門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』創元SF文庫

  

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

  • 作者:門田 充宏
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 文庫
 

 過剰共感能力者とは、他人の感情に共感しすぎてしまう特異な体質のために、社会生活に支障をきたしてしまう人々。生きづらさを抱える彼らの共感能力を生かし、本来はその持ち主にしか理解できない記憶を第三者にも分かるようにする〝記憶翻訳〟の技術を開発したのが九龍という企業だった。珊瑚はその中でもトップクラスの実力を持つ記憶翻訳者だ。依頼人に寄り添い、その人生を追体験するうち、珊瑚は幼い頃に失った自分の一部について思いを馳せるようになる──。

 

 あらすじより。

 

 短編4作を収録した短編集。先に東京創元社より出た単行本『風牙』の文庫版だけど、後半2作をそっくり書き下ろしに入れ替えた1冊なので、単行本を読んだ方は是非この文庫版を読んで欲しい。

 これからこのシリーズを読む人は、この文庫から入ってもいいし、あえて刊行順に読んでみて、改稿による相違点を楽しむのもアリだと思う。

 

 収録作。

 

 

『風牙 I know , you are good boy』

 犬を通して描かれた思いを受け継ぐ物語。
 人間と飼い犬は共同生活を送る上でのルールを作っていく都合から主従関係を結ぶが、長ずればそれは親きょうだいとも並ぶ関係になり得る。

 人間同士でもこれに似た事はあって、片方が先達としてもう片方を──指導や誘導ほど明確なものではないやり方で──導いていくうちに、対等な上下関係が生まれることがある。歳の離れた友人を友と呼ぶのに少し抵抗を感じたり、年上のあるいは年下の家族と接するにも似た心情を抱いたりするのがこれだと思う。

 そして、この関係は双方の敬意と信頼によって結ばれていて、さらに別の誰かへ受け継がれていくものでもあると思う。


 また、記憶翻訳とは言うものの、翻訳の前にはまず翻訳者自身の解釈が入るため、記憶翻訳者《インタープリタ》は一体どんなことをやるのか、いわゆるフルダイブ型の意識のみでの仮想体験とどの様に違うのかがわかると思う(※1)。

  

※1:2020年現在において、この文章が意図するところを、VR(Vertical Realityとイコールで結ぶのは適当ではないと考える。これまで様々な形で様々なSF、サイバーパンク作品で描かれてきた仮想世界での体験は、実現されているVRはもとよりAR(Augmented Reality/拡張現実 or 強化現実)やその上位概念であるMR(Mixed Reality/ミクスト・リアリティ/複合現実)とも分化した技術──まさしくこの作品の〝疑験〟のような新たな技術──としてそれぞれ並立するようになっていく、と予想しているからである。面倒くさい読者でごめんなさい。

 

 

『閉鎖回廊 I'll always be on your side』

 恐怖に特化した疑似体験テーマパークの開発者を巡る事件。

 前回単行本で読んだ際は、ここで扱われる恐怖の原点となっている出来事に共感してしまってあまり感想を書けなかった作品。現在は共感せずに済む生活環境の構築しているので、フラットな気持ちで読めたため、作中でも疑問視される部分がどうおかしいのか気付くことができた。

 つまり、『閉鎖回廊』に置けるこの罠は、物語のトリックではなく、物語世界における記憶翻訳がはらんでいる危うさそのものなのだ。

 これはきわめて重要なことで、どんな技術でも利便性と危険性は切っても切り離せない関係にあり、その主体が人間である以上は極めてデリケートな課題だという示唆であると同時に、作中に登場する記憶翻訳を筆頭とするあらゆる架空技術もその例外ではないと作者が明言していることだからである。
 そうした意味では、収録作の中で最もSFらしい作品かもしれない。

 

 改稿部分は冒頭部分の閉鎖回廊(作中での同名コンテンツ)がより娯楽コンテンツらしくなっていたと思う。有り体に言うと、不気味なものがどの様に不気味なのか書いてあった(うねうね)。

 

 記憶は過去の出来事を元にしているけれど、必ずしも過去の出来事そのまま記録しているわけではないし、本来は主体者の体験に基づくその個人だけのものである。この当たり前のことが、実はそう意識しないと人間はいとも容易く忘れてしまう、あるいはその事実を見落としてしまうという陥穽を衝いた作品。

 読者はもちろん、記憶や脳神経科学のプロフェッショナルである作中の人物全てにも当てはまることで、これが「閉鎖回廊」の本当の罠であると思った。

 

 それから、過剰共感能力者ではなくとも、人間は他者を自分の中に持っている。簡単な例を挙げると「あの人ならどう思うかな?」と考えたとき、相手の姿が思い浮かぶ様子がそれである(※2)。

 

※2:チャールズ・ホートン・クーリーの『鏡に映る自我』で述べられている内容と、これを受けたジョージ・ハーバート・ミードの研究を踏まえた下記のような人間関係の捉え方がある。

 他者の中の自分(自分は相手にどう見られているのか)と、自分の中の他者(自分は相手をどう捉えているのか)、この二つの相関関係で自分自身(自己/自我)を分析することで、(人間は)自己を確立し他者との関係を把握する。

 実はこれが図書館学と並ぶ学生時代の専攻分野で、C・H・クーリーもG・H・ミードも手ごろな訳書が無く(いまも無い! いまだに無い!)、半泣きで原書の該当部分を訳して卒論を書いた思い出がある。

 恩師M教授(仮名)、恩師I教授(仮名)、ご教示ありがとう御座いました。

 

 

『いつか光になる That's why I was able to allow myself to be here』

 映画を観た主体者の記憶を翻訳・汎用化し、映画のプロモーション素材として売り込む九龍の新規事業と、体験と記憶、自身を基底に根ざす物について描いた話。


 取り扱う題材(事業)の性質上、記憶翻訳者の珊瑚と記憶主体者のハルことハロルド・ガーネットが直接やり取りをする、本シリーズではイレギュラーな位置付けとなる作品でもある。

 プライバシー保護を筆頭に諸々の観点から「記憶翻訳者は記憶主体者と直接のコンタクトを取ってはならない」という作品内における記憶翻訳者のレギュレーションから外れた内容であるため、イレギュラーな位置付けとした。

 

 珊瑚、不二社長、ハルと今回初登場の社長秘書千曳女史は、会社を抜きにしてもそれぞれプライベートな関わりを持ついわば身内であり、珊瑚を除いた3人に至っては、学生時代の上級生と下級生、生徒と教師という間柄である。

 視聴記憶(体験)を活用した映画プロモーション事業に関しては、カマラ女史が2人の折衝役として関わっており、パブリックな話題をプライベートな関わりから作り上げていく構造になっている。

 そのため、記憶主体のハルはもとより珊瑚や不二の内面に迫る部分が多く、まさしく「単行本を読んだ方には是非読んで欲しい話」だと思う。

 

 記憶翻訳者シリーズを読む際に注意すべき点として、記憶の翻訳・汎用化という技術があり、珊瑚が(他者の感じたことを自分が感じているかのように受け取ってしまう)過剰共感能力者のグレード5だという前提が常にあるということで、ある話題(ここでは映画)についての語りが一段落するまでは、それについての見解や意見はたとえ地の文に書いてあっても作品における一般的見解でもなければ、珊瑚の見解でもなく「珊瑚が解釈した対象の見解」ということがある。

 技術的な面で映画とVRやAR、さらにそれらを掛け合わせたMR(ミクスト・リアリティ)が引き合いに出されるが、作中での見解は正確には映画ではなく、映画館での映画鑑賞のことを指していて、それさえもハルの主観に寄った見解だと言うことを見落としやすい。さらに、ハルは過剰共感能力者グレード4であり、珊瑚と同じく動的外部刺激調整モジュール《トランキライザ》が社会生活に欠かせないという部分もこの点に関わってくる。

 こうした視点の混淆しやすさと、ミスリードを誘発しかねない仕掛けこそが、過剰共感能力者の見ている世界の一端であり、すなわち主人公の珊瑚の外界の見え方でもあると思う。実際、珊瑚自身が主体で描かれるときは、そうした仕掛けはない。


 この仕掛けを巧妙に利用したのが『閉鎖回廊』における九つの記憶の翻訳と結末に至るくだりであり、過剰共感能力者について度々語られる「自他の境界が曖昧になる」という言葉の意味を示したのが『いつか光になる』における映画館での体験に対する見解が描かれている部分だと思う。

 記憶翻訳者が知覚する世界と過去の描き方を明確に分けてあるのがわかる作品でもあり、特にハルと不二とが共有した学生時代(中高一貫校)についての描写は、特にそれとは書いていないにもかかわらず擬験世界よりも臭いと手触りが感じられた。

 あまり分析すると読書が面白くなくなるのでやっていないが、読者が持つ該当する記憶とリンクしやい書き方を意識していると思う。

 というより、やりかたは人それぞれなので、自分がそう感じたと気付いただけで十分だと考える。

 それはさておき、何気にこの作品で重要なのは以下の部分だと思っている。

 

「……むっちゃクリアに記憶されてましたよ」

 あちゃー、とハルは頭を抱えた。

「カットできないかなそこ。映像や台詞が記憶に入ってもいいとは言われているんだけど、さすがに最初のクライマックスは伏せておきたい」

「残念ながら」

 懇願に近いハルの言葉だったが、カマラが横に首を振った。

「記憶データは映画のようには編集できない。記憶を構成しているのは膨大な量の感覚情報で、それだけ見てもどんな記憶かは判別不可能だ。つまり、人間の脳で再生する以外には、データのどの部分が記憶の何処に該当するかを知る方法はないんだ」

(中略)

「仮にそうした機能を作り込んだとしても、膨大な量の感覚データによって構成されている記憶は映像や音声のように編集できない。単純にデータを切断すると、人間の脳はそれを記憶として再成できなくなってしまうんだ」

 

   門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』創元SF文庫 P246-247

 

 本シリーズが記憶をどの様に扱っているかを端的に示したやり取りである。

 過剰共感能力者である記憶翻訳者が他者の記憶を翻訳し汎用化することで、他の誰もが我が事のように体験できる技術があっても、記憶そのものをデータのように扱うことはできない。

 すなわち、記憶翻訳は人間の脳の機能を利用した技術なので、人間の脳機能以上の扱い方はできない、ということである。

 この向き合い方は、フィクションを描く上で非常に真摯な姿勢だと思う。
 宣伝なので帯には『「ゴルディアスの結び目」や《サイコダイバー》シリーズに連なる……』とあるが、個人的には小松左京夢枕獏よりもデヴィッド・イーグルマンやジェラルド・M・エーデルマンを読んでいる人向けの小説だと思う。

 漫画ならば、間違いなく『鍵つきテラリウム(平沢ゆうな/フレックスコミックス)』である。

 

鍵つきテラリウム(1) (メテオCOMICS)

鍵つきテラリウム(1) (メテオCOMICS)

 

 

 終わるべくして終わる良い幕引きなのだが、どこかほろ苦い。

 

 

『嵐の夜に Intermission - Lack of mine』

 『いつか光になる』の後日談であり、珊瑚がその先へ進む足掛かりを映した挿話。

 実を言うと、単行本版『風牙』は1冊の本としての完成度を別にすると、読後感はあまり良くないという欠点があった。最後の『虚ろの座』は時系列が本編より過去のため、解釈次第で解消できるものだったので、それほど気にしていなかったのだが、改めて別の構成を提示されるとこのごく短いお話しが染みてくる。

 いまいちはっきりしなかった九龍の所在地が首都圏という言葉から都内のどこかだと言うことがわかる話でもあり、背景世界のディテールを補強する上でも重要な役割を担っている。

 台風で交通機関が止まって、遅くまで残っていた珊瑚とハルが緩衝室に一泊する羽目になるというだけのなんでもない話なのだけど、私は門田充宏さんの書くこういうなんでもないところに滲み出てくる日常感を思い描くのが本当に好きでたまらない。

 

 

 『風牙』と『閉鎖回廊』は。単行本表題作の改稿版なので相違点(改稿部分)が結構あって、そう何度も再読した記憶は無いのに我ながら良く覚えているな、などと思いつつこの変化を楽しんでいました。

 

 まず気付いたのは、珊瑚が他者の意識(記憶)にアプローチしていくシーンが内容はそのままに全面的な改稿が加えられているところです。単行本版よりも地の文に含まれる珊瑚の言葉が出てくるタイミングが早く、彼女自身についての描写が補強されているのでキャラクターを思い描きやすくなっていました。

 

 個人的には単行本版の自他の境界を割り出し世界と自分(=珊瑚)が形作られていく硬質な導入が好きなのですが、しおんさんの表紙絵を最初に見ているから〝そう〟感じられるのであって、小説としてはこの描き方が当然良いです。

 

 実際、各所に加筆された人物描写も単行本版『風牙』の表紙からのフィードバックが多くあるように思いましたし、『記憶翻訳者』を読んでから単行本版『風牙』の表紙を見ても印象にズレはないでしょう。


 単行本からの読者としては、珊瑚の見た目はしおんさんの描いた絵が正解──自分にとって正しい解釈──で不動の物となっているので、視覚イメージの強さを改めて思い知らされました。

 

 あと、どこかで門田さんが「方言女子が好き」と書いていたのですが、今回は珊瑚の大阪弁にも単行本版とは微妙な修正が入っていました。と言っても、生身で体験したのは20日間程度の残りは耳学問の人間なので、偉そうなことは言えません。

 

 国内SF作品でのイチ押しは『戦闘妖精・雪風』ですが、これに〝近年の〟とか〝21世紀に入ってからの〟といった枕詞がついた場合、私は『記憶翻訳者』を推します。

 

 

おまけ

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 サイン本プレゼント企画に当選したので、事前予約していたものと合わせてうちには2冊あります。