noteで連載していた『放課後のプレアデス』感想補足解説から生まれた縁で、micromillionさん(@MicrMilli)からご恵投いただいた稀覯本である。
いまのいままで積んでいたのは、読んでしまうとアニメに対する自分の見解が影響を受けてしまう怖れがあったため、感想記事の連載を終えるまで封印していたのである。
その連載は、先週9日に無事完結できたので、ずっと楽しみにしていたおもちゃを取り出すような心地で読み始めた。
本作は、TVアニメ『放課後のプレアデス』を、同作の登場人物の一人・みなとの視点から描いた物語である。
視点の置き方は、TVアニメにおけるすばるの視点の置き方と似ていて、三人称で進行しつつもみなとの心情が強く反映されている。
みなとには三人称の地の文にも紛れ込んでもらい、たくさん本音を吐露してもらいました。これを読んでくださるみなさんが、みなとを愛おしく思ってくだされば嬉しいのですが。
知っている作家のあとがきは最後に読むことにしているので、本編を読み終えて「なるほどなぁ」と思った。
三人称で進行するものの、世界や物事の見え方は、みなと主観に寄っている。
この意図的な偏りによって、アニメで提示されたものとは違う解釈も成り立つようになっているし、同様にこの小説における解釈がたくさんある捉え方の1つだとわかるようになっている。
みなとを作品に深く関与させることで、解釈の幅が広がり、小説とアニメの双方を両立して楽しめる作りになっていると思った。
作中でみなとが遭遇する出来事は、TVアニメとほぼぴったり対応している。
そのため、既にアニメを視聴している読者からすると、たとえば第6話の衛星軌道上での対峙は彼としても切羽詰まった思いを抱いていたことがわかったり、たとえば第9話の素っ気ない態度は「照れ隠しか!」と突っ込みたくなったりして面白い。
こういったみなとの心情は、画面から読み取れる内容の延長線上にあるため、視聴者の想像にゆだねるしかないし、その視聴者からすれば想像と言うより妄想の域に入ってしまうため、二の足を踏んでしまうところがある。
でも、その心情を描ける公式作品があったとしたら、というのが「みなとの視点でノベライズを」という企画の狙いだったのではないかと思う。
心情を丁寧に描けるのは文章表現の強みなので、アニメにおけるみなとの表情に出ないあるいは表情に隠された心情を見ている心地もした。
TVアニメ『放課後のプレアデス』で言うところの「7年前」から、宇宙人と宇宙船のエンジンのかけらにまつわる出来事を時系列で追っていくため、アニメでも描かれた出来事の因果関係がわかりやすく、アニメを見ていなくても十分読める作りだと思う。
主観がみなとなので、自分が関与していないところで事態が進行していくところが多い。
これは、アニメ本編ですばる達が魔法使いとして活動している部分が、実際に対峙するまで見えないからだ。
みなと主観だからもっともな展開であるし、置いてけぼりにされそうで彼の孤独感をいっそう深めている。
孤独ではなく孤独感なのは、学校ではすばると触れ合う時間があり、角マントとしてはカケラを魔法使い達と奪い合う時間なので、形は違えどどちらも相手がいるため、彼は1人ではない。
しかし、みなとがそうした関係性から「ぼくは一人じゃない」と実感するほど、「あっちは五人いるけど、ぼくは一人なんだ」と打ちひしがれるからである。
読者からすると、みなとが本当の意味で寂しさを知る過程なので、自分が寂しいんだ、ということに気付いてくれ、と思わずにはいられない。
自分が関与できないところで物事が進行していく様は、『たんぽぽ娘』を思い出した。
たとえがマニアックで申し訳ないが、『みなとの星宙』に最も近いと感じたのは『たんぽぽ娘』なのだ。
『放課後のプレアデス』本編では、恐らく頑張って控えめにしたであろう実在の物理学や天文学の分野にわたる科学考証をしっかり文章に組み込んでいるのだが、それほど小難しくならずしかもアニメ本編で描かれたことが破綻なく語られていた。
そのため、SF小説というよりも学級文庫に置いてあったような科学小説の向きが強い印象がある。
ついでに、幼いみなとは本当に健全な科学好きの男の子であることが端的に示されている部分があって、思わず笑ってしまった。
テレビや本で年齢以上の知識を持っているみなとでも、量子力学はできれば跨いでやりすごしたい理科分野の一つだった。
そうなんだよ。きっかけはなんであれ、物理学を知っていくにつれて関わってくる量子力学は、できることなら関わりたくない……と思っていたのが、趣味でブルーバックスの物理学や天文学の本を読み漁っていた10代の私の本音だった。
相対性理論を避けて通りたいのは「難解」だからであって、これが量子力学になると「わけがわからない」から避けて通りたいものになる。
とはいえ、そうも言ってられないのが現実であって、みなともまた量子力学に足を踏み入れることになる。
もっとも、科学(自然科学)というのは「わけがわからない」ことを「わけがわかるようにする」学問なので、エルナトが量子力学や相対性理論に異様なまでに詳しい理由は、彼らが地球人を理解する手段として真っ先に取り込んだのだと思う。
あえて、そうとは書いていなかったけれども、この様に考えるとアニメにおける会長(プレアデス星人)がやけに地球の科学に通じている部分にも繋がる。
アニメからのファンとしては、そうした接点があるのは嬉しい。
アニメとの接点と言えば、主題歌「Stella-rium」の歌詞がここぞと言うところで本文に入っていて、筆者も『放課後のプレアデス』が本当に好きなんだなぁ……と思い知らされた。
読む方が知っているからわかるのであって、知らなければそういう表現だと受け容れてしまいそうなほど上手い引き合いだった。
合間合間に挿入される『銀河鉄道の夜』をはじめとする宮沢賢治(本作では宮澤賢治と表記)文章は、いまのみなとが相対している現実と夢幻のあわい(境界)の役割と、人とあまり接したことのないみなとが誰かへの思いを語る上での代弁する役割を担っていたと思う。
人とほとんど接したことがないみなと自身の言葉だけでは足りなくて、彼が知っている言葉で必死に補っている印象を受けた。
noteの記事で、みなとの悲劇は「賢すぎたこと」だと書いたと思うのだが、この作品では重ねて「想像力が豊かなこと」も強調されている。
最初のうちは、みなとの悲劇性を描く上で引き合いに出された特徴だと思っていたのだが、終盤になって魔法に関わる極めて稀な特徴の掛け合わせだったことが明かされて、これもまた「ああなるほど」と膝を打った。
「あれ? ダークエネルギーなら、いままでも使ってこなかった?」
みなとが訊くと、全員がきょとんとした顔をした。
「ぼくたちの魔法は宇宙項Λに関係している、と、ぼくは理解していたんだけど」
「すげえな」ひかるが素直に感心してくれた。「とっくに判っていたんだ。道理で、五人でかかってもそっちの方が強かったわけだ」
ななこが呟く。「猫に小判。知らないものは使えない」
「そういうことだったんだよなあ」ひかるはがっくりとシャフトに伏せた。
不勉強なので「宇宙項Λとはなんぞや?」と調べて、調べてから名称を知らないだけで内容は知っていたことがわかって苦笑した。
てことは、この小説における魔方陣(小説版では『魔法陣』ではなく『魔方陣』)はスカラー場ということなんでしょうかね? と瞬時に問いが立つ程度には知っていた。
話が逸れたが、力(エネルギー)はあっても使い方(論理・仕組み)を知らなければ使えないし、そこまでは知っていても具体化する形を思い描けなければ(想像力)、実際には使えない、ということである。
限界まで言葉を絞り込むと、知恵と想像力が揃って初めて魔法は力を発揮する、となる。
ここまで来て、ジュブナイルの波が一気に押し寄せてきて参った。
どうにも突き放したような印象(簡単に言えばみなとに対して厳しい・冷たい)が抜けなかったのだが、それもこれもみなとがどんなあり方でも現実に立脚できるようにして、最後に仲間を得て同じ時を分かち合えるようにするためだと思い知らされた風情である。
noteを読んでくださった方々は察しが付いていると思うが、私はここまで突き放した視座は持てない。情に弱すぎるのである。
ともあれ、そうした独自の解釈を含んだ作風が『みなとの星宙』を独立した作品として成り立たせているとのだし、アニメ『放課後のプレアデス』の存在が引き立つのだと思った。
私がこの本を読めたのは。この本を「いつか誰かに読んでもらうときが来たときのため」に1冊余分に購入していたmicromillionさんの慧眼があってのことなので、改めてこの縁に感謝している。