門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』創元SF文庫

  

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

記憶翻訳者 いつか光になる (創元SF文庫)

  • 作者:門田 充宏
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 文庫
 

 過剰共感能力者とは、他人の感情に共感しすぎてしまう特異な体質のために、社会生活に支障をきたしてしまう人々。生きづらさを抱える彼らの共感能力を生かし、本来はその持ち主にしか理解できない記憶を第三者にも分かるようにする〝記憶翻訳〟の技術を開発したのが九龍という企業だった。珊瑚はその中でもトップクラスの実力を持つ記憶翻訳者だ。依頼人に寄り添い、その人生を追体験するうち、珊瑚は幼い頃に失った自分の一部について思いを馳せるようになる──。

 

 あらすじより。

 

 短編4作を収録した短編集。先に東京創元社より出た単行本『風牙』の文庫版だけど、後半2作をそっくり書き下ろしに入れ替えた1冊なので、単行本を読んだ方は是非この文庫版を読んで欲しい。

 これからこのシリーズを読む人は、この文庫から入ってもいいし、あえて刊行順に読んでみて、改稿による相違点を楽しむのもアリだと思う。

 

 収録作。

 

 

『風牙 I know , you are good boy』

 犬を通して描かれた思いを受け継ぐ物語。
 人間と飼い犬は共同生活を送る上でのルールを作っていく都合から主従関係を結ぶが、長ずればそれは親きょうだいとも並ぶ関係になり得る。

 人間同士でもこれに似た事はあって、片方が先達としてもう片方を──指導や誘導ほど明確なものではないやり方で──導いていくうちに、対等な上下関係が生まれることがある。歳の離れた友人を友と呼ぶのに少し抵抗を感じたり、年上のあるいは年下の家族と接するにも似た心情を抱いたりするのがこれだと思う。

 そして、この関係は双方の敬意と信頼によって結ばれていて、さらに別の誰かへ受け継がれていくものでもあると思う。


 また、記憶翻訳とは言うものの、翻訳の前にはまず翻訳者自身の解釈が入るため、記憶翻訳者《インタープリタ》は一体どんなことをやるのか、いわゆるフルダイブ型の意識のみでの仮想体験とどの様に違うのかがわかると思う(※1)。

  

※1:2020年現在において、この文章が意図するところを、VR(Vertical Realityとイコールで結ぶのは適当ではないと考える。これまで様々な形で様々なSF、サイバーパンク作品で描かれてきた仮想世界での体験は、実現されているVRはもとよりAR(Augmented Reality/拡張現実 or 強化現実)やその上位概念であるMR(Mixed Reality/ミクスト・リアリティ/複合現実)とも分化した技術──まさしくこの作品の〝疑験〟のような新たな技術──としてそれぞれ並立するようになっていく、と予想しているからである。面倒くさい読者でごめんなさい。

 

 

『閉鎖回廊 I'll always be on your side』

 恐怖に特化した疑似体験テーマパークの開発者を巡る事件。

 前回単行本で読んだ際は、ここで扱われる恐怖の原点となっている出来事に共感してしまってあまり感想を書けなかった作品。現在は共感せずに済む生活環境の構築しているので、フラットな気持ちで読めたため、作中でも疑問視される部分がどうおかしいのか気付くことができた。

 つまり、『閉鎖回廊』に置けるこの罠は、物語のトリックではなく、物語世界における記憶翻訳がはらんでいる危うさそのものなのだ。

 これはきわめて重要なことで、どんな技術でも利便性と危険性は切っても切り離せない関係にあり、その主体が人間である以上は極めてデリケートな課題だという示唆であると同時に、作中に登場する記憶翻訳を筆頭とするあらゆる架空技術もその例外ではないと作者が明言していることだからである。
 そうした意味では、収録作の中で最もSFらしい作品かもしれない。

 

 改稿部分は冒頭部分の閉鎖回廊(作中での同名コンテンツ)がより娯楽コンテンツらしくなっていたと思う。有り体に言うと、不気味なものがどの様に不気味なのか書いてあった(うねうね)。

 

 記憶は過去の出来事を元にしているけれど、必ずしも過去の出来事そのまま記録しているわけではないし、本来は主体者の体験に基づくその個人だけのものである。この当たり前のことが、実はそう意識しないと人間はいとも容易く忘れてしまう、あるいはその事実を見落としてしまうという陥穽を衝いた作品。

 読者はもちろん、記憶や脳神経科学のプロフェッショナルである作中の人物全てにも当てはまることで、これが「閉鎖回廊」の本当の罠であると思った。

 

 それから、過剰共感能力者ではなくとも、人間は他者を自分の中に持っている。簡単な例を挙げると「あの人ならどう思うかな?」と考えたとき、相手の姿が思い浮かぶ様子がそれである(※2)。

 

※2:チャールズ・ホートン・クーリーの『鏡に映る自我』で述べられている内容と、これを受けたジョージ・ハーバート・ミードの研究を踏まえた下記のような人間関係の捉え方がある。

 他者の中の自分(自分は相手にどう見られているのか)と、自分の中の他者(自分は相手をどう捉えているのか)、この二つの相関関係で自分自身(自己/自我)を分析することで、(人間は)自己を確立し他者との関係を把握する。

 実はこれが図書館学と並ぶ学生時代の専攻分野で、C・H・クーリーもG・H・ミードも手ごろな訳書が無く(いまも無い! いまだに無い!)、半泣きで原書の該当部分を訳して卒論を書いた思い出がある。

 恩師M教授(仮名)、恩師I教授(仮名)、ご教示ありがとう御座いました。

 

 

『いつか光になる That's why I was able to allow myself to be here』

 映画を観た主体者の記憶を翻訳・汎用化し、映画のプロモーション素材として売り込む九龍の新規事業と、体験と記憶、自身を基底に根ざす物について描いた話。


 取り扱う題材(事業)の性質上、記憶翻訳者の珊瑚と記憶主体者のハルことハロルド・ガーネットが直接やり取りをする、本シリーズではイレギュラーな位置付けとなる作品でもある。

 プライバシー保護を筆頭に諸々の観点から「記憶翻訳者は記憶主体者と直接のコンタクトを取ってはならない」という作品内における記憶翻訳者のレギュレーションから外れた内容であるため、イレギュラーな位置付けとした。

 

 珊瑚、不二社長、ハルと今回初登場の社長秘書千曳女史は、会社を抜きにしてもそれぞれプライベートな関わりを持ついわば身内であり、珊瑚を除いた3人に至っては、学生時代の上級生と下級生、生徒と教師という間柄である。

 視聴記憶(体験)を活用した映画プロモーション事業に関しては、カマラ女史が2人の折衝役として関わっており、パブリックな話題をプライベートな関わりから作り上げていく構造になっている。

 そのため、記憶主体のハルはもとより珊瑚や不二の内面に迫る部分が多く、まさしく「単行本を読んだ方には是非読んで欲しい話」だと思う。

 

 記憶翻訳者シリーズを読む際に注意すべき点として、記憶の翻訳・汎用化という技術があり、珊瑚が(他者の感じたことを自分が感じているかのように受け取ってしまう)過剰共感能力者のグレード5だという前提が常にあるということで、ある話題(ここでは映画)についての語りが一段落するまでは、それについての見解や意見はたとえ地の文に書いてあっても作品における一般的見解でもなければ、珊瑚の見解でもなく「珊瑚が解釈した対象の見解」ということがある。

 技術的な面で映画とVRやAR、さらにそれらを掛け合わせたMR(ミクスト・リアリティ)が引き合いに出されるが、作中での見解は正確には映画ではなく、映画館での映画鑑賞のことを指していて、それさえもハルの主観に寄った見解だと言うことを見落としやすい。さらに、ハルは過剰共感能力者グレード4であり、珊瑚と同じく動的外部刺激調整モジュール《トランキライザ》が社会生活に欠かせないという部分もこの点に関わってくる。

 こうした視点の混淆しやすさと、ミスリードを誘発しかねない仕掛けこそが、過剰共感能力者の見ている世界の一端であり、すなわち主人公の珊瑚の外界の見え方でもあると思う。実際、珊瑚自身が主体で描かれるときは、そうした仕掛けはない。


 この仕掛けを巧妙に利用したのが『閉鎖回廊』における九つの記憶の翻訳と結末に至るくだりであり、過剰共感能力者について度々語られる「自他の境界が曖昧になる」という言葉の意味を示したのが『いつか光になる』における映画館での体験に対する見解が描かれている部分だと思う。

 記憶翻訳者が知覚する世界と過去の描き方を明確に分けてあるのがわかる作品でもあり、特にハルと不二とが共有した学生時代(中高一貫校)についての描写は、特にそれとは書いていないにもかかわらず擬験世界よりも臭いと手触りが感じられた。

 あまり分析すると読書が面白くなくなるのでやっていないが、読者が持つ該当する記憶とリンクしやい書き方を意識していると思う。

 というより、やりかたは人それぞれなので、自分がそう感じたと気付いただけで十分だと考える。

 それはさておき、何気にこの作品で重要なのは以下の部分だと思っている。

 

「……むっちゃクリアに記憶されてましたよ」

 あちゃー、とハルは頭を抱えた。

「カットできないかなそこ。映像や台詞が記憶に入ってもいいとは言われているんだけど、さすがに最初のクライマックスは伏せておきたい」

「残念ながら」

 懇願に近いハルの言葉だったが、カマラが横に首を振った。

「記憶データは映画のようには編集できない。記憶を構成しているのは膨大な量の感覚情報で、それだけ見てもどんな記憶かは判別不可能だ。つまり、人間の脳で再生する以外には、データのどの部分が記憶の何処に該当するかを知る方法はないんだ」

(中略)

「仮にそうした機能を作り込んだとしても、膨大な量の感覚データによって構成されている記憶は映像や音声のように編集できない。単純にデータを切断すると、人間の脳はそれを記憶として再成できなくなってしまうんだ」

 

   門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』創元SF文庫 P246-247

 

 本シリーズが記憶をどの様に扱っているかを端的に示したやり取りである。

 過剰共感能力者である記憶翻訳者が他者の記憶を翻訳し汎用化することで、他の誰もが我が事のように体験できる技術があっても、記憶そのものをデータのように扱うことはできない。

 すなわち、記憶翻訳は人間の脳の機能を利用した技術なので、人間の脳機能以上の扱い方はできない、ということである。

 この向き合い方は、フィクションを描く上で非常に真摯な姿勢だと思う。
 宣伝なので帯には『「ゴルディアスの結び目」や《サイコダイバー》シリーズに連なる……』とあるが、個人的には小松左京夢枕獏よりもデヴィッド・イーグルマンやジェラルド・M・エーデルマンを読んでいる人向けの小説だと思う。

 漫画ならば、間違いなく『鍵つきテラリウム(平沢ゆうな/フレックスコミックス)』である。

 

鍵つきテラリウム(1) (メテオCOMICS)

鍵つきテラリウム(1) (メテオCOMICS)

 

 

 終わるべくして終わる良い幕引きなのだが、どこかほろ苦い。

 

 

『嵐の夜に Intermission - Lack of mine』

 『いつか光になる』の後日談であり、珊瑚がその先へ進む足掛かりを映した挿話。

 実を言うと、単行本版『風牙』は1冊の本としての完成度を別にすると、読後感はあまり良くないという欠点があった。最後の『虚ろの座』は時系列が本編より過去のため、解釈次第で解消できるものだったので、それほど気にしていなかったのだが、改めて別の構成を提示されるとこのごく短いお話しが染みてくる。

 いまいちはっきりしなかった九龍の所在地が首都圏という言葉から都内のどこかだと言うことがわかる話でもあり、背景世界のディテールを補強する上でも重要な役割を担っている。

 台風で交通機関が止まって、遅くまで残っていた珊瑚とハルが緩衝室に一泊する羽目になるというだけのなんでもない話なのだけど、私は門田充宏さんの書くこういうなんでもないところに滲み出てくる日常感を思い描くのが本当に好きでたまらない。

 

 

 『風牙』と『閉鎖回廊』は。単行本表題作の改稿版なので相違点(改稿部分)が結構あって、そう何度も再読した記憶は無いのに我ながら良く覚えているな、などと思いつつこの変化を楽しんでいました。

 

 まず気付いたのは、珊瑚が他者の意識(記憶)にアプローチしていくシーンが内容はそのままに全面的な改稿が加えられているところです。単行本版よりも地の文に含まれる珊瑚の言葉が出てくるタイミングが早く、彼女自身についての描写が補強されているのでキャラクターを思い描きやすくなっていました。

 

 個人的には単行本版の自他の境界を割り出し世界と自分(=珊瑚)が形作られていく硬質な導入が好きなのですが、しおんさんの表紙絵を最初に見ているから〝そう〟感じられるのであって、小説としてはこの描き方が当然良いです。

 

 実際、各所に加筆された人物描写も単行本版『風牙』の表紙からのフィードバックが多くあるように思いましたし、『記憶翻訳者』を読んでから単行本版『風牙』の表紙を見ても印象にズレはないでしょう。


 単行本からの読者としては、珊瑚の見た目はしおんさんの描いた絵が正解──自分にとって正しい解釈──で不動の物となっているので、視覚イメージの強さを改めて思い知らされました。

 

 あと、どこかで門田さんが「方言女子が好き」と書いていたのですが、今回は珊瑚の大阪弁にも単行本版とは微妙な修正が入っていました。と言っても、生身で体験したのは20日間程度の残りは耳学問の人間なので、偉そうなことは言えません。

 

 国内SF作品でのイチ押しは『戦闘妖精・雪風』ですが、これに〝近年の〟とか〝21世紀に入ってからの〟といった枕詞がついた場合、私は『記憶翻訳者』を推します。

 

 

おまけ

f:id:shisiki:20201104020628j:plain

 サイン本プレゼント企画に当選したので、事前予約していたものと合わせてうちには2冊あります。

 

 

 

 

 

Feedback to Myself~OVA『戦闘妖精雪風』を十数年ぶりに全話を通して見て気付いたこと~

 先日、OVA戦闘妖精雪風』のBlu-ray DISC BOXを買った。

 何故〝いま〟なのかというと、〝いま全話通して見るべき〟だと思ったからだ。しかし、DVDは全巻揃えるに至らず時間経過とともに散逸し、現在手元に残っているのはVol.1のみ。VHSカセットに至っては一本も残っていない。見ようとしても映像ソフトがない。これ以外で手元に残っている映像ソフトは、『戦闘妖精雪風 FAF航空戦史(DVD)』だけだ。

 それならば、とBlu-ray DISC BOXを買うことにしたのである。

 

 

 もともと買う気はあったので、Amazonの欲しいものリストに登録してあった。しかし、登録してはいたものの「まあ、気が向いた時でいいか」と思って買っていなかったのだ。

 こんな風に思っていると「その時は永遠に来ない」という言説もあるが、これは半分当たっていて半分外れている。
 というのは、時期が経つと変化する要素があるものについては、確かに〝その時〟は永遠に来ないからだ。
 一方で「まあ、気が向いた時でいいか」と思っていたら、本当に〝その時〟が来てしまうこともある。今回のように保留にしておいたものならそれを買えばいいが、運が悪いと入手困難となっていて手を尽くし足を棒にして探し回る羽目になる。

 

 OVA戦闘妖精雪風』を全話通して見るのは最初のVHS時代以来なので、実に15年ぶり(Vol.5が出たのは2005年)のことだ。計算してみると本当に15年ぶりなのだから「フムン……15年か」などとうそぶいてもいられない。うわお! である。


 このブランクの間に、DVDでは特に好きだと〝思い込んでいた〟巻を買って見ていたが、Vol.1から全話通して見返すことはしていない。Vol.1が残っていたのは、恐らくこの巻だけで一応完結した話として見ることができるからだろう。

 

 でまあ、実際見てみると、この通常版が出た際にすぐ買わなかった理由がわかった。

 自分の指向(誤字に非ずかつ嗜好も含む)に無自覚な頃に触れた深く〝刺さった〟映像作品は、「なぜ自分がそこまで惹かれるのか」わかっていないと──好きであり語れもするが──再視聴という追体験への忌避感を育ててしまう。時間が経てば経つほど、感性を揺さぶられた衝撃が強ければ強いほど、そして影響が大きければ大きいほど、傷口を見る恐さにも似て無意識に再視聴を避けてしまうのである。

 

 なぜか? 

 

 初見で深く〝刺さった〟作品であってもその要因に対して無自覚で、当時の感性、知識、視野、そして自己分析が不足していると「自分が惹かれる本当の理由」がわからない。好きなことはわかっていたが、その根底に「どうしてどこまで好きなのか」という要因がわかっていないからだ。

 つまり、自分自身に対する無理解がそうした自分を直視する忌避感(自己嫌悪の一種)を生み、好きな作品にもかかわらずじっくりと見返すことを避けてしまうのだ。

 

 映像作品は再生時間に対して情報量が膨大であり、また読書と異なり自分側で見る速度や情報量を調整することはできない。スローなどで再生速度を変えることはできるが、そうすると体験(体感)も変わってしまう。そもそもあえてそうした操作をする場合は、何か確認したい特定のポイントがある場合だろう(一瞬の挙動であるとか、短時間に表示された文字列であるとか)。


 OVA戦闘妖精雪風』は小説とは異なる展開で、独自のストーリーが完結するため様々な面でアレンジされている。

 

 ストーリーの展開や結末、登場人物や雪風をはじめとする戦闘知性体の関係性、FAF側の事情や地球側の事情、ジャムの在り方、など大枠から細部に至るまで原作小説とは異なるアプローチで描いている(これは巻が進行するに従って顕著になる)。

 それでいながら、根底にでは原作と同じことを描いており、アニメならではの解釈も非常に印象的なのだけど、いま全話通して見てみるとそういうシーンを根こそぎ忘れている。つまり、作品における肝心要とも言える部分をそっくり忘れていたのである。小説に関しては言語化すらできるのにもかかわらず、だ。

 

 しかも、たったひと言で。

f:id:shisiki:20170617003123j:plain


 >徹頭徹尾、人間を描いた作品。

 

 後半はフェアを意識した──他者へ薦めるために付け加えた──言葉であり、作品については上記の一文が全てである。

 OVAの原作である小説『戦闘妖精・雪風〈改〉』は、本の状態からもわかるとおり数え切れないほど再読していて、いまのところ年単位でのブランク期間は存在しない。つい最初から最後まで読み返してしまうこともある。

 

 あと、個人的に「参ったなぁ」と思ったのは、少なくとも他のシーンよりは多く見ていたはずの戦闘シーンについても、かなりの見落としが多かったことだ。

 以前、メイン・メカデザインを担当した山下いくとさん(恐らくきお誠児さんの見解も含めて)がTwitterで「Op1(1話)完成後、スタッフに『エアロダンシング(エアシュミュレータのゲーム。厳密には空戦ゲームではないのがポイント)』をプレイしてもらい空中での(戦闘機の)挙動を見てもらった。これよによって2話以降バイクのジャックナイフのような挙動はなくなった」といった主旨のツイートをしていたことがある。

 この時点ではまだVol.1以外のDVDは持っていたので確認はできたけれど、そこだけ見てもいまいちわからない。正確には「何となくわかったような気がしている自分がいる」ことに気付いてすっきりしなかった。困ったのは実際に航空機のアクロバット機動を見たことがあるため、Vol.1における空戦機動に対して「なんか変」と感じていたからだった。

 だから、上記の相違はわかるのだけど、単にリアリティを付ける以上の演出としての役割がわからない。正確にはそれがあると感じるのに、見えていないのだ(深井零「見えないのか!?(Op2より)」)。

 これが、わかったような気がしている自分に気付いてしまい首をひねっている状態である。

 

 しかし、これも全話通して見れば一目瞭然で、指摘のあったOp1以降の挙動の相違や俗に変態機動などと呼ばれる動きをするメイヴやレイフについても飛行体として有り得ない動きはしていない。技術的にそうした機動を実行するだけの機体強度や出力(比推力)を有するエンジンが存在しないため現実には無理なのだが、そうした技術的ハードルを突破できれば可能というウソを描いていることはわかる。「わかったつもりになっていないか?」という疑いを持たず「自分にわかる範囲でわかる」という実感が伴うのである。

 上記のウソというのは、科学(サイエンス)な考証という裏打ちのある作り話(フィクション)。すなわちSFなのだけど、科学は自然科学と社会科学を引っくるめてのものなので、むしろ社会科学の面が強い『戦闘妖精・雪風』の映像化作品であるOVA戦闘妖精雪風』は空戦描写(航空力学→物理学→自然科学主体)も人間と人間、人間とコンピュータ、人間とジャム、といった部分が前面に出て来るドラマの部分と密接に繋がっている。

 そういった気付きも含めて、今回の再視聴は非常に良いタイミングであり、Blu-ray DISC BOXを買ったのは正しい判断だったと思った。


 ところで、数年前からTwitterに現在視聴しているアニメの感想を書くようにしている。表に出す文章を書く習慣を付けるために始めたのだけど、そこからフィードバックされるものも多い。

 だから、これらを振り返ってみると、自分は作品内での人間関係の描き方(見せ方)に特に注目しているのがわかる。それは演出であったり、カメラワークであったり、様々な要素が絡んでいるのだが、根底にあるのは上記の関係性の描き方である。当然、アニメのキャラクターは、人間だけではないので、意思疎通が可能な全てのものが対象になる。

 そうしたわけで、このフィードバックから冒頭に書いた自分の指向と一致する部分の存在という視点を得て、さらにOVA戦闘妖精雪風』の再視聴からのフィードバックでこの記事を書いているのである。

 

 本音を言うともう少し軽いというか柔らかいというか、雑談風の文章にしたいのだけど、素を出せば出すほど(自分に対して正直になるほど)堅めの文章になってしまうのが困りものである。

 ちなみにこの記事、最初noteの方に投稿したのだけれど、『戦闘妖精・雪風』については、これまで一貫してはてなブログの方で扱ってきたのと、明らかにこちら向けの文面になってしまったので、ちょっと修正してこちらに載せた。最初の判別を見誤ったがために、とんだ二度手間である。

 まあその分、記事全体としてはマシなものになったと思いたい。

 

BGM:bermei.inazawa「sthaks」(kaede,org『不惑 ~さよなら30代~』)

 

門田充宏『追憶の杜』東京創元社

 

追憶の杜 風牙 (創元日本SF叢書)

追憶の杜 風牙 (創元日本SF叢書)

 

  前作『風牙』の続編。個人の記憶を他人が追体験できる記録データとして汎用化──抽出・翻訳──する技術を生み出した企業九龍と、このきわめて特殊な業務に携わる記憶翻訳者《インタープリタ》。そして、汎用化された記憶データを巡る三つの中編を収録した一冊。

 『追憶の杜』の英題が"MEMENTO MORI"なのが、追憶=過去を思い返す行為の意味と本作の主題と絡んでいて考えさせされる。メメント・モリ、死を思え。

 

「六花の標 Never, never forget me not」

 珊瑚が担当した汎用化記憶データが、依頼者の手によって情報流《ストリーム》に公開された事を端に発する小さなスキャンダルが「記憶のデータ化の是非」へと繋がり、九龍の立場を揺るがすものになっていく。

 情報流は、大雑把に言えば使用者の嗜好に合わせた情報を個人端末に収集する機能を備えたインターネットであり、情報の共有もしやすい。そうした技術進化の背景で扱う人間の中身はあんまり変わっていない様は、どれほど技術が進化しても根本は変わらないと描いているかのように思えた。

 それが悪意でも善意でも。

 ぶっちゃけ、人間だろうがAIだろうがこの辺は全く同意見なのだけど、犬というファクターについ注視してしまって、うっかりミスリードしそうになった。これって、実は犬の記憶なんじゃないの? と(苦笑)。

 珊瑚がプロ意識と個人の感情の板挟み間でどうにか事態を収拾しようとして空回りしては、カマラ女史に加え新たな上司ダンディこと団藤にフォローされる姿は前作を読んでいると年相応に危なっかしくて微笑ましい。個人的に25歳くらいが一番暴走しやすいんだよねー、などと思いつつ読んでいた。

 専門家ならでは視点が鍵になるのが、この作品と珊瑚というキャラクターに柔らかさと硬質さを併せ持たせているのだと思った。

 

「銀糸の先 I do not know whether it was good to know」

 香月《かづき》というフリーライターが珊瑚にインタビューをする過程をインタビュアー側(つまり香月の一人称)から描いていくのだが、記憶翻訳者《インタープリタ》や情報流《ストリーム》、トランキライザなどの技術が当然のようにある以外は生活様式などは現代とほぼ変わらない世界観の物語のためあっちこっちにミスリードを誘う仕掛けがある中編。

 これは、上記の世界観を生かした仕掛けで、現代にはない技術がある現代として作品世界を捉えられる描き方をしているため使える技だと思う。そのため、このシリーズは生活感が掴みやすく生々しい。

 「六花の標」の項で(ひとの)根本は変わらない、と書いた通りこの世界に生きる人間についても、読者である我々と同じ現代人として捉えられるためあらゆる情動や行動が近しく感じられる。

 珊瑚に対して結構な感情移入をしている読者としては、ストレスを感じるアプローチなのだが、これは香月がインタビュアーとして承知でやっていることなので、これを珊瑚がどうあしらうかが前半の見どころ。

 半ばからは急転直下の展開ではあるものの「ああ、そう来たか」と予測通りのところに落ち着いた。ミステリに馴染み深い人は、下手すると前半のかなり早い段階で真相に気付いてしまうかもしれない。
 物語の描き方が最も現代的な一編でもあり、SFに馴染みのない人も取っつきやすいと思う。そういう意味でSFへの入り口としては、非常に優れている作品だと思う。

 

「追憶の杜 Everyone has, but nobady is aware」

 こう書いたらネタバレかなぁ……という気がするのだけど、『電脳コイル』が好きな人は読むべし(笑)。

 社長の不二が他界した後の九龍は、その不在の大きさを埋めるかのようにサポートAI(今回は珊瑚のパートナーであるハリネズミイメージの孫子)に疑験空間のデザインさせるという新たな取り組みをはじめていた。同時に珊瑚をはじめとする記憶翻訳者の負担を減らす様々な新技術の開発と実装も行われていて、潜行している珊瑚と外との通信がスムーズなので技術屋のショージや団藤の登場頻度が上がっている。

 記憶へのアクセスはともかく擬験空間(『風牙』収録作の「閉鎖回廊」など)でも珊瑚と孫子だけだと、どうしても内省的な進行になるため作品としても進化を取り入れたのだと思う。

 収録作の中ではぶっちぎりでこの中編が好き。

 憔悴している珊瑚の荒れた生活空間(てか自室)がまざまざと浮かび上がってくるし、長い付き合いで気の利くショージと付き合いは短いが面倒見が良い団藤それぞれの気遣いに温もりを感じる。さらに、カマラ女史はオフの日に「子供が会いたがっている(!)」という口実で買い物に連れ出す……なんて最高に魅力的なキャリアウーマンの意外なプロフィールが明らかになったり、ろくな服がないことを気にする珊瑚が可愛い。

 そして、風牙から託されたバトンが本当の意味で珊瑚の手に渡る話でもあり、『風牙』に続く犬SFでもある。犬より猫派なのだが、年々犬派からの影響が強く受けるようになっていて、この調子だと犬派に転びそうである。

 ネタバレになるので詳しくは書かないが、終盤の夕焼けの描写が素晴らしかった。光景が鮮明に思い浮かぶほど、読者の記憶にある「そういう光景」を見事に引っ張り出してくる。控えめに言っても最高。

 

 そして、表紙のデザインや帯の惹句はこの3つの中編を経て大きな意味を持ってくる。日本語の題名は同じなのに、英題が異なるのは、単一の作品としての『追憶の杜』と中編集としての『追憶の杜』の違いを表しているように思えた。

 前作『風牙』は表紙(より正確にはカバーデザイン)初見のインパクトが強かったが、『追憶の杜』はまじまじと見たとき、なにより読み終えて見返したときに存在感が強い。

 前より少しだけ背が伸びた珊瑚が樹(歳月を経た存在)の前に、頼りなげにでもちゃんと自分の脚で立っている姿はこのシリーズを象徴していると思う。

 

 ところで、読了時に感想をブログに書くぞと心に決めておきんがら、半年(いやもっとか?)くらい経ってしまいましたorz

 そして昨日、この本が出てからちょうど一年が経過しました。引っ張っちゃてごめんなさい、と思うと同時にずっとこなせずにいた課題をようやく終わらせることができた心地です。

 

shisiki.hatenablog.com

タミヤ 1/32 ミニ四駆PROトヨタ ガズー レーシング WRT/ヤリス WRC

 田宮模型の1/32 ミニ四駆PROシリーズ No.54トヨタ ガズー レーシング WRT/ヤリス WRC(MAシャーシ)を筆塗り部分塗装で作りました。

www.tamiya.com

 ミニ四駆の進化が目覚ましく、昨年フェスタジョーヌ・ブラックスペシャルを作った際に面食らったものでした。

 子供の頃に遊んでいたミニ四駆とはシャーシから駆動系に至るまで走行特性が根本的に異なっていたことも驚きでしたが、なにより実際に組んでいく中でボディをはじめとする外装の出来の良さに驚かされました。

 ヤリスWRCのキットは、ボディの白が成形色でリアウイングとボンネット上のインテークなどの一部を除いてシールが同梱されています。元々、無塗装コンペ第二弾として用意したキットだったのですが、これリアウイングが白いといまいち締まらないのですよね。そこで方針を転換して、部分塗装にすることにしました。 

f:id:shisiki:20200419005410j:plain

  使用した塗料はMr.カラーのセミグロスブラック(92)のみです。説明書の塗装指示ではリアウイングがブラック、インテークがセミグロスブラックだったのですが、実車の写真や動画を見ているとブラックでは艶がありすぎるように思えたため、セミグロスブラックで統一しました。
 タミヤカラーとMr.カラーでは同じ色でも発色が微妙に違うのですが、基本色に関しては気にするほどの差はありません。ブラックに関してならタミヤの方が光沢強めでしょうか。

 キットの紹介ページにあるヤリスWRCの解説リンクは2018年のものなのですが、キットが再現しているのは2019年バージョンです。そうして実車の情報を集めていくと、2020年の最新バージョンが付属シールを活かす上で最適に思えたため、2020年バージョンのカラーリングを参考に塗っています。

toyotagazooracing.com

 というわけで、アレンジバージョンです。

f:id:shisiki:20200419005417j:plain

f:id:shisiki:20200419005422j:plain

 リアウイング、ボンネットのエアインテークカナード、バンパー両サイド、前輪上のダクトが塗装した部分です。

f:id:shisiki:20200419005429j:plain

 カナードのスポンサーシールの白が良い感じに浮き立ちました。

f:id:shisiki:20200419005437j:plain

 写真を撮ってアップしてからリアウイングのシールがちょっとめくれているのに気付いたので、いまは修正してあります。

f:id:shisiki:20200419005451j:plain

f:id:shisiki:20200419005444j:plain

 リアウインドウのドライバー名が独立したシールだったら、勝田貴元選手の名前を入れたかったです。今回はチャンピオンの敬意を表して。

f:id:shisiki:20200419005457j:plain

 トップビュー。ボンネットのスポンサーロゴが傾いているような気がするのですが、これ「DENSO」が斜体なのと撮影時の角度の問題です。あんまりこだわりすぎると事故るのでこのままにしました。

f:id:shisiki:20200419005505j:plain

 リアウイングは質感を出すためにわざと筆むらを作って塗膜を厚めにしています。

f:id:shisiki:20200419005511j:plain
 このリアビューは好きなアングルです。
 シールを貼るのに結構苦戦しました。考えてみれば、デカールにせよシールにせよ大判のものを貼るのは久しぶりでした。曲面なので最初の固定位置の決め方とその角度が重要になってきます。

  

 今回は部分塗装なのでマスキングは最低限です。

f:id:shisiki:20200419005356j:plain

 最低限と言いつつフロントウインドウまで覆ってあるのは、塗装する際に持ちやすくするためと筆が滑った際の予防措置です。リアウイング基部からにょっきり生えているのは爪楊枝です。パーツ側に適当な棒(大抵はランナー)をマスキングテープで固定して、乾燥時に固定冶具で挟んだ方が楽な場合はこうしています。

 使用したマスキングテープは、クレオスのマスキングテープとタミヤの曲面用マスキングテープの二種類。バンパー部分にちょこっと見えている白いテープが曲面用マスキングテープです。商品名通り曲げて貼れるので、カーモデルなどの曲面マスキングには重宝するのですが、エアブラシもしくはスプレー塗装での使用を想定しているためか、筆塗りだと筆に染み込んだ薄め液と塗料が流れ込んでしまうことがあります。f:id:shisiki:20200419005402j:plain

 シールを貼る直前はこんな感じです。良い感じの黒になりました。
 予想通りマスキングテープを剥がした直後はあちこちに塗料の染み出しがあったので、薄め液を綿棒やキムワイプに染み込ませて拭き取りました。
 今回の場合は、塗装面の上にマスキングするわけではないので、この修正作業込みで希釈度を変えての重ね塗りを行っています。普段なら注意すべき筆むらも材質の違い(特にリアウイング)を表現するために逆に利用する方向で塗っているため、染み出しやすい塗り方でやっていることも関係ありますね。

 あらためて、シールを貼って完成したものがこちら。

f:id:shisiki:20200419005417j:plain

 以前作ったフェスタジョーヌ・ブラックスペシャルが見栄えにこだわりすぎた上に限定ボディを使ってしまったため、補修が難しくなり走らない四駆になったので、今回は走る四駆を目指しました。
 筆塗りなのでリタッチは簡単。WRCカーなんだから生傷上等! ってな勢いで作ったのですが、走らせる場所(コースがあるお店に行けない)が無いことに完成してから気付きましたorz

 

 ちなみに、以前作ったフェスタジョーヌ・ブラックスペシャルは、走らない仕様のくせに足回りが贅沢です。

f:id:shisiki:20200419005255j:plain

f:id:shisiki:20200419005309j:plain

f:id:shisiki:20200419005316j:plain

f:id:shisiki:20200419005333j:plain

f:id:shisiki:20200419005326j:plain

f:id:shisiki:20200419005340j:plain

 ヤリスWRCが本格稼働した暁には、このスーパーハードタイヤは強化ホイールごと移植すると思います。

 この2台を並べてみるとこんな感じです。

f:id:shisiki:20200419005716j:plain

f:id:shisiki:20200419005709j:plain

 ラリーカーとサーキットカーが並んでいる感じです。

 ガチで速さを求めて作るとしたら、多分ボディがもっと軽くて大径タイヤも使える車種の方がいいと思います。逆に模型として作ることも楽しみたいのなら、こうした実車ベース(架空車も含む)の車種が面白いと思いました。

  

HGBCプトレマイオスアームズ(#無塗装も楽しい)

 HGBCプトレマイオスアームズをおいさまさん主催のプラモデル無塗装完成コンペ「#無塗装も楽しい」参加作品として作りました。

市販の一般的なプラモデルであれば、なんでもOK。
【無塗装】で完成させる。
塗料やマーカー・ピグメント等塗料系以外の接着剤、パテ類、シールやデカール類は自由に使用可能。
完成写真は一枚は必ず元BOXと一緒に撮影したものを使用する。

  レギュレーション上、パテ使用はOKなので肉抜き穴埋めだけして製作が止まっているキットを使おうと思ったのですが、折角なのでこの企画のためのキットを買ってきました。

 そうして完成したキットがこちらになります。

f:id:shisiki:20200327050616j:plain

 元々はHGBDセラヴィーガンダムシェヘラザードの武装パーツ(の単品販売)なのですが、独立した〝こういう形の艦船〟という解釈で作ってみました。シルエットを強調するため艦首にシールは貼っていませんが、ランナーの構成上艦首パーツが余るので、一度分解すればシールを貼った艦首パーツに付け替えることも可能です。

 『機動戦士ガンダム00』の母艦プトレマイオスを模した武装ユニットという設定のため、スケールは1/144ですが艦尾は左右に分離する独自の構造となっています。

f:id:shisiki:20200327050638j:plain

 完全無塗装です。ヌッテナイヨ。
 最近、模型の撮影をiPhoneのカメラからうっかり死蔵していたデジカメに切り替えたのですが、写真がまだまだ下手くそです。
 デザイン上、元になったプトレマイオスと異なりコンテナの先端がほぼ艦首と同位置に来ます。

f:id:shisiki:20200327051938j:plain

 艦尾部もやはりプトレマイオスとは異なり、エンジンブロックが左右独立したユニットになっています。艦尾は艦首と比べると前後の長さがそこそこ確保されているため、この角度から見ると結構スリムなシルエットが出ます。

f:id:shisiki:20200327050647j:plain

 正面から見ると艦首の寸詰まり感はあまり感じませんが、このアングルから見た際に艦首のシールを貼ってあると──艦首上部が白いと──艦橋窓までの距離感が測れるので貼らなかったのです。段差が強調されるので、実寸より長く見えるわけです。ヌッテマンセンヨ。

f:id:shisiki:20200327050656j:plain

 逆に艦尾は真後ろから見ると中央ブロックの分割部までの奥行きがそれほど無いことがわかります。記事を書いていて気付いたのですが、右舷のコンテナが少し下がってますね。上部コンテナは少しだけ上下角を変えられます。

 表面処理(ゲート跡処理含む)は徹底してやっていますが、パーツの合わせ目消しは一切やっていません。作っているときは中央ブロックの分割線が気になるかと思っていたのですが、実際に組んでみるとデザインとして十分有り得るラインだったのでそのままにしてあります。全塗装するときも同じで、有り得るラインと解釈できる場合はあえて消さないことにしています。これは、元のデザインであるイラストと立体物である模型との解釈の違いですね。スケールモデルなど実物が存在する場合はまた別の話ですが、架空のメカだからこそ選べる選択肢だと思っています。

 近いサイズの模型と比較するとこんな感じです。

f:id:shisiki:20200327050704j:plain

 OVA青の6号』DVD-BOX付録の6号りゅうおうと並べてみました。りゅうおうの方は塗装済み模型ですが、こうした既製品と並べても中々見られる出来だと思いません?
 キットの素性の良さが表れていますね。
 プトレマイオスアームズ(プトレマイオス)は海老川兼武さんのデザインなのですが、海老川さんは『青の6号』にも参加しています。

 OVA青の6号』のメカデザ担当割はDVD-BOX付属冊子によると、

前田真宏さん:6号りゅうおう、ノボ、ムスカ
河森正治さん:1号コーバック、グランパス
山下いくとさん:7号ウーメラ、8号シャン、ブルードーム原案
きお誠児さん:3号マラコット、9号シンハー
海老川兼武さん:0号、自衛隊関連(通常動力潜水艦なるしお等)
村田蓮爾さん:グランパス・パワードスーツ部
草彅琢仁さん:ナガトワンダー原案 

  となっています。グランパスについては前田さんがインタビューで「デザイナーが異なるものをワンパッケージにするのは、普通はやってはいけないことですから、河森さんも悩まれたと思います」とコメントされています。

 最終決戦に参加したメカ(6号りゅうおう、8号シャン、3号マラコット、グランパス、0号 VS ナガトワンダー、ムスカ)は、全デザイナー総集合だったわけですね。

  話が逸れましたが、〝こういう形の艦船〟という解釈で作るため、艦橋窓を強調したいところです。買った時点ではこの部分が出っ張っていると思っていたのですが、幸いなことにツライチ(面一:面と面に段差がないという意味)だったのでシールの余白を適当なサイズに切って貼りました。

f:id:shisiki:20200329040005j:plain

 こんな感じですね。
 工程としては、青いパーツのスリットより少し幅広にシールを切って、切ったシールを貼る面にあてがって長さの見当を付け、ちょん切って貼る、これだけです。使っているカッターナイフは、タミヤの模型用カッターナイフです(替え刃はオルファ)。
 注意点としては、貼る前に表面をキムワイプなどでよく拭いておくことと、ピンセットを使って貼ることでしょうか。別に指で貼っても良いのですが、シールの糊の面に指脂が付くと剥がれやすくなります。固定の際もピンセットの平面を使ってならしていくとしっかり貼り付きます。

 

今回使用した工具と工作について

 工具の名前をあれこれ出してしまったので、今回使用した工具を並べてみました。 

f:id:shisiki:20200327050744j:plain

 下に敷いてあるウェーブのカッターマットも含みます。スポイトは水を使用する際に使います。

f:id:shisiki:20200327051020j:plain

 ニッパーが二種類あるのは、ランナーの切り出しには使い古しのタミヤの精密ニッパー(刃こぼれしている)を使い、ゲートの切断にはゴッドハンドとコトブキヤのコラボ商品コトブキニッパーを使うためです。
 最近のガンプラ(特にHG)は、ニッパーのアクセスエリア(工具を入れる空間)が狭いため、この様に対処しています。

f:id:shisiki:20200327051432j:plain

 大抵はコトブキニッパーで事足りるのですが、どうしても切り残しができてしまう場合があるので、その際はデザインナイフで削ります。金属ヤスリはデザインナイフだとパーツ本体まで削ってしまいそうな場合に使用します。右端にあるのが模型製作で普段使いしているピンセットです。全部タミヤですが、特にコダワリがあるわけではありません。

f:id:shisiki:20200327050923j:plain

  今回から本格導入したゴッドハンドの神ヤス!(スポンジヤスリ)アソートです。これまで金属ヤスリでは行えない研磨には、タミヤのフィニッシュイングペーパー(紙ヤスリ)を使っていたのですが、模型界隈で評判の良い神ヤス!を導入してみました。
 金属ヤスリを結構使うのと、フィニッシュイングペーパーのストックが十分にあるため、使用頻度の高い600、800、1000番のアソートからはじめて見ました。水研ぎにも対応していますが、空研ぎでのみ使っています。水研ぎするときは、フィニッシュイングペーパーを使っています。てか、神ヤス!最高です。これはもう手放せません。
 神ヤス!1000番で研磨したらもう最終仕上げに入れる状態だったので、この先はコンパウンドに切り替えました。

f:id:shisiki:20200327051103j:plain

 Mr.ホビー(GSIクレオス)のコンパウンド細目(3000番)と極細(8000番)です。要するに液体ヤスリのようなものです。厳密には異なるのですが、私はそういう感覚で使っています。
 コンパウンドは付属の不織布に染み込ませて使います。神ヤス!1000番の切削面をコンパウンド細目でならし、水を染み込ませたキムワイプもしくは綿棒で掃除してからコンパウンド極細で同じように磨くと元のプラ素材とほぼ同じ光沢が得られます。
 やり過ぎるとテッカテカに光ってしまったり、削りすぎてパーツの形が変わってしまうのでちょこちょこ様子を見ながらやります。ぶっちゃけ、面倒なのですが、成果がすぐ現れるのでやり始めると楽しいです。

f:id:shisiki:20200327050850j:plain

 これが何度か書いている日本製紙クレシアキムワイプです。導入後、作業効率がかなり向上しました。紙のカスが出ずしかも薄さに対して破れにくいため乾燥面の拭き取りはもとより、吸水性が良いので水を染み込ませての掃除や塗装の際に筆などの器具を掃除するのにも使えます。

f:id:shisiki:20200327051402j:plain

 綿棒はダイソーで売っている綿棒と細い綿棒(赤ちゃん用綿棒となっている場合もあります)の二種類を使い分けています。爪楊枝はモールドなどにコンパウンドが入り込んでしまった際に使います。これらはダイソーで売っていた三分割されている綿棒ケースに綿棒、細い綿棒、爪楊枝を仕舞ってあります。
 ハサミはクローバーの裁縫用ハサミです。主にシールやデカール、今回の場合なら不織布を切る際に使います。
 水用のコップは法事の際にもらったお酒に付属していた蓋件盃です。

f:id:shisiki:20200327051409j:plain

 こちらもダイソーの商品。本来はタッパー掃除用のブラシなのですが、金属ヤスリの目の掃除に使っています。白い四角い物体はメラミンスポンジの30mmブロックで、神ヤス!の掃除に使います。ぶっちゃけ、メラミンスポンジで表面を擦ってもそれなりの効果はあります。 定規も100円ショップの商品ですが、目盛りの反対側にカッター用の金属プレートが入っているものを使っています。

f:id:shisiki:20200327051148j:plain

 縁の下の力持ち、ファンテックのツールキーパーと組み直しの際の必須アイテムウェーブのパーツオープナーです。
 このツールキーパーは近年発売された新商品で、製作中に工具を一箇所にまとめておけるので非常に便利です。ニッパーも刃の部分を奥のバーの下に合わせておくとしっかり立ちます。

  これらの工具は模型を作っているうちに増えていったものですが、長く使っているものは代替わりしていて、ニッパーはコトブキニッパーで四代目、デザインナイフは二代目(ただし刃は交換している)、金属ヤスリは二代目か三代目でそろそろ更新を考えている時期です。

 時折、模型を作るのにどの工具が必要なのかわからないといった疑問を見かけますが、ぶっちゃけニッパー以外は作っているうちに「こういう道具があったら良いのに」という壁にぶつかると思うので、それに応じて揃えていけば良いと思います。

 

 あとは、どんなものに仕上げたたいかというイメージですね。

 たとえば、今回の無塗装コンペではレギュレーション遵守と先に書いたコンセプトの他に佐藤明機さんの作品世界から受けた印象を混ぜ込んでいます。

 具体的にはこの様に(『ビブリオテーク・リヴ/楽園通信社綺談』より)。

f:id:shisiki:20200327051728j:plain

 中身のメカニズムというか妄想寄りのイメージは美加ちゃん先生(明貴美加さん)ですね、やっぱり。

f:id:shisiki:20200327051733j:plain

 ずばり『銀河お嬢様伝説ユナ』です。最近、どうやってもこのモチーフから受けた影響からは逃れられないと悟ったので、これをどう自分のやり方で表現するかという考え方をあらためました。
 とりあえず、なぞりやすい宇宙船から攻めてみました。

 なお、スタンドはこれを使っています。

f:id:shisiki:20200327051600j:plain

 この手のスタンドではコトブキヤのフライングベースシリーズが良いのですが、ちょっとしたものを固定する際にはこれで十分です。figmaを挟めるパーツもありますし、ベース自体が軽くても問題ない場合は事足ります。
 ガンプラの場合は各シリーズに対応するスタンドベースを使うと良い感じです。HGならあんまり気にしなくても良いのですが、MGや重量級キットの場合はベースの表面積は広くそれなりの重さがあるものを使わないとずっこける危険があるからです。

 

  さて、ここまで読んできて、こんな疑問を持った方がいると思います。

 「無塗装で作るのにそこまでやる必要があるんですか?」

 

 結論から言うとコンペに参加する上でも、塗らない前提だけで作る上でもコンパウンドまで持ち出してやる必要は無いです。 

 じゃあなんでやったんですか? マゾなんですか? マゾなんですね! コンパウンドのくだりで「面倒なのですが、成果がすぐ現れるのでやり始めると楽しいです」なんてもっともらしい事を書いているのも、本当は焦らされるのが好きなんでしょう?! 充電くんの刑みたいに! 充電くんの刑みたいに!(※)

 ……冗談はさておいて、過去に「完成させることを最優先に作ってみたらどうだろう」と思って試したことがあるのです。

 結果、完成した瞬間にジャンクパーツの塊ができました。愛着なんて1ナノもわかない。これはキットの素性がどうこうって問題じゃないです。目的が完成だけなので、コンセプトもイメージもあったものではなく、作っていても楽しくなかったからで、完全に私の性格気質によるものです。
  そもそも、今回の無塗装コンペは「無塗装〝も〟楽しい」なので、自分が楽しめるやり方を選択したら、表面処理の沼に入ってしまったわけです。楽しかったですけどね。後から手を加えることはなく「これで完成」と言い張れて、自分が納得できるものを作ることを目指したこともあります。

  面倒くさい性分を再確認しました。

 
※充電くんの刑:アニメ『フレームアームズ・ガール』の小ネタ。充電くんと呼ばれる充電ユニットと繋がったケーブルのコネクタをフレームアームズ・ガール側のコネクタに短い間隔で抜き差しする。たとえるなら、敏感な部分を突っつき回すような感じだろうか?

 

関連リンク

plamoyasan.com

bandai-hobby.net

www.tamiya.com

www.kotobukiya.co.jp

shop.godhandtool.com 

www.mr-hobby.com

www.hobby-wave.com

www.fun-tec.co.jp

pro.crecia.co.jp

www.daiso-sangyo.co.jp