

 以前、メイン・メカデザインを担当した山下いくとさん(恐らくきお誠児さんの見解も含めて)がTwitterで「Op1(1話)完成後、スタッフに『エアロダンシング(エアシュミュレータのゲーム。厳密には空戦ゲームではないのがポイント)』をプレイしてもらい空中での(戦闘機の)挙動を見てもらった。これよによって2話以降バイクのジャックナイフのような挙動はなくなった」といった主旨のツイートをしていたことがある。

 この時点ではまだVol.1以外のDVDは持っていたので確認はできたけれど、そこだけ見てもいまいちわからない。正確には「何となくわかったような気がしている自分がいる」ことに気付いてすっきりしなかった。困ったのは実際に航空機のアクロバット機動を見たことがあるため、Vol.1における空戦機動に対して「なんか変」と感じていたからだった。

 だから、上記の相違はわかるのだけど、単にリアリティを付ける以上の演出としての役割がわからない。正確にはそれがあると感じるのに、見えていないのだ(深井零「見えないのか!?(Op2より)」)。

 これが、わかったような気がしている自分に気付いてしまい首をひねっている状態である。

 

 しかし、これも全話通して見れば一目瞭然で、指摘のあったOp1以降の挙動の相違や俗に変態機動などと呼ばれる動きをするメイヴやレイフについても飛行体として有り得ない動きはしていない。技術的にそうした機動を実行するだけの機体強度や出力(比推力)を有するエンジンが存在しないため現実には無理なのだが、そうした技術的ハードルを突破できれば可能というウソを描いていることはわかる。「わかったつもりになっていないか?」という疑いを持たず「自分にわかる範囲でわかる」という実感が伴うのである。

 上記のウソというのは、科学(サイエンス)な考証という裏打ちのある作り話(フィクション)。すなわちSFなのだけど、科学は自然科学と社会科学を引っくるめてのものなので、むしろ社会科学の面が強い『戦闘妖精・雪風』の映像化作品であるOVA戦闘妖精雪風』は空戦描写(航空力学→物理学→自然科学主体)も人間と人間、人間とコンピュータ、人間とジャム、といった部分が前面に出て来るドラマの部分と密接に繋がっている。

 そういった気付きも含めて、今回の再視聴は非常に良いタイミングであり、Blu-ray DISC BOXを買ったのは正しい判断だったと思った。


 ところで、数年前からTwitterに現在視聴しているアニメの感想を書くようにしている。表に出す文章を書く習慣を付けるために始めたのだけど、そこからフィードバックされるものも多い。

 だから、これらを振り返ってみると、自分は作品内での人間関係の描き方(見せ方)に特に注目しているのがわかる。それは演出であったり、カメラワークであったり、様々な要素が絡んでいるのだが、根底にあるのは上記の関係性の描き方である。当然、アニメのキャラクターは、人間だけではないので、意思疎通が可能な全てのものが対象になる。

 そうしたわけで、このフィードバックから冒頭に書いた自分の指向と一致する部分の存在という視点を得て、さらにOVA戦闘妖精雪風』の再視聴からのフィードバックでこの記事を書いているのである。

 

 本音を言うともう少し軽いというか柔らかいというか、雑談風の文章にしたいのだけど、素を出せば出すほど(自分に対して正直になるほど)堅めの文章になってしまうのが困りものである。

 ちなみにこの記事、最初noteの方に投稿したのだけれど、『戦闘妖精・雪風』については、これまで一貫してはてなブログの方で扱ってきたのと、明らかにこちら向けの文面になってしまったので、ちょっと修正してこちらに載せた。最初の判別を見誤ったがために、とんだ二度手間である。

 まあその分、記事全体としてはマシなものになったと思いたい。

 

BGM:bermei.inazawa「sthaks」(kaede,org『不惑 ~さよなら30代~』)