宮川道人、難波優輝、大澤博隆『SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略』早川書房

 

 

 『SFプロトタイピング』に興味を惹かれたのは東洋経済オンラインに引用されていた冒頭部のシンギュラリティについての一節。買う決め手となったのは、既に購読していた人がアップロードしていた「SFプロトタイピングに役立つフィクション」の図に、『接続された女』と『電脳コイル』があったからだ。

 前者については、

  より最近では、人工知能(AI)の技術的特異点(シンギュラリティ)の概念が好例である。シンギュラリティとは、AIが発展して賢くなり、技術やサイエンスの担い手が人間からAIになると、技術の発展に不連続で予測不可能な段階が出るという考え方で、未来学者(フューチャリスト)のレイ・カーツワイルが唱えて一躍有名になった。しかしこれはカーツワイルが単独で考えたわけではなくヴァーナー・ヴィンジというSF作家と共同で作った概念である。

 

 宮川道人、難波優輝、大澤博隆『SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略』早川書房

 この部分のことである。

 シンギュラリティ。技術的特異点

 私の不勉強さはさておいても、この言葉を用いたSF作品で「シンギュラリティとはどういう概念なのか」を言葉で明確に示した作品に出会ったことがない。

 どういう現象なのか? という描き方はしていても、説明はない。いやまあ、小説であれ漫画であれ映像作品であれ、娯楽作品で考証をうだうだ語る必要はないのだけれども。

 たとえば、先日最終回を迎えた『Vivy -Fluorite Eye's Song-』のシンギュラリティ計画のように象徴的な名称として冠するのなら後は行動で示せば良いし、少し前のキズナアイの歌詞にあるような「ふわっとした理解」を逆手に取った使い方ならミスリードされてもさしたる問題ではない。

 重要なのは、それらを捉える側であるところの私がこうした専門用語を理解しているかどうか(その理解の裏付けが取れているかどうか)である。

 シンギュラリティは一例だが、そうした専門用語を明確かつ端的に解説できている本を見つけたのだから読んだ方が良い、と思ったのである。

 

 後者について。『接続された女』はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの短編で、『愛はさだめ、さだめは死(早川文庫)』に収録されている。この本、現在では絶版であり電子化もされていないのに、あえて出してくるかー、と思わされたからだ。

 東洋経済オンラインの記事を読むと『攻殻機動隊』か『イノセンス』あたりを取り上げそうな論調なのに、あえて『電脳コイル』を挙げてくるところに視野の広さを感じたのである。

  そのようなわけで、気づいたときにはおそらく人生ではじめて積極的にビジネス書を買って読んでいた。

 

 この本は、5つの座談と4つの論考(序論を除く)からなる3章で構成されている。
 座談は、それぞれゲストを2人(座談5のみ3人)に対して、執筆陣(宮本道人さん、難波優輝さん、大澤博隆さん)が聞き手となって話しを進める。
 話題は、ゲストの専門分野を軸にSFプロトタイピングあるいはSF作品との関わり方(過去から現在、将来の目測)で、最後にまとめとしての論考が入る。

 

 Twitterにも書いた通り、まず興味を惹かれたのが「第1章 座談1 未来のつくり方」だ。
 ゲストは、佐宗邦威さん(株式会社BIOTOPE代表/チーフ・ストラテジック・デザイナー)と、藤本敦也さん(三菱総合研究所経営イノベーション本部シニアプロデューサー)。
 どちらも普段なじみのない業界の方が普段から接している分野(SF)について話しているためか、ゲストのお二人がSF(とSFプロトタイピング)に興味津々なためか、この部分はアンダーライン(マークアップ)だらけになってしまった。

 

 Kindleのメモを見返すと座談2にも結構マークアップがあって、これはゲストの岡島礼奈さん(株式会社ALE代表取締役社長/CEO)と、羽生雄毅さん(インテグリカルチャー 株式会社代表取締役社長/CEO)が、それぞれの専門分野についての話よりもそこからSFをからめて未来の日常を考える重要性を語っていたからだと思う。

 

岡島   今日みなさんと話をして思ったのは、SFプロトタイピングができるモデレーターがいるなかで、めちゃくちゃ専門の違う異業種の人たちが集まって、とにかく未来の 日常をちゃんと考えていかなければいけないということ。そうしたことが、どの業界でも大事になってくるんだろうなと思いました。(後略)

 

  宮本 道人; 難波 優輝; 大澤 博隆. 『SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略 (Kindle の位置No.968-970).』 株式会社 早川書房. Kindle 版. 

 

 座談1、3、4、5についても通底している考え方(こうした課題を踏まえて話しているという意味)だと思い、引用した。

 

 以下、感想と言うよりは個人的なメモ代わりに記す。

 

 SFプロトタイピングは、ある事業目的に至るプロセスにSF的思考を絡めて模索するアプローチだと思った。

 叩き台を作って検討していく考え方の提案なので、クライアントと作家(一例)の双方がこの前提を踏まえていないといけない。どちらが持ちかけた話にせよ、双方に当事者意識が求められる、とも言えるかもしれない。

 

 ビジネスの舞台では、具体的な提案(提言)はできるが、即物的な要求には応えかねるのがSFプロトタイピングの立ち位置だろうか。

 書ける(描ける)けれど、思考/試行としての有意性はなく、ただ消費されてしまう、という危惧は座談3でも語られていた。

 座談3のゲストは、小谷知也さん(「WIRED Sci‐Fi プロトタイピング研究所」所長)と、樋口恭介さん(SF作家、コンサルタント)で、SFプロトタイピングについて実践した際の課題や今後出て来るであろう問題点まで掘り下げられている。

 

 この本は、SFプロトタイピングを推奨しながら、つねにその取り扱いについては警鐘を鳴らしているとも思う。

 

 例えば、直近の問題をそのまま延長して扱ってしまうと、思考のジャンプがないし、時間的な未来へのマージンが取れないので、SFプロトタイピングという手段が目的になってしまう。

 問題がより具体的に見えるようになるかもしれないけれど、問題解決にはつながらない。

 

 30年とか50年とか、事業計画としては長すぎるスパンで考えるのは、そうした意味もある。この時間軸の長い捉え方にマッチするのがSF的思考で、取り扱う問題がそうではないのならわざわざSFプロトタイピングを用いなくともよい、という含みすらあったように思えた。

 

 実際やるとなると、SFプロトタイピングで作られた作品は、ほぼ表に出てこなくなる気はする。
 でも、その方がいいと思う。そうした方が作家もSFプロトタイピングに集中できるし、そこでの仕事にペイしてもらえばいい。

 個人的に重要になってくると感じたのは、SFプロトタイピングを行った後のことだ。

クライアントは、SFプロトタイピングで得られた経験(もしかしたら実利をともなう成果)を十分に活用すればいいし、組織の力でもってアーカイブにも利用できる。

 

 おおよそ個人であるところの作家は、SFプロトタイピングで得た知見とそこで作成したものから、娯楽作品としての作品を再構築して帳尻を合わせる、というのがいまのところの解だろうか(正解ではない)。

 つぎ込んだあらゆるコストを、新作にスピンアウトするかたちで出す、というやり方ができると思う。当然、これは独立した作品として扱えるように最初からそういう契約を紙にしておくべきだろう。

 

 以上。大体2章を読んでいる途中で思いついたメモを手直ししたものなのだが、3章の終わりとあとがきで、同様のことが語られていた。

 少なくとも誤読はしていなかった様子。

 

 

 興味があるなら、いま読むべき本である。

 なぜなら、この本は感染症下の世界で書かれた本であり、2021年6月現在ワクチン接種がはじまり世界は感染症下の世界の次の世界が見えそうなところまで来ている。下手すると、半年かそこらでまた価値観が大きく変わる可能性が非常に高いからだ。

 この本は、いわばSFプロトタイピングの入門書なので、時間が経ってもある程度は通用すると思うが、人間が書いた物なので価値観も背景社会とは無縁でいられない。その点が最も良い意味で作用するのはいまだからだ。

 後々、新たなSFプロトタイピングの入門書が出てきたときでも、いまこの本を読んでおけば入りやすい、とも思う。

 

門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』創元SF文庫

 

記憶翻訳者 みなもとに還る (創元SF文庫)
 

  発売日に買ったにもかかわらず、読み始めるまで2ヶ月以上掛かってしまった。滞っていたあれこれに、ようやく手が付けられるようになったこの頃。

 

 それはさておき。

 

 創元叢書版『風牙』収録作の『みなもとに還る』と『虚ろの座』を、書き下ろしの『流水に刻む』と『秋晴れの日に』で挟み込む形で再構成した文庫版。

 『風牙』収録作が、『記憶翻訳者 いつか光になる』とこの『記憶翻訳者 みなもとに還る』の2冊に分けられたことで、作品内部の時間と空間が掘り下げられている。どういう世界の出来事を描いた物語なのか、という意味で作品の奥行きが深まったとも言える。

 

 『いつか光になる』のあとがきで、文庫化に際しての再構成について懸念されている様子が書かれていたが、叢書から読んでいる読者からするとお得感がある。

 オムニバスとはいえ一貫した作品なので、全体の構成を変えることには当然意味があるからで、読者としてはその意味を読むことも楽しみに加わるからだ。

 

収録作

 

『流水に刻む I wish it would never disapper』

 記憶の記録化、その翻訳による汎用化(誰でも閲覧可能にする)という技術が出てくるからには、擬似体験のコンテンツを扱うのは自然な流れ。これは既に『いつか光になる』収録の『閉鎖回廊』で扱われた題材なのだが、『流水に刻む』では西洋風ファンタジー世界を体験できるコンテンツ、というよりわかりやすい形で提示される。

  主人公珊瑚の勤め先であり、記憶翻訳を扱う同社の名を冠した擬験都市〈九龍《くーろん》〉の第二階層〈二狐《アーフー》〉(※1)。

 ここは第一階層〈一兎《いっと》〉よりも領域が多様に設定されている娯楽に特化した階層になっている。本編に出てくる西洋風ファンタジー世界をはじめとして、スペースコロニースチームパンクサイバーパンクを合成したような世界、日本の戦国時代をイメージしたような世界などの擬似体験領域が設定されており、今後もそうした領域は増えていくとのこと。

 この作品が様々な形で展開していく予感をさせられる背景設定であると同時に、当然あるであろう技術を描いている。

 収録作の中では、オムニバスの性質が最も強く、現在の珊瑚と彼女を取りまく人々にスポットが当たっている。

 存在感はあるものの、これまで個人の側面があまり描かれなかった眞角専務の横顔が窺える短編でもある。

 眞角と珊瑚の担当エンジニアのショージに入社以前の繋がりがあったり、調整役にカマラが出張ってきたり、と九龍が小さな会社であることがよくわかる。トラブルに際して、どうしていつも同じメンバーが当たるのか、という当然の疑問に対する答えにもなっていた。

 

 人間は現在から未来へ進んで生きているがゆえに、何かを語るときには過去を語るしかない。

 本来、その人にしか把握できない記憶が記憶翻訳による汎用化によって、誰にでも理解できるようになった世界おいて、あえて残るようにした記録がどの様な意味を持つのか、ということを描いた短編でもあると思う。

 

 珊瑚はスタンドプレーで周囲を引っかき回してしまう傾向のある主人公なのだが、その彼女がNPC(つまりコンテンツのために作成されたデータ)に翻弄される姿はなかなかの見物である。

 

 この短編の特徴は、過剰共感能力者よりも記憶翻訳やその基盤になっている動的外部刺激調整モジュール《トランキライザ》に関わる事柄に力点を置いていることがある。この技術自体がすごい発明なのだが、もしかしたら実用化されるかもしれない、という可能性を秘めているため、シリーズにおける大切な要素だと思う。

 過剰共感能力者がフィジカルかつセンシティブな面での作品の土台だとしたら、動的外部刺激調整モジュールはロジカルかつテクノロジカルな面での土台になっているからだ。

 この記憶翻訳者シリーズがSFたり得ているのは、空想と科学双方からのアプローチが表裏一体の関係にあるためだと思う。

 

 現在の珊瑚がどんな現実を生きているか(どんな立ち位置にいるか)を知る上でも大きな役割を果たしている作品なので、この後の作品で彼女の過去に触れるときの足掛かりにもなっていた。

 

 

※1:振り仮名は原文そのまま。なぜか「くーろん」、「いっと」、「アーフー」なのである。日本の企業とはいえ、読みの基準がバラバラなのはなぜだろう?

 

 

『みなもとに還る My dear, tell me your stories』

  表題作。擬験都市コンテンツのレビュー中に遭遇したマヒロとの不可解な出会いから、珊瑚の死んだはずの母親が生きていると知る。事実関係を調べていくうちに、珊瑚は過剰共感能力者の生活共同体〈みなもと〉に自分が幼い頃に母とともにいたことを突き止め〈みなもと〉に赴くと、真尋と名乗る過剰共感能力者の少女に出迎えられる。

 

 『風牙』収録時よりディテールが見えやすくなった印象があった。

 過剰共感能力者の生きづらさを克明に描いた短編。話の雰囲気は穏やかで事件と呼べる事件も起きないがやや重い。

 一方で、珊瑚が普段よく接しているショージやカマラの出番が多く、『流水に刻む』を踏まえているため、公私両面で彼女が二人を信頼していることがわかる。特にショージの人の良さと技術屋気質が『風牙』収録時よりも強調されているような気がして、読んでいて楽しかった。

 半ばからは珊瑚が都内にある九龍から離れて、通信環境が電話くらいしかない場所にいるため、彼女とショージとカマラの動きが相対的に描かれるバランスもいい。

 

 過剰共感能力とは言うが、実際には社会生活に支障を来す身体障害に他ならない。

 

 作中でも記憶翻訳に必須の能力として位置づけられているが、自他の感覚や感情が交じることによる本人の苦痛(ときには苦と感じることすらできない人格形成への影響を引き起こす)は無視できない。

 

 他者からの好意的ではない視線が存在すること、いわゆる普通にはできないし普通には見られないこと。

 珊瑚はその中でも最も重度のグレード5であり、能力を抑える共感ジャマーがあってようやく社会生活が送れるようになっている。

 

 この点は、物語を進めていくに従って──珊瑚が生きている限り──ずっとついて回る事柄なのである。 

 珊瑚が一生抱えていくしかない自分自身のことに対して語られると同時に、本人も知らない生い立ちについての謎が明らかになっていく構成は、どちらも彼女の根本に根ざす事柄という点で一致している。

 珊瑚自身もこれまであえて考えないようにしてきたことと向き合う機会と捉えて踏み出していく素の珊瑚の姿と、物語の序盤からつきまとっていた違和感の正体を見抜くインタープリタ(専門家)としての珊瑚の姿がしっかり等分に描かれている。

 

 珊瑚の過去についての物語と言うより、現在の珊瑚がいまの自分を確認する物語という向きが強いと思う。

 

 記憶への潜行プロセスが客観的に読み取れるのも本作の見どころでもある。

 

 世間話のように他愛のない会話を交わしながらも、珊瑚はうなじのスロットから送り込まれてくる記憶の断片を識域下で吟味し、意味を捉え、判別できたものを翻訳辞書に登録し続けていた。

 インタープリタにとっての記憶翻訳のプロセスは、子どもが言葉を覚えていく過程と似ている。少しずつ断片を蓄積して初期辞書の構築が完了したとき、突然世界が理解できるようになるのだ。

 

   門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』創元SF文庫 P206

 

  これまでは、解釈を行っている珊瑚の様子のみが描かれていたが、今回はこれに加えてモニタールームでバックアップしているショージやカマラの様子も描かれている。

 それによって、これまで珊瑚の主観を追う形で記憶翻訳の手順を見てきた読者の視界も広がり、さながら集中治療室における執刀医の手元と手術室全体を見渡せる俯瞰の視点を総合して見ているような感があった(無論、このたとえはTVドラマなどでしか成立しないが)。

 

 ところで、いまさらな気付きなのだが、作中に出てくるふるほん喫茶・紫音《しおん》は、叢書版の表紙を描いたしおんさんにあやかっているのだろうか。

 

 

『虚ろの座 It's the day Iwant to be there again』

 珊瑚が九龍に入るよりずっと前、彼女が覚えていない過去の物語。

 『みなもとに還る』に出てくる過剰共感能力者の生活共同体〈みなもと〉が、まだ(組織の体裁を保つために)宗教的な側面を有していた頃の物語でもある。そのためか、『風牙』収録時よりも胡散臭さが増していたように思えた。

 叢書版ではこの作品が一番最後に置かれていた。どう描いても後味の悪い終わりになるにもかかわらず、読後感がそれほど悪くないのはこれが過ぎ去った時間の物語だからだろう。

 読者は現在の珊瑚を知っているし、ここで描かれている悔恨は彼女のものではない。なにより、『風牙(叢書版ではなく短編のこと)』において、珊瑚が自我を確立した際の経緯が描かれているため、重度の過剰共感能力者であることを踏まえてなお、どういう事情があって彼女が自我を確立できなかったのか、という背景が明らかになるからだ。

 視点・語り手(この作品のみ一人称)が珊瑚ではないこともあり、情景の見え方も少し変えられているようだった。

 手近なところは鮮明なのに、それらを含む全体像がぼやけて見える。

 地名や地図上の位置がはっきり描かれないのはこのシリーズに共通する特徴だが、その分ディテールはちゃんと描かれているので世界がぼやけることはない。

 情報は欠落していても認識の欠落はないためだ。

 しかし、『虚ろの座』に関してはそうした情報がないのではなく、一人称ならではの認識の偏りが表れている。

 解説を書いている香月祥宏氏は「(前略)ホラー/心理サスペンスとしてはじゅうぶん怖い」と述べていたが、まさしく、胡散臭くて、不気味で、おぼろげで、恐い。

 

 『虚ろの座』がシリーズの中で果たす役割は非常に重要で、この作品があるからこそ最初の『風牙』からずっと家族を描いていると訴えかけてくる。

 

 今回の文庫化における再構成は、作中の出来事や取り上げる事柄に家族が関係している、という表面的なこと以上に作品の根幹に根ざす要素だと、読者に気付いてもらう意図もあったのではないかと思った。

 

 

『秋晴れの日に Intermission - A small piece of myself』

 書き下ろし新編。珊瑚が休暇を利用して〈みなもと〉を訪問する挿話であり、現在からこれからを繋ぐブリッジ的な作品になっている。

 時系列としては、『みなもとに還る』の2ヶ月後で、そこから『追憶の杜』に収録されている作品集との間に位置することもわかる。そうした位置関係にありながら、『追憶の杜』の先の物語が続く予感を覚えた。

 真尋と話していると、珊瑚が相対的に普段より年上に感じられるのも面白い。

 

 

  

 この作品が未来を舞台にしながら、懐かしさとも言える読み応えがあるのは、記憶をメインテーマに据えているからだろう。

 記憶を記録できるようなったとき、その記録は誰かが生きた証になる。もういないあなたへの思いが強くなるのは自然なことだし、ビジネスとしてもそちらのニーズが高いだろう。先に「人間は現在から未来へ進んで生きているがゆえに、何かを語るときには過去を語るしかない」と書いたとおり、語る口がないからこそあえて記録を見つめ直す意味も大きくなってくる。

 記憶翻訳というSF的なアイディアは、未来の技術でありながら過去を語る術なのである。珊瑚が暮らす現在の世界のディテールが抑え気味なことも相まって、記憶の解釈で描かれる情景の印象が強いからだろう。

 それでも、作品そのものが後ろ向きになってしまわないのは、記憶翻訳が過剰共感能力者にしかできない仕事であり、うつむきがちな珊瑚達が前を向いて進んでいく物語だからだ。

 珊瑚自身の性格よりも、周囲にいる人々の存在に珊瑚が支えられていることをそこはかとなく描くことで、珊瑚と作品が掴み取った前向きさだと思う。

 

 

 お話しや人物以外の部分では、この時代の人間がうなじにモジュールスロットを着ける際にどんな処置をするかが気になりはじめている。

 脳内インプラントチップなどよりは外科的処置の印象はなく、体内ナノマシンネットワーク構築などよりは人の手が介在していそうな印象のあるモジュールスロット技術なので、機会があれば突っ込んだところを読んでみたい。読んでみたいが、モジュールスロットの仕組みは、言わば重箱の隅なので描かれなくてもそれはそれでありだろう。

 こうしたSF的な想像の余地を読者に残しているのは、この作品の懐の深さだと思う。

 

 

 などと書きながら、2ヶ月以上積んでいた私である(ごめんなさい)。

 

 

菅浩江『放課後のプレアデス みなとの星宙』一迅社

 

放課後のプレアデス みなとの星宙

放課後のプレアデス みなとの星宙

 

 noteで連載していた『放課後のプレアデス』感想補足解説から生まれた縁で、micromillionさん(@MicrMilli)からご恵投いただいた稀覯本である。

 いまのいままで積んでいたのは、読んでしまうとアニメに対する自分の見解が影響を受けてしまう怖れがあったため、感想記事の連載を終えるまで封印していたのである。
 
 その連載は、先週9日に無事完結できたので、ずっと楽しみにしていたおもちゃを取り出すような心地で読み始めた。
 
 本作は、TVアニメ『放課後のプレアデス』を、同作の登場人物の一人・みなとの視点から描いた物語である。
 視点の置き方は、TVアニメにおけるすばるの視点の置き方と似ていて、三人称で進行しつつもみなとの心情が強く反映されている。

 

 みなとには三人称の地の文にも紛れ込んでもらい、たくさん本音を吐露してもらいました。これを読んでくださるみなさんが、みなとを愛おしく思ってくだされば嬉しいのですが。

 

   菅浩江放課後のプレアデス みなとの星宙』一迅社(あとがきより)

 

 知っている作家のあとがきは最後に読むことにしているので、本編を読み終えて「なるほどなぁ」と思った。

 

 三人称で進行するものの、世界や物事の見え方は、みなと主観に寄っている。
 この意図的な偏りによって、アニメで提示されたものとは違う解釈も成り立つようになっているし、同様にこの小説における解釈がたくさんある捉え方の1つだとわかるようになっている。

 

 みなとを作品に深く関与させることで、解釈の幅が広がり、小説とアニメの双方を両立して楽しめる作りになっていると思った。

 

 作中でみなとが遭遇する出来事は、TVアニメとほぼぴったり対応している。
 そのため、既にアニメを視聴している読者からすると、たとえば第6話の衛星軌道上での対峙は彼としても切羽詰まった思いを抱いていたことがわかったり、たとえば第9話の素っ気ない態度は「照れ隠しか!」と突っ込みたくなったりして面白い。

 

 こういったみなとの心情は、画面から読み取れる内容の延長線上にあるため、視聴者の想像にゆだねるしかないし、その視聴者からすれば想像と言うより妄想の域に入ってしまうため、二の足を踏んでしまうところがある。

 でも、その心情を描ける公式作品があったとしたら、というのが「みなとの視点でノベライズを」という企画の狙いだったのではないかと思う。

 

 心情を丁寧に描けるのは文章表現の強みなので、アニメにおけるみなとの表情に出ないあるいは表情に隠された心情を見ている心地もした。

 

 TVアニメ『放課後のプレアデス』で言うところの「7年前」から、宇宙人と宇宙船のエンジンのかけらにまつわる出来事を時系列で追っていくため、アニメでも描かれた出来事の因果関係がわかりやすく、アニメを見ていなくても十分読める作りだと思う。

 

 主観がみなとなので、自分が関与していないところで事態が進行していくところが多い。

 これは、アニメ本編ですばる達が魔法使いとして活動している部分が、実際に対峙するまで見えないからだ。

 みなと主観だからもっともな展開であるし、置いてけぼりにされそうで彼の孤独感をいっそう深めている。

 孤独ではなく孤独感なのは、学校ではすばると触れ合う時間があり、角マントとしてはカケラを魔法使い達と奪い合う時間なので、形は違えどどちらも相手がいるため、彼は1人ではない。

 しかし、みなとがそうした関係性から「ぼくは一人じゃない」と実感するほど、「あっちは五人いるけど、ぼくは一人なんだ」と打ちひしがれるからである。

 読者からすると、みなとが本当の意味で寂しさを知る過程なので、自分が寂しいんだ、ということに気付いてくれ、と思わずにはいられない。

 

 自分が関与できないところで物事が進行していく様は、『たんぽぽ娘』を思い出した。

 

たんぽぽ娘 (河出文庫)

たんぽぽ娘 (河出文庫)

 

 

 たとえがマニアックで申し訳ないが、『みなとの星宙』に最も近いと感じたのは『たんぽぽ娘』なのだ。


 『放課後のプレアデス』本編では、恐らく頑張って控えめにしたであろう実在の物理学や天文学の分野にわたる科学考証をしっかり文章に組み込んでいるのだが、それほど小難しくならずしかもアニメ本編で描かれたことが破綻なく語られていた。

 そのため、SF小説というよりも学級文庫に置いてあったような科学小説の向きが強い印象がある。

 

 ついでに、幼いみなとは本当に健全な科学好きの男の子であることが端的に示されている部分があって、思わず笑ってしまった。

 

 テレビや本で年齢以上の知識を持っているみなとでも、量子力学はできれば跨いでやりすごしたい理科分野の一つだった。

 

   菅浩江放課後のプレアデス みなとの星宙』一迅社(P23)

 

 そうなんだよ。きっかけはなんであれ、物理学を知っていくにつれて関わってくる量子力学は、できることなら関わりたくない……と思っていたのが、趣味でブルーバックスの物理学や天文学の本を読み漁っていた10代の私の本音だった。
 相対性理論を避けて通りたいのは「難解」だからであって、これが量子力学になると「わけがわからない」から避けて通りたいものになる。

 

 とはいえ、そうも言ってられないのが現実であって、みなともまた量子力学に足を踏み入れることになる。

 

 もっとも、科学(自然科学)というのは「わけがわからない」ことを「わけがわかるようにする」学問なので、エルナトが量子力学相対性理論に異様なまでに詳しい理由は、彼らが地球人を理解する手段として真っ先に取り込んだのだと思う。
 あえて、そうとは書いていなかったけれども、この様に考えるとアニメにおける会長(プレアデス星人)がやけに地球の科学に通じている部分にも繋がる。

 

 アニメからのファンとしては、そうした接点があるのは嬉しい。

 

 アニメとの接点と言えば、主題歌「Stella-rium」の歌詞がここぞと言うところで本文に入っていて、筆者も『放課後のプレアデス』が本当に好きなんだなぁ……と思い知らされた。

 読む方が知っているからわかるのであって、知らなければそういう表現だと受け容れてしまいそうなほど上手い引き合いだった。

 

 合間合間に挿入される『銀河鉄道の夜』をはじめとする宮沢賢治(本作では宮澤賢治と表記)文章は、いまのみなとが相対している現実と夢幻のあわい(境界)の役割と、人とあまり接したことのないみなとが誰かへの思いを語る上での代弁する役割を担っていたと思う。

 人とほとんど接したことがないみなと自身の言葉だけでは足りなくて、彼が知っている言葉で必死に補っている印象を受けた。

 

 

 noteの記事で、みなとの悲劇は「賢すぎたこと」だと書いたと思うのだが、この作品では重ねて「想像力が豊かなこと」も強調されている。

 最初のうちは、みなとの悲劇性を描く上で引き合いに出された特徴だと思っていたのだが、終盤になって魔法に関わる極めて稀な特徴の掛け合わせだったことが明かされて、これもまた「ああなるほど」と膝を打った。

 

「あれ? ダークエネルギーなら、いままでも使ってこなかった?」
 みなとが訊くと、全員がきょとんとした顔をした。
「ぼくたちの魔法は宇宙項Λに関係している、と、ぼくは理解していたんだけど」
「すげえな」ひかるが素直に感心してくれた。「とっくに判っていたんだ。道理で、五人でかかってもそっちの方が強かったわけだ」
 ななこが呟く。「猫に小判。知らないものは使えない」
「そういうことだったんだよなあ」ひかるはがっくりとシャフトに伏せた。

 

   菅浩江放課後のプレアデス みなとの星宙』一迅社(P285)

 
 不勉強なので「宇宙項Λとはなんぞや?」と調べて、調べてから名称を知らないだけで内容は知っていたことがわかって苦笑した。
 てことは、この小説における魔方陣(小説版では『魔法陣』ではなく『魔方陣』)はスカラー場ということなんでしょうかね? と瞬時に問いが立つ程度には知っていた。

 

 話が逸れたが、力(エネルギー)はあっても使い方(論理・仕組み)を知らなければ使えないし、そこまでは知っていても具体化する形を思い描けなければ(想像力)、実際には使えない、ということである。

 限界まで言葉を絞り込むと、知恵と想像力が揃って初めて魔法は力を発揮する、となる。

 

 ここまで来て、ジュブナイルの波が一気に押し寄せてきて参った。

 どうにも突き放したような印象(簡単に言えばみなとに対して厳しい・冷たい)が抜けなかったのだが、それもこれもみなとがどんなあり方でも現実に立脚できるようにして、最後に仲間を得て同じ時を分かち合えるようにするためだと思い知らされた風情である。

 

 noteを読んでくださった方々は察しが付いていると思うが、私はここまで突き放した視座は持てない。情に弱すぎるのである。

 

 ともあれ、そうした独自の解釈を含んだ作風が『みなとの星宙』を独立した作品として成り立たせているとのだし、アニメ『放課後のプレアデス』の存在が引き立つのだと思った。

 

 私がこの本を読めたのは。この本を「いつか誰かに読んでもらうときが来たときのため」に1冊余分に購入していたmicromillionさんの慧眼があってのことなので、改めてこの縁に感謝している。

 

菅浩江『永遠の森 博物館惑星』ハヤカワ文庫

 

永遠の森 博物館惑星

永遠の森 博物館惑星

 

  地球と月の間の重力均衡点(ラグランジュ点)3に配置された小惑星をまるごと博物館とした〈アフロディーテ〉には、人類のありとあらゆる芸術品が収められ、データベース化されていた。

 月と対照の位置に浮かぶ〈アフロディーテ〉は、マイクロブラックホールによる重力制御とテラフォーミング技術によって、海や森といった様々な環境が整えられ、貴重な絵画や彫刻などを風化させないための完璧な空調管理システムなどを備えている。

 

 人類の全ての芸術品を収蔵するのに、小惑星をまるごと使う発想も魅力的だが、なにより脳とデータベースを接続してすぐさま情報を参照できる直接接続者という発想を学芸員と結びつけたところが面白い。

 学芸員は、美術品を多く扱うため、「美とは何か」という思考を常に持たなければならないのと、その鑑識眼の中立性を求められるゆえに、多くの情報が必要になるからだ。

 

 主人公の田代孝弘も直接接続者の学芸員であり、まさにそうした立場を体現している。

 

 読んでいる方からすると、いつも「美とは云々」と考えている孝弘は、どうにもしかつめらしく鼻持ちのならないところがある。

 ただ、このしかつめらしく鼻持ちのならないところがあるから、田代孝弘という人物の人間くささが出ていて、最終的にはこの「美の追究」とでも言える思考が陥穽になる構成には驚いた。

 

 だってこれ、SFの皮を被ったラブストーリーなんだもん。

 

 オムニバス形式なのに最後一編を読んでいたら、最初に出てきた美術品が出てきて、スイッチが次々とONになるようにこれまでのエピソードで孝弘が遭遇した事柄が繋がってくる。

 個人的には、美術と博物、形のある物と形のない物が交差する「夏衣の雪」と、システムのアップデートの過渡期に挟まれてしまった老学芸員の静かな懊悩を描いた「抱擁」が好き。

 

 

 

 

 

門田充宏『コーラルとロータス』東京創元社

 

 

 2月の新刊文庫『記憶翻訳者 みなもとに還る』を読むにあたって、本作を読んでいなかったことに気付いてKindleで購入した。

 すでに単行本『風牙』と『追憶の杜』を読んでいる読者であるので、図らずも絶好のタイミングとなったと思う。

 これからこのシリーズを読む方は『記憶翻訳者 いつか光になる』→『記憶翻訳者 みなもとに還る』→『追憶の杜』という順で読むのがよろしいと思う。

 『コーラルとロータス』は、上記の『いつか光になる』と『みなもとに還る』の間か、『みなもとに還る』と『追憶の杜』の間に読むと入りやすいだろう。

 

 

 本作はシリーズ本編から10年前の、まだ珊瑚が新米社員で、記憶翻訳者《インタープリタ》としてはまだ事業に携わる前の物語だ。

 そのため九龍自体も、社員も若い。珊瑚は16歳、特に明記はないが社長の不二、眞角と那須の両専務は30代に入ったくらいのイメージで、カマラ女史に至っては推定20歳である。

 少なくとも『記憶翻訳者 いつか光になる』を読んでいる方ならば、この時点でわくわくすると思う。

 

 物語の構造は『閉鎖回廊(単行本『風牙』及び文庫『記憶翻訳者 いつか光になる』収録作)』と少し似ていて、珊瑚達にとっては社員が関わる問題、読者にとっては物語上の謎と向き合うことになる。

 その鍵となるのが記憶翻訳技術と過剰共感能力で、今作では後者に力点が置かれている。 

 すなわち、過剰共感能力者がいる社会とはどういう社会なのかという作品世界を登場人物のプロファイルに関わる身近なところから描いているのだ。

 

 その上でスポットが当たるのは、珊瑚とカマラの関係である。

 

 記憶翻訳者は過剰共感能力者しかなれないため、珊瑚は例外としても十代での入社というのはこの世界でも珍しいらしく、出会った頃に「カマラさんとは歳が近い者同士なんとかお近づきになりたい(意訳)」と会話の取っ掛かりを掴もうとして、若干空回りする珊瑚は中々の見物である。

 

 作者の門田充宏さんはヤング珊瑚と書いていたけれど、まさに本編の珊瑚の若い頃の物語であり、考え方や人物の根本の部分は同じなのだけれど、やることなすことがいかにも若いというか青い感じが出ていた。

  読む前は「ヤング珊瑚? 16歳ならロリ珊瑚では……」なんてことを思ったのだが、読んでみるとなるほどこれはヤングである。そっちの方がしっくりくる。

 ぶっちゃけ、若気の至りもやらかしていると思う(外的刺激変換モジュール使用時のアレ)。

 

 同時に、本編で(能力の高さはさておいて)、珊瑚がカマラを九龍立ち上げメンバーの不二、那須、眞角と同じような親しみを抱いている理由、あるいはその距離感を掴むきっかけが描かれているとも思う。

 

 記憶翻訳を専門に扱う企業とはいえ、九龍内部でも記憶翻訳者《インタープリタ》はそれ以外の社員と必要以上に関わらないことは、10年後の本編で珊瑚が接触を持つ相手が極端に少ないことからも明らかである。

 むしろそうした本編での珊瑚は、インタープリタの中でも同僚以上の友人知人や社外の人間との関わりが多い過剰共感能力者だと思う。

  これは、珊瑚は自宅の一階部分の喫茶店(というより軽食店)の店主と気さくに話す仲であったり、行きつけの古本屋兼喫茶店があったりするところからもわかる。

 

 恐らく、珊瑚がトップインタープリタに上り詰めることができたのは、翻訳による汎用化において必要となる一般的な知見を他のインタプリタよりも多く持っていたからではないだろうか。

  過剰共感能力が高ければ高いほど、自他の境界が曖昧になるため記憶翻訳を行う上では有利だが、この能力を抑える共感ジャマーなしには日常生活すら覚束ない。

 作中でも過剰共感能力を障碍だと言及している通り、いわゆる健常者と障害者という分け方をした場合、過剰共感能力者は間違いなく障害者である。

 共感ジャマーによって社会生活が送れるようになっても、過剰共感能力者にとって他者と関わることに足踏みしてしまうのは想像に難くない。

 

 それでも珊瑚は一歩踏み出してきた。

 だからこそ、トップインタープリタになれたのだと思う。

 

 そうした現在の珊瑚を形作っている背景の一端が垣間見える短編だった。