武石勝義『神獣夢望伝』新潮社
日本ファンタジーノベル大賞2023受賞作にして、武石勝義さんのデビュー作をようやく読んだ。でも、買ったのはたぶん今年に入ってからで、きっかけは武石さんと『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』でご一緒させていただいたからだった。
『真字名解記』を読んで、硬い文体とは裏腹に極めて高いリーダビリティと登場人物を俯瞰する絶妙なカメラワークに感銘を受けて、これは読まねば、と思った次第だった。
それから、一年近く積んでいた。
これは文字通り本棚に差しっぱなしの状態で、ろくすっぽ開いてもいなかったのである。
ちょっと開いてみれば良かったのに。
この世は常夢 なべて神獣の微睡
夢中の我らは 眠りを醒ますことなきよう 安らかなることこそ運命
神獣が瞼を閉じて、はじめに目にしたのは漆黒の闇であった。
闇は徐々に色づいて、いつしか果てしのない青となり、やがて蒼天と海原の二つに分かたれた。蒼天には太陽が昇り、海原には大地が現れた。太陽は月を吐き出し、その折りに数多の欠片が星となり、一部は大地に降り注いで人となった。大地は海流に東西を貫かれて、南天と北天は二つに引き裂かれた。
これ以上の天変地異を恐れた人々は、神獣に安らかな夢見を願った。果たして神獣は彼らの祈りを聞き入れて、南天は耀の地底湖にその身を沈めた。
人々は神獣が眠るという地底湖を祀り、耀は社稷として南天北天を治めた。耀の神官は広大なこの世を平らかにすべく、北天に玄王を、東に旻王を、南に燦王を封じ、西の耀と合わせて安んじた。
武石勝義『神獣夢望伝』新潮社
わくわくするでしょ?
先月、読みかけの『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ4』の次になにを読もうかと検討していて、この巻頭文を読んで「これは読みはじめたら止まらなくなるやつ……!」という予感を抱いたのだった。
実際のところこの予感は的中していて、最近めっきり読書のスピードが落ちた自分もものの数日で読み終えてしまった。
読了後は満足感とともにわずかに疲労感を感じ、ひさしぶりに壮大な長編小説を読んだという実感があった。
文体は硬質なのだが非常に読みやすく、架空の中華風世界が舞台のため、登場人物の名前や地名がすべて独特の漢字表記なのだが、難読字があまり出てこない。大体の漢字の音読みを知っていれば、一度ルビで紹介されれば覚えられる。読み方に迷うことがまずない。そうした点でも非常にリーダビリティが高い小説だった。
群像劇の仕立てに近く、シーンによって主体となる人物がことなるのだが、登場人物とカメラの距離感が適切に取られていて、読者はつねに俯瞰して状況を読むことができる。心情描写・情景描写もそれぞれ語りすぎず、それでいて十分に語られているので、一歩引いたところから彼・彼女らを見守ることになる。
これは、本作の世界が神獣の夢の中であり、神獣はあらゆる事象をただ見守るのみという点で作品の核心と読者が重なる。当初は作者と神獣を重ねているのではないか、と思ったのだが、「作中の出来事をただ見守るしかできない」のはまさしく読者の立場であり、主人公・縹を見る人々のまなざしは同時に作中から読者へ向けられるまなざしではなかったのか、と読了後思わされた。人は誰しも神獣になり得るのだと思う。
そして、それは読者がまた別の作品の作者になり得る可能性を示唆しているようでもあった。当たり前のことなのだが、その作品の最初の読者はその作品の作者だからであり、作者の中にある「作者の部分と読者の部分」の両方に触れられた気がした。
この作品に感じた俯瞰の視点、主体を設定しつつ客観的に全体を捉えようとするカメラの位置取りは、作者と物語との距離感そのものだったのかもしれない。
内容について少し触れると、童樊は当初田舎の大将といった感じなのだが、その栄達ぶりを見ていると大器量人ではないかと思わされるところがある。しかし、結末に向かうにしたがって最初に提示されたどおりの人物であることがわかり、その末路についてはなんら疑問も抱かなかった。
変子瞭については読み進めるうちに「はよ死ね、変子瞭」と思いながら読んでいたが、最初のうちはこいつもじつは相当な人物ではないか、と思わせられるところがあった。
こうした読者が抱いてしまう買いかぶりに対する裏切りとも言える真実の提示は、「その人がその人であるが故に決して逃れられない性(さが)あるいは業(ごう)」といったものを感じさせられる。
買いかぶりに対する裏切りはあるが、「この人であれば、こう動くあるいはこうなる」という読者の無意識の期待に沿う結果になっており、見届けたときの納得感が強い。
童樊が良い例なのだが、どの人物も登場した時にその人の本質的な部分が描かれており、そこで読者による(あるいは作中の人物による)買いかぶりが生じるのは、都合良く解釈している先入観に過ぎない。この様に書けばどう見られるかがしっかり計算された人物描写だと思う。
また、人物の配置が絶妙で(縹を例外として)、「その場にその人物がいたからその出来事が起きた」という必然の積み重ねが巧みに成されていた。これは私自身の物語に対する考え方とも合致しており、出来事に対する「なんで?」が生じないように作れられている。
それから、人間の持つ情欲を躊躇なく描いているのも本作の特色であり、これはその面をクローズアップしているという意味ではなく、この世界自体がやや開放的なのである。そのわかりやすい例は祭踊姫の設定だが、なにより伽を王権確立のための手段としてもちい「父など誰でも構わん。子が生まれればそれは女王の子」と男をばっさり切り捨ててしまえる強さを持った枢智蓮娥が印象深かった。彼女がただ聡明で非情な若き女王だったら、これほどの魅力は感じなかったと思う。
ちなみに、私はけしからんことに『ブルーアーカイブ』の竜華キサキのビジュアルで想像していた。まったくけしからん。
ひさしぶりに夢中で読んだ作品に出会えたと思う。
『神獣夢望伝』は来年一月に文庫版が新潮文庫から出るとのこと。
こちらは地図も掲載されているとのことで、これから読む人は文庫版から入られるのがよろしいと思う。
読んだ本メモ202501
昨年10月でまた更新が止まってしまいました。
仕切り直していきたいと思います。
とはいえ、ひとに語れるほど本を読めていないので、毎月更新にするとどれだけ読んでいないかが明るみに出てしまいます。それはそれで恥ずかしい……。
ざっくりと印象を簡潔に述べるのが苦手なので、このブログ外などで書いた感想も参照しつつ書き留めてみます。
(そして最悪なことに、はてなブログを使うのがひさしぶりになって操作を忘れている……)
- 九頭見灯火編『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』東京銀経社
- 『文芸コンピレーション input selector ISSUE:Early 2025』言葉の工房
- 白湯ささみ『現五夜』
- 偲凪生『unBalance』
九頭見灯火編『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』東京銀経社

六塔掌月、あぼがど、新星緒、柏沢蒼海、伊和千晶、甘衣君彩、かんな、渋皮ヨロイ、武石勝義、松田夕記子、海猫、平沼辰流、鳥辺野九、秋待諷月、Yoh クモハ、蒼桐大紀……以上16名の執筆陣によるアンソロジー。編者は九頭見灯火。
SF、ファンタジー、百合文芸、幻想・怪奇、歴史・伝奇、架空戦記など、小説が持つエンターテインメントを幅広く取り扱った一冊になっていると思う。
867ページに達するボリュームため、紙の本で読むには——物理的に重いため——やや億劫ではあるのだけど、実際読んでみるとこうしたアンソロジーは紙の本で体験して良かったと言える。
私自身、執筆者の一人であるため、ゲラチェックの段階で収録作には目を通しているのだが、読者として読むとまた違った印象を受けて楽しめた。
noteに詳細な感想を書いたので、詳しい内容に興味のある方はそちらを参照されたい。
『文芸コンピレーション input selector ISSUE:Early 2025』言葉の工房

文学フリマ東京39で買った本。
執筆者は、唐橋史、三築未衣子、オガワダアキナ、伊藤佑弥、伊島なむあひ、添嶋譲、栗山真太郎、瑞穂はじめ。
一見すると、文芸誌の体を取っているようだが、ページを開いてみると多段組ではなく、フォントサイズも大きめで非常に読みやすい。版型はB6。既存の書籍では講談社BOX文庫が近いだろうか。
執筆者の何人かとは文学フリマなどを通して面識があり、作風もおおよそ把握しているため気負うことなく読めた。
やや暗いトーンに対して、軽快な読み味の作品がそろっており、気楽に読める短編小説集として楽しめた。
作品によって時代設定がさまざまであり、平安時代、明治から大正初期、大正年間から昭和初期、昭和末期から平成初期(おそらく)、平成後期から令和、近未来、と作家が得意とする背景で書いていることがうかがえた。また、一冊の中に時代のグラデーションを感じた。
あまり気をつけずに読んでいたこともあって、共通するテーマは読み取れなかったが、方向性としてどの作品にも〝不穏さ〟があった。
不穏のトーンも作者によって描き方がさまざまであり、たとえば三築さんの『あの子の櫛』ではいつどんな破綻が起きるかとハラハラさせられ、栗山さんの『化かす』においては終始次の展開に興味を惹かれつつ読んでいた。三築さんについては、著者紹介文の「小説はシスターフッドしか書いておりません」のひと言にいさぎよさを感じた。
唐橋さんは大変ご無沙汰しているのだが、作品を読んでみるといまも因果について書かれているのが確認できた。
添嶋さんとは先日の文フリでお話しさせていただいたのだが、ご本人の印象やこれまで読んできた作品とは少し毛色の違う暗いトーンのSFを楽しませていただいた。
なむあひさんとも(大変ありがたいことに)長らく親しくさせていただいており、今作は出会った頃の作風を感じさせる作品だった。過去の作風を再現できる腕前に驚かされつつ、やはりこの人はジャンル=伊藤なむあひなのだな、と確認させられた。
作家それぞれの作風が明確に打ち出されている短編集であり、それでいて一冊の本としてのまとまりが非常に良かった印象がある。
古くから文学フリマに参加している人の中には、(私のように)この執筆陣を見てピンと来るものがあるかもしれない。編者でもある添嶋さんは、各地の同人誌即売会に積極的に参加されているので、対面する機会があれば思うところを確かめてみるのも良いだろう。
なお、『input selecoter』の詳しい取り扱い状況については、X(Twitter)もしくはBlueskyの添嶋譲さんのアカウントか言葉の工房のアカウントから確認できる。
いまのところ、Amazonリンクで書影を出せない本については写真を撮っているが、続くかはあやしいところである。
白湯ささみ『現五夜』

白湯ささみさんによるエッセイ集。どのエッセイも結構ハードな体験を文章にされていて、自身の過去に対する解像度の高さが読み取れた。幼い頃にいだく強い自意識について、精細に描かれている。子どもの頃の思考を子どもらしいままに書く、というのはなかなか難しいことだと思う。
偲凪生『unBalance』

文学フリマ東京39でチラ見して「百合ですか?」「百合まではいかないと思うんですが、それっぽいです」といったやりとりわ偲さんと交わした。
読了してみて、かなり濃度の高いすれ違い百合だったと思う。
収録作の『クラムボンがわらったら』は、痛々しさを感じさせられた。10代半ばの向こう見ずさと繊細さ、視野狭窄と閉塞感がからみ合っていて、どうにもならない。どうにもならないことはどうにもならない、と語っている。
もういっぽうの収録作『セントエルモの涙』は、なにかが終わってしまった後でこれから新しい物語がはじまりそうな予感がある。
ほろ苦くはあるけれど甘さも十分あって、もう少し読みたいと思った。
今回から読んだらその都度感想を書き残していって月終わりに更新する、というやり方を試してみたのだが、1月31日に更新を忘れるという体たらくである。そして、1月は同人誌しか読んでいない。
こうした記事を書いていると、来月はもっと本を読もう、と思うのだが、それを実行できるかはあやしい。
読んだ本のメモ20241022
10月も後半である。本を読むたびに簡単な書誌情報(作者・タイトル・出版社)をまとめたメモはつけているのだが、どうにもこのブログを更新する機会を逸してしまう。結果として7月半ばから10月後半までの本の記録が溜まってしまったのだが、記憶をさかのぼりながら書ける範囲でつまんでいこうと思う。
- 門田充宏『ウィンズテイル・テイルズ 封印の繭と運命の標』集英社文庫
- 屋久ユウキ『夜のクラゲは泳げない3』ガガガ文庫
- 青崎有吾『早朝始発の殺風景』集英社文庫
- 門田充宏『チビ先生の煙草』KDP
- ハセガワケイタ『しにがみのバラッド。4』電撃文庫
- 塀『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花5』秋田書店
- 西崎憲『世界の果ての庭 ショート・ストーリーズ』新潮社
- 西崎憲『飛行士と東京の雨の森』筑摩書房
- 工藤マコト『HGに恋するふたり 8』角川書店
- 篤見唯子『スロウスタート12』芳文社
- 門田充宏『記憶翻訳者 あなたに遺す物語』KDP
- 博『明日ちゃんのセーラー服14』集英社
門田充宏『ウィンズテイル・テイルズ 封印の繭と運命の標』集英社文庫
異界からの侵略者に対する武器が超常の力とか強力な兵器とかではなく、人々が受け継いできた知識だというのがおくゆかしい。
そのためエンタメとしては地味でお行儀が良すぎる面もあるのだけど、筋道がしっかりしているので小説という媒体とはマッチしていると思う。ウィンズテイルという小さな街周辺を舞台にしながら、リンディ達が直面している危機を世界全体の危機として認識させる手管は鮮やかでとても丁寧に作られている。
これを読むと人の善性をもう少し信じてみたい気持ちになれる。 あと、これは門田充弘だからこそだと思うのだけれど、犬の描写が巧みで生気にあふれていた。コウガ、強い印象を残す一方でくどすぎない。ひととの距離感の書き方が絶妙だと思った。
以上がTwitterに書いた感想である。
上記の通り、人の善性を信じてみたくなるのは本心なのだが、主人公の側に立つ登場人物(もちろん主人公を含めて)が善人すぎるように感じて、若干そこに反感を抱いているところもある。
この引っかかりは同作者の『記憶翻訳者~あなたに遺す物語』の項目で、別途触れたいと思う。
恋愛を主題にしていない青春物にはどういった先行作品があるのだろう。商業ではどの様な展開を成されているのだろう。
今年の6、7月頃に抱いていた問いである。
この問いを踏まえて、書店で求めたのが『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』、『雨の降る日は学校に行かない』、『早朝始発の殺風景』の三冊だ。
短編集。武田綾乃の『青い春を数えて』が頭にあったのだが、それとはまた異なったアプローチによる十代における生きづらさ・息苦しさが描かれていた。ただ、そうした生きづらさをよりフラットにとらえることで、優しさや思いやりなどが浮かび上がり、総じて感じた感想は「少し不器用」だった。
相沢沙呼はこの本で初めて読んだ。好印象なのでまた機会を見つけて著作を読んでいきたい。
屋久ユウキ『夜のクラゲは泳げない3』ガガガ文庫
アニメで不足を感じていた思考の流れ(言動や行動の背景)がしっかり補完されていて、メディアミックスってこうだよな、と思いながら読んでいた。
アニメにおける絵でわかるところはあえて言葉で語らないスタンスは好きなのだが。同時にやや言葉たらずにも感じていたからだ。
この小説は思考の流れの背後にある内省がもっとあったらな、と感じていた部分を的確に補っていて、作品の解像度を上げてくれる。
たとえば、10話の木村ちゃんの歌はまさに小説ならではの描き方で、アニメとは違うアプローチで描かれた同じ場面なのだと思わされた。
他にも、花音が持っている幼い面や雪音とのぎこちない親子関係が丁寧に掘り下げられていて、「卒業」が一段深く腹落ちした。花音は母親へのコンプレックスとアイドル時代のトラウマ、この二つと歌手としての承認欲求が絡み合っていて、それが面倒くささの根っこなのだな、とはっきり見えたこともある。
そうした観点で見ると、キウイは言動と行動、感情と思考、衝動と内省、それらが非常にバランスよく描かれていたのだな、と気づかされる。アニメから感じていたことを小説を読んで確認している感じがした。
まひろはアニメより成長を強く感じられる面があって、行動の背景を描くという小説の特性をよく活かしていると思う。
それから小説版は、1巻から徐々に文章ならではの領域に移行させていく描き方をしていたと感じた。1巻はアニメ本編を強く意識した映像的な描き方だったが、2巻から徐々に各キャラの内面への踏み込みを深くしていって、3巻ではむしろ内面を軸に描いている。3巻のラストは1巻の冒頭と照応させつつ、タイトルを回収する結びがはまっていたのは、この仕込みがあるからだと思う。
あまり話題にならなかったが、アニメとのメディアミックス作品として非常に優れており、小説単体としての完成度も高かった。最初電子版で済ませるつもりだったのだが、1巻の冒頭読んだ瞬間「これは紙で読まなければダメだ」と直感して書店に走ったのも良い思い出である。
紙の書籍はこうした購入の経緯が読書体験に含まれるので、私の中で電子書籍に対する優位性は崩れないだろう。ただ、もはや所蔵限界を感じているので基本的に電子書籍で読むスタイルは変わらないとも思う。
青崎有吾『早朝始発の殺風景』集英社文庫
今年の読書傾向として、長編よりも短編集を手に取っていることに気づいた。
青崎有吾は『文芸ムック あたらよ創刊号』で初めて読み、集英社文庫の夏の読書フェアの平台でこの本を見つけた。
日常の謎を扱っている点で米澤穂信と似るが、謎の背景の多くに感情が存在する点で大きく異なっている。青崎有吾の描くキャラクターの多くは理屈や道理ではなく、感情(ときに不合理な)で行動する。その上で小説の構造は論理的で、高い整合性を保っており、読後時に腑に落ちる感触がある。
読者が作品から感じる引っかかりを最後には必ず解消するように構成されており、こうした構造はラジオドラマなどのオーディオドラマに似た印象を受けた。この短編集は映像化されているが、個人的には音で聞いてみたいと思った。
門田充宏『チビ先生の煙草』KDP
『記憶翻訳者』シリーズからのスピンアウト。
本編の過去編であり、九龍創業につながる物語である。創業者・不二(ふじ)の中学校時代の恩師・千曳(ちびき)の視点で描かれるため、不二や九龍を一歩引いたところから見られる。
教師としては破天荒一歩手前の千曳の語りは楽しく、喫煙にまつわるエピソードを彼女の人間関係の構築とからめており、読後も想像が刺激された。たとえば、九龍入社後の彼女は煙草の量が減ったのかな、とか。
不二の奇妙なファッションセンスが炸裂する短編でもあり、読んでいて笑いを誘われる箇所が随所にあった。門田充宏はキャラクターの服装を細かく描写する書き手であるが、これならばファッションに明るくない人間(私のような)が読んでも理解はたやすい。
門田充宏の著作はいまのところ全作読んでいるのだが、これくらいのボリュームの短編で、なおかつ二十代以上(三~四十代くらいがボリュームゾーンか)のキャラクターを描いた作品が得意なのではないか、と感じ始めている。これくらいの年齢層のキャラクターがとくに実感のこもっている気がする。
キャラクターが若くなればなるほど、また逆に老いれば老いるほど、心情からの距離が遠く(あるいはカメラが引いていく)なる印象がある。
ハセガワケイタ『しにがみのバラッド。4』電撃文庫
再読。
刊行当時に読んでいるのだが、びっくりするくらい記憶に残っていなかった。エピソードの内容は憶えているのだが、独特の文体を忘れていて「あれ? こんなんだったっけ?」と思うことが何度もあった。
かなり砕けた言葉を使いながら突き放すような書き方をしているので、キャラクターが浮き立って見える。以前、二巻を再読したときに演劇の台本を想起したのだが、三人称でありながら時折キャラクターの言葉に地の文が染まるような書き方(演出と言いたい)が舞台の上の演技にスポットを当てているように感じたからなのかもしれない。
紙の本は手放してしまったので電子書籍で読んだのだが、もしかすると紙の本で読むと印象が変わるかもしれない。
塀『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花5』秋田書店
『上伊那ぼたん(略称)』も気づけば5巻を数えていた。
私は3巻が出た頃から入った読者なのだが、以来塀作品に魅了され『たらちねパラドクス』『月のテネメント』などの過去作を紙・電子両面で網羅するに至っている。
電子書籍は参照が容易で場所を取らない点が大きな魅力なのだが、読書体験は紙の本が大きく勝る。これはページをめくる・本(正確にはタブレット端末)を回転させることなく見開きで見る、といった行為まで含めてその様に読まれることを想定して作品が作られているなのかもしれないし、単なる私の思い込みなのかもしれない。
ただ、単なる思い込みだったとしても、私にとっては紙の本での読書が至上であるのは真なりであるので、紙の本は読書を楽しむ用、電子書籍は参照用と割り切って両方買っている(こうした向き合い方をしている作家は他にもいるが、ここでは述べない)。
曖昧な部分を残していたぼたんといぶきの関係が(彼女らなりに)はっきりして、かなでとジンランが付き合いだしたことで、寮内の人間関係が大きく変わっている。5巻では安定に思えたやえかとあかねの関係に変化が訪れるのだが、この変化は二年生の二人が将来設計という節目に接したゆえのものだけではなく、寮内の人間関係の変化に知らず影響を受けた面もあるのかもしれない。
『上伊那ぼたん』は多くを語らない。それでいて、発せられる言葉はキャラクターの心情を雄弁に物語るので、その言葉の背景に一体どんな心情や経緯が存在するのかを常に考えさせられる。とくに、やえかとあかねについては、いぶきやかなで、ジンランに比べてぼたんとの接点が少ないため、開示されている情報が相対的に少ないことも手伝って、公開されているエピソードだけではその背景をおもんばかるには情報が不足する。
#44・#45におけるやえかとあかねは、それまで彼女らがぼたんに(そして読者に)見せてきた振る舞いとは真逆の物に感じられる。具体的には、やえかは落ち着いた大人のたたずまいを見せ、あかねは子供っぽくすら感じられる。
やえかのあかねと喧嘩してすねてぼたんといぶきを長瀞へ誘った幼さはなりをひそめ、あかねの常に余裕を持った対応(ぼたんの意向をそれとなく汲んでみせるなど)をしているように見えた落ち着きは消え去っている。
ここで注意したいのは、両人の見せた落ち着きと幼さはひとりの人間が持つ一面であり、その様に変化したわけではない、ということである。変化したのはそうした一面が表出するようになった関係性であり、両人とも元々そうした一面を備えていたということである。
現在連載中の最新話において、やえかとあかねについての背景情報が補足され、登場しているのはあかねだが、開示されたのはやえかが5巻で見せた態度の理由だと判明した。やえかがぼたんに語った言葉は、あかねについて的確に語っており、であるならばいぶきの言うとおりやえかは「優しい」。
たしか2巻だったと思うが、衣装設計のくだりで作者は「やえかの衣装を考えるのが難しい」旨を述べており、間抜けな読者(私)としては「テーマが少女性なので、あまり少女趣味になりすぎないようにするのが難しいのかな」と解釈していたのだが、5巻まで読むとこうした優しさに起因する冷徹さと寛容さを併せ持つキャラクターのいでたちを考えるのはなるほど難しいだろう、と思える。
私が多弁になってしまった。
未読の方は1~5巻を読破して、現在第二期が開始された連載を追いかけて欲しい。そして、私のように毎月ハラハラドキドキしながら月末火曜零時の更新を待ちわびてもらいたい。
西崎憲『世界の果ての庭 ショート・ストーリーズ』新潮社
BFC(ブンゲイファイトクラブ)主催の著書をちゃんと読んだことがなかったので、BFC6開催前に読もうと思って手に取った。作者の文章は『八本脚の蝶』への寄稿文で読んだだけで、小説の文章は読んだことがなかったのだ。
短編集を選んだつもりだったが、短編の集成による長編だった。複数の軸がやがて収斂するのだろうと思って読んでいたら、それぞれ謎を秘めたまま物語はひとつに束ねらて終わった。謎の感触を楽しめる読後感だった。そして、予備知識ゼロで手に取ったので奥付けを見て、第14回日本ファンタジーノベル大賞作品だと知る。 個人的に2章の『寒い夏』が何から何まで満点で、描かれた光景が目に焼きついている。
こうしたことをTwitterに書いたが、この印象はいまでも変わらない。この後、『寒い夏』は書き写している。
西崎憲『飛行士と東京の雨の森』筑摩書房
本の概要を調べず作者とタイトルだけで選んだため、『世界の果ての庭』とは逆に長編だと思って読んでみたら短編集だったという事態に遭遇している。
この本の感想もTwitterに書き込んでいるのだが、次の話の予測がまったくつかない楽しさとともにページをめくっていたらしい。以下に続ける。
この本の中に『都市と郊外』という短い話が収録されているのだけど、自分が文章に対して求めている美しさがそのまま提示されていて読んでいて感嘆しきりだった。簡潔でわかりやすく読み応えのある文章が読みたい? なるほど西崎憲の『都市と郊外』を読め、と言える。
これ、あんまりでっかい声では言えないんだけど、アリスソフトの『アトラク=ナクア』や『隠れ月』などのシナリオ本文から感じた文章の美しさに通ずるんだ。これは、私が上記以外では結局見いだすことができなかった美しさなんだ。
淡々と紡がれていく言葉の連なりが時に冷たく、時に熱を帯び、こちらの手を引くように物語に引き込んでいくところがある。用いられる語彙も的確でありつつ、音韻や字面の並びまで含めた総体として美しい文章であり、西崎憲の場合はそこに男性的な力強さが添加されている(『アトラク=ナクア』『隠れ月』は女性的なしたたかさがある)。
読後感が心地良いだけではなく、一人の物書きとして非常に勉強になる読書であり、この体験をどう活かすかを頭の片隅に置くようになった。
工藤マコト『HGに恋するふたり 8』角川書店
ガンプラでつながる年の差ガールズストーリーもついに最終巻。
ガンダムのスピンオフ作品なのだけど、ガンダムネタではなくあくまでガンプラネタで盛り上がる様子を軸にして、最後まで駆け抜けた感がある。
読者はもうすっかりおじさんなので、宇宙(そら)達より神崎に感情移入しがちなのだが(だが神崎ですら少し遠く感じる)、スポットが当たっているのはじつは十代後半という年齢なのではないか、と改めて感じた。
シン(『ガンダムSEED DISTINY』の主人公)ととも引き合いに出される「全てゆだねられるほど子供でもなければ、全てを受け入れるほど大人でもない」という言葉は、この作品における十代のとらえ方であり、それはかつて十代だった神崎にも適応される。
神崎から見た宇宙達学生組がときに頼もしく感じられるのは、ガンプラの経験値による差異だけではなく、実際彼女らが頼もしい部分を持っているからだろう。
篤見唯子『スロウスタート12』芳文社
アニメから入って既刊をそろえたときは5、6巻が最新刊だったと思う。
気づけばこのシリーズも12巻を数え、我が家のきらら系コミックスの中で古株にふさわしい存在感を放っている。
11巻の記憶がいまいち曖昧だったので11巻を再読しようかとも思ったのだが、読み始めてみればどういう経緯があっていまの話があるのかは難なく思い出せた。
花名も高校浪人という経歴と自然に向き合えるようになってきて、そうした成長を嬉しく受け止めつつ感極まってしまう栄依子だとか、果実という同好の士を得ていよいよギャルゲーネタに遠慮が無くなってきたたまてだとか、気になるところ上げていけば切りがないのだが、なんと言っても今回は万年さんだろう。
今作の中で、花名以上に受験・浪人にまつわるネガティブな思いにとらわれているのが万年さんであり、なぜ彼女が浪人生活を何年も続けているのかがいよいよ明らかにされる。それは、もし花名が万年さんと出会ってなかったら・仲良くしようとしていなかったら(つまり関係を構築していなかったら)、物語の中に出て来なかったことであり、逆に言えば花名が万年さんと出会ったからこそ主題となって表れた。
step.140からはじまるエピソードは万年さんと一緒に冬を過ごす以上、避け得ないイベントであり、こうしたところにも花名の素直な心根が表れていると思う。
ところで、きらら系は単行本派なので、12巻の終わりは生殺しである。レイニー止めと言ってもいい(このネタは伝わるのだろうか)。
小野寺こころ『スクールバック4』小学館
読書メモの間が空きすぎて、4巻に追いつかれてしまった。
エピソードごとに主人公となる生徒を変えることで、高校生活を重層的に見せている本作。シリーズを通しての主人公は用務員の伏見さんなので、スポットが当たる生徒について読者は開示された全てを知っているが、伏見さんは自分が接した範囲でのことしかわからない。この構造を上手く活用するエピソード(バスケ部の話)も出てきて、内容のさらなる充実を感じた巻だった。
4巻では1巻に登場した三年生が卒業を迎えるエピソードがあり、作品そのものが第二期に入る予感を覚えた。
門田充宏『記憶翻訳者 あなたに遺す物語』KDP
待ちかねた『記憶翻訳者』シリーズの最新刊。
……だったのだが、結局読んだのは10月も後半になった頃だった(つまりつい先日)。
残念ながら、今作に関してはあまりポジティブな感想が語れない。
現実との地続き感がありながら独自に設計されたSF世界は変わらず魅力的なのだが、今回に限って言うならば九龍以外の背景を感じることができず、世界の広がりが感じられなかった。
九龍という会社とその周囲にスポットを当て、存在するであろうその先の世界を匂わせる、ということが既刊では成されていたと思うのだが、今作ではその先の広がりがいまひとつ弱かったように思える。
また、これは門田作品に共通する特徴なのだが、主人公と主人公の側に立つ人間が善人すぎるのが、マイナス面に作用しているように思えた。
人物造形としてはいいと思うのだが、主人公達がいい人過ぎるゆえに容赦のない悪意を向けられたにもかかわらず、それを徹底的に叩くといった方向には進まない。静かにやるべきことを淡々とこなす印象がある。その結果、悪意が描かれる過程における読者が受けるストレスに対して、その発散・解消には不十分になってしまっており、私は若干のフラストレーションを感じた。
キャラクターの行動としてはこれが正解であると思うので、結末に至る展開の中で読者のフラストレーション解消を狙うか、地の文で決着後の顛末を語るなどして悪意を描いた分の帳尻を合わせたほうが良いと思った。
悪意についてはかなりねっちり描かれているため、ここから読者が感じる不快感に対して、なんらかの方法で快感を与えるべきなのだがそれが足りていないのである。
細かいことを言えば、各エピソードの前に挟まれる記録は司書AIのものなのだが、AIであるという点を伏せていたことが完全に逆効果であったと思う。とくに昨今、生成AIが話題に上るようになってから、AIという言葉の印象が大きく変わってしまった。私としてはSF作品でAIという言葉を用いるのにためらいを感じる程度にまで達しており、ロボット(AIが搭載されている機体を指す)やコンピュータと書いたほうがいいケースも出てきたと感じている。
この作品を読んで気づいたのだが、叙述トリック的にAIをあたかも人間であるかのように描くやり方に対して、相応の理由や作劇上必要な意図が見られない場合、強い反感を覚えるようになっている。AIが最初の時点で自らをAIと述べないのはAIにとて自明であるから、というのでは理由として弱いと感じた。
私自身この作品は好きなのだが、今作については東京創元社から発刊された既刊と比べるとどうしても一枚落ちると言わざる得ない。
博『明日ちゃんのセーラー服14』集英社
『明日ちゃん』も14巻を数え、いよいよ文化祭が迫ってきた。
躍動感のある絵が多く並ぶ今作なのだが、小路が自身の内面と向き合うフェーズになっているため、動きのある絵に対して感じる印象は静的なものになっている。
絵の美しさは言うに及ばずなのだが、動きの全てを描いてしまっているところがあり、もう少し間が欲しいかな、と思うところではある。
この作品も百合に分類されると思うのだが、百合という枠にはめていいものか、という迷いもある。これは蛇森さんと戸鹿野さんを見ていて強く思うことなのだが、小路と江利花は自分達の関係を定義しかねており、いまもめまぐるしく変化し続けている関係を百合という枠に収めていいものか、と思うのだ。
読んだ本のメモ20240708
このブログの最終更新は今年の三月で、いまは七月だが、その間にも本は読んでいる。この期間に読んできた本について、いくつかメモ書きを残しておこうと思う。
- 志村貴子『青い花(1~8)』太田出版
- 日生かおる『ブルヴァール1~8』大洋図書
- つくしあきひと『メイドインアビス1~12』双葉社
- 小野寺こころ『スクールバック3』小学館
- 日本SF作家クラブ『1984年のSF』ハヤカワ文庫
- 門田充宏『ウィンズテイル・テイルズ~時不知の魔女と刻印の子』集英社文庫
- 高津マコト『アラバスターの季節3』少年画報社
- 高嶋ひろみ『あさがおと加瀬さん』新書館
- 屋久ユウキ『夜のクラゲは泳げない 1、2』ガガガ文庫
- 肋骨凹介『宙に参る4』リイド社
- 葵遼太『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』新潮文庫nex
志村貴子『青い花(1~8)』太田出版
百合というジャンルを意識して、自分がそこに属することに自覚的になったのが最近のことなので、有名タイトルをほとんど読んでいない。実際、志村貴子作品を読むのもこれが初めて。
最初から明確に同性愛を描いている作品で、それと同時に互いが同性愛者だと自覚的である場合、驚くほどあっけなく関係が進展する。そのあっけなさに戸惑い、ときに驚きながら読んでいた。
正直読んでいて、わっかんない(共感できない)ところが多々あって、これから自分は百合を書いていって大丈夫なんだろうか、と危惧を感じてしまった。
恋愛ってきらきらしたものや心地良いことばかりじゃなくて、有り体に言えば結構気持ち悪いところがあるんだよ、ということを思い出させてくれる作品でもあって、それは感情の混じり合いでもあるというとらえ方で描かれていると思った。
読後から時間が経つにつれて、読んだという体験が生きてくるように感じている。
ただ、自分は「百合が読みたいです」と無邪気に言ってきた人には薦めないと思う。
日生かおる『ブルヴァール1~8』大洋図書
これも一気に全巻読んだパターン。
XのTLでトヨタMR2の話題が上がったおりに、相互フォロワーさんがこの作品を上げていた。九〇年代頃の流行りの絵柄は好みと合致していて、当時たどり着けなかった作品だったんだと思う。
少し百合っぽい雰囲気はあるのだけど、女の子同士より女の子と愛車のつながりが前面に出ているので、明確な同性愛者が出てきているにもかかわらずあんまり百合っぽくない。
じつは、サザエさん時空物に対して非常に強い忌避感があったのだが、この作品を読んでからそれがかなり薄れていることに気がついた。
つくしあきひと『メイドインアビス1~12』双葉社
漫画ばっかり読んでいるな。
Kindleのセールで全巻一気に購入したものの、しばらく積んでしまっていた。
じつは肉体的に痛い描写が結構苦手で、それを理由にアニメを全て見ているにもかかわらず原作に触れてこなかったので読むことにした。
3巻までは飛び飛びに読んでいたのだが、4巻以降加速がかかって6~12巻に至っては一日の内に一気読みしていた。
小野寺こころ『スクールバック3』小学館
いまを生きる高校生達の横顔を用務員さんの目を通して見ていく青春群像劇3巻。
主人公を固定せず、エピソードごとにスポットを当てるキャラを変えて、そこにある物語を描いていく。このやりかたは『めくり、めくる』と同じだが、『スクールバックはそうした高校生達を見守る用務員さんの存在があるので、そこにある人間関係や出来事が客観視されるのがいいと思う。
次巻が楽しみなシリーズであり、これからも応援していきたい。
日本SF作家クラブ『1984年のSF』ハヤカワ文庫
仮想、社会、認知、環境、記憶、宇宙、火星、の七つのサブテーマに対して、23作品の作品が書かれている短編集。おそらく、一編が一万字程度の尺なので、さなコン(日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト)のおもむきが非常に強い。
さなコンをプロ作家のみでやる、みたいな印象があった。
バリエーション豊富だし、一作がそんなに長くないで隙間時間に読んでいくのにちょうど良かった。
門田充宏『ウィンズテイル・テイルズ~時不知の魔女と刻印の子』集英社文庫
少年少女の邂逅、認知と記憶にまつわるエピソードが鍵となり、犬が道を切り開くファンタジック冒険活劇。話が進めば進むほど、ここはこうなると思うけど、どうなるんだ? と思いながらページをめくっていた。
読者がひねくれているせいで、若干お行儀が良すぎるように感じてしまったところもあるのだけど、まっすぐ素直に育った子だからこそ進める道はあるとも思う。王道を地道に一歩ずつ進むストーリーが今後どう展開するのか。今月後半に発売される続巻が楽しみ。
解説で作者のインタビューを引いて、宮崎駿監督作品が引き合いに出されていたが、それはそうと思いつつも、読んでいて同系統だなと思ったのは『地球外少年少女』や『電脳コイル』などの磯光雄監督作品だった。あと、リンディはバナージ(ガンダムUC)を思い出させるところがある。
続巻の『ウィンズテイル・テイルズ 封印の繭と運命の標』はすでに買ってあるのだけど、なかなかファンタジーを読む気分になれなくて後回しになっている。大好きな作家の作品ですらこれなのだから、ファンタジーからだいぶ心が離れてしまったな。
高津マコト『アラバスターの季節3』少年画報社
3巻完結。少し物語を巻いた形跡はあるものの、無理なくまとまっていて最後まで勢いは衰えなかった。
高嶋ひろみ『あさがおと加瀬さん』新書館
綾奈ゆにこさんが「百合については加瀬さんシリーズを全部読んでおけばひとまず大丈夫」みたいなことを書いていたらしいので、手に取ってみた。
少女漫画のテンプレで、女の子同士の恋愛を描いている感じかな。わりとあっさり恋に落ちて、わりとあっさり付き合うので、もっと段階を踏むと思っていた自分は若干肩透かしを食らった。
いまのところプラトニックが関係が維持されているのと、かなりライトに読めることもあってちょっと物足りなさを感じている。
しかしこれは、私の百合漫画の入り口が『少女セクト』であったことが大きい。
屋久ユウキ『夜のクラゲは泳げない 1、2』ガガガ文庫
ヨルクラは、前期のアニメの中で最も刺さった作品になった。
その小説版を読んでみた。
アニメを全話見た状態で読んでいるので、読んでいて該当シーンが脳裏に浮かぶのだけど、描いているシーンは同じなのに言葉の間合いがちゃんと小説のもので描かれているので読みやすく、言葉がすっと入ってくる。
とくに心情描写と情景描写のバランスが絶妙で、こちらがすでにアニメを見ていることを指し引いても、映像が見える文章になっているのでアニメが好きな物書きは読んだほうがいいと思う。
読んでいて、感嘆と敬意と嫉妬と羨望がごちゃまぜになって大変なことになった。
あとこの小説、この小説、かなり大胆に視点変更を多用するのだけど、それによるわずらわしさをあまり感じないね。
肋骨凹介『宙に参る4』リイド社
発売日に買っていたのに、本棚にさしたまま放置してしまっていた。だから読んだのはつい最近。
過去編が多く含まれる巻であり、いまソラ達がいる世界の基板が見え隠れする。
この作品、SF者の心をくすぐるのが非常に上手くて、読んでいるとSFを書こうかなという気を起こさせる。
この作者が仕込んだ最もにくい設定は、AI(リンジン)にも寿命がある、ということだろう。
SFに関しては、公募がひとつとアンソロジー企画があって、双方の締切が近いのでそろそろスケジュールが干渉しないよう調整せねばならないところ。
葵遼太『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』新潮文庫nex
本屋に行って大体買う本を決めて別の書架を眺めていたとき、入ってきたタイトルがこれだった。なんだかんだ言ってもインパクトのあるタイトルは目を引く。
プロローグで「余命ものだな」とわかる仕様なのだけど、前半はそれ臭さがなくてそれぞれに生きにくさを抱える個性的な男女の姿が鮮烈に描かれていて、キャラクターに強い魅力を感じる。とくに白波瀬と藤田は二強で、どちらも違った我の強さを持っていて、それは最後まで物語を牽引していたと思う。こいつらが見たいから読んでいたのは多分にあった。
青春のみずみずしさ、鬱屈したところ、生きにくさ、息苦しさ、そしてそれらに対する反抗心(負けん気)などとロック(音楽)、バンド結成のからめ方はあざやかだったし、明確に馴染めないクラスに屈しない負けん気を根っこに置きながらとげどげ敷くならないところはよかった。
前半部分はそういった青春の光と影を描きつつ、主人公が裡に秘める痛みをにじませていたバランスが絶妙で、このあやういバランスが強い吸引力となって、先へ先へ読ませる力を放っていた。
しかし、中盤頃でなくなった元恋人の存在がフューチャーされてくると、余命ものらしさが増してきて、生者の物語が死者に飲まれてしまう(しかも死因は明らかにされていないため「で、なんの病気?」みたいな引っかかりがつきまとう)。これが余命ものを話に組み込んだために現れたテンプレ的展開のように思えて、冷めてしまった。
それから中盤以降判明するが、この小説にはいわゆる嫌な奴が最後の教師陣くらいしかしない。主人公達の反抗でさえ協力者が出てきて、それが反抗ですらなかったことが判明してしまう。いや、それは良いのだが、主人公達が望む方向に進むのに対して困難に直面しても、必ずお助けキャラが出てくるのである。そのため、主人公達が問題解決のために、気弱な子が勇気を振り絞ってなにかをするとか(まったくなにもしないわけではない)、抵抗の結果どうしても妥協せざるを得ないということはない。大抵は待つだけで全て手に入れてしまう。灰被りか。
結果、物語はお膳立て通りに綺麗に終わり、最初に感じさせられた生きづらさだとか鬱屈だとか葛藤でさえも薄れて消えてしまう。苦味が欲しいところなのに苦味がない。むしろ甘々で終わってしまうのが実に惜しいと思った。
仕組みとしては死んだ元恋人の存在が強く現れるところがいわゆる泣きどころなのだろうけれど、私はそこで冷めてしまって楽しむことができなくなってしまった。
もしかしたら、余命もの(死亡確定ロマンス)の話の構造そのものが好きではないのかもしれない。
以上、3月から7月の間に読んだ本についての感想メモをまとめてみた。
もう少しマメにやった方が良いのかもしれない。
藤原伊織を読む
他人の本棚を見る機会がなくなっても、他人の本棚に触れる機会は作れる。
「あなたの好きな作家は誰ですか?」
そう問えばいいのだ。相手が自分と同じ物書きであるならば、アレンジを加えて「影響を受けた作家は誰ですか?」とやや内側に踏み込んだ質問にしてみるのもいい。いずれにしても話しているうちに、自分が能動的には絶対に手に取らないであろう作家の名前が出てくる。
これは私が不勉強であるゆえなのかもしれないが、こういう話をすると「名前は知っているけれど良く知らない」あるいは「名前すら知らない」作家の名前と邂逅することが多い。
そうしたときに取る対処は、最終的に三つで、「調べてすぐ読んでみる」「調べていつか読もうと検討する(棚上げ)」「調べるだけ」の三つになる。「調べもしない」という選択肢はない。
藤原伊織は今年の1月に知人と交わした会話に出てきた作家で、「あれ、誰だったっけこの人?」くらいのひどく雑な認識のまま、問い返してしまったのだ。そこから話しを進めて著書の個人的なおすすめを聞き、読むことにした。Kindleで電子書籍を……と思ったが、肝心の著者が他界されているので遠慮することなく古本チェーンと図書館を駆使することにした。
この時勧められたのは『名残り火』『シリウスの道』『ダックスフントのワープ』だったのだが、後日近所のブックオフを覗いてみたら『テロリストのパラソル』を見付けたのでこれを購って読むことにした。
直木賞受賞作。
そういえば、2000年代初頭に少し話題に上ったような記憶があるのだが、あれはなにがきっかけだったのだろう。うっすらとした記憶では雑誌『ファウスト』方面から話題にした作家がいたからだったように思うのだが、思い出せない。
おっさん向けというにおいがすごいですよ、とは忠告されていたものの『テロパラ』ではそれほど気にならなかった。
巻末の解説でも取り上げられていたが、基礎的な文章力が高く、非常に読みやすい。主人公の行動がねばっこいのに文章はちっともねばっこくない。さらりと読める。ミステリー仕立てではあるが、ハードボイルドの色が濃く、ニヒルでキザでええかっこしいである。
読みはじめた頃ホットドッグが食べたくなり、読み終えてもやはりホットドッグが食べたいと思うので、「食事シーンは美味そうに書け」という大昔受けたアドバイスはやはり正しかったのだと確認したりもした(ベストセラーに対するひでぇ感想)
学生運動が物語に背景に出てくるのは、作者の経歴と生年からすれば当然のことで、私は学生運動全般にネガティブな感情しか抱いていないため警戒したが、主人公の島村は——ひょっとしたら筆者も——同世代の当時の行動を恥じているようだった。
ともあれこの時、著作を時系列でなるべく全部読んでみようと思った。
直木賞以後の長編2作目。
主人公は『テロパラ』より輪を掛けてダメ人間っぽさが増したが、行動の動機が『テロパラ』よりわかりやすく(納得しやすいという意味で)なっており、事前知識を逐一レクチャーしてくれるため『テロパラ』より読みやすい面もあるかもしれない。
作者の絵画に関する関心の強さがうかがえる作品でもあり、これは『雪が降る』や『ダナエ』などに収録されている短編でもちらほら顔を覗かせている。
「人間を動かす要素になにがあるか。きみは、それを知っているだろうか」
「知りませんね。
「私が知るかぎり、およそみっつある。カネ、権力、それに加えて、美だ」——藤原伊織『ひまわりの祝祭』
この部分を読んで『果てしなく青い、この空の下で』を思い出した。つまるところ、私のバックグラウンドはそちらに広がっているのだ。
『テロパラ』の頃に感じられた切れ味も健在だった。
いったん時代を遡行してデビュー作を読む。
読んでいるうちに村上春樹の初期作や軒上泊のアマチュアオプシリーズの影がちらついていたのだが、それもそのはずこの三人の作家は一歳違いと歳が近いのだった。どの作家もそれぞれが舞台と定めた場所で、その時代を色濃く投射した物語を描写していたのだから。
※藤原伊織、軒上泊:1948年生まれ。村上春樹:1949年生まれ。
そうした意味で田中康夫の『クリスタルな日々』は、読んでおいてよかったな、と思えた。
私は80年代のバブル期に書かれた作品のうち、あの時代の豊かさを当たり前のこととして描いている作品が好きなのだ。それは過去も現在も私にはできない体験であると同時に、バブルと呼ばれた時代にわずかながらも知っている世代であるため「あの時代を大人として過ごしてみたかった」という幼稚な願望があるからなのかもしれない。
ダックスフントの寓話がやや冗長に感じる部分もあるが、最後の最後で希望をちらつかせてそれを圧倒的な現実で断ち切る手管にはうなった。希望の芽を見出したかと思うと圧倒的な絶望感が横たわる。そういう話の構造があった。
ここくらいから少しトーンが変わり始める。どの短編も非常に良くまとまっていて、バイオレンスな要素さえなければ国語の教科書にも載っていそう、とさえ思えた。やはり文章は冴えている。
割り切って仕事としてお金のために書くようになった、という印象があるのは『雪が降る』以降だと思う。
それまであった文章の読みやすさが「とても読みやすい」から「読みやすい」程度まで落ちてきたのはこの頃ではないかと思う。いっぽうで群像劇の描き方は会社組織を通しているためか格段に上がっており、特に現役サラリーマン読者には受け取りやすくなっていたと思う。
主人公の生い立ちをやや特殊な環境に置くことによって、一介のサラリーマンが事件を追う動機にしてはいたものの、正直この動機付けにはやや強引さを感じていた。
同時に明らかな読者サービスが見られるようになったのも『てのひらの闇』からで、リアリティラインぎりぎりに触れる快活なキャラクターが登場するようになって、ドラマに花を添えていたと思う。
ナミちゃんが面白いから読む、という人も一定数いたはずだ。
藤原伊織の著書で最もぶ厚かった。それもあったのか、単純にメインターゲット層と自分の乖離が限界に達したのか、若干読むのが大変だった。これが藤原伊織の文章でなければ投げていたかもしれない。
おそらく、売り上げ的にはとっくに軌道に乗っていて、売れていた時期だと思うのだが、そのためなのか『テロパラ』の頃に感じられた切れ味がほとんど無くなっていた。
そして、そのボリュームに対して大きな空虚さが読後感として残る。
締めに入る前にこれも名を結構聞いた気がするので、読むことにした。
『ダナエ』。導入がややもっさりとしていて正直かったるかったのだが、少女が出てくるところに限って精彩が宿っていた。『ダックスフントのワープ』でわずかにかいま見られたような若者のみずみずしさ。そういうのをまだ書けるんじゃないのかな、と思わされた。
積み上げていた藤原伊織の著作を全て読み終えた。最後の『名残り火』は28節あたりからかな、それまでの単行本用にならされた文章から作者の素の言葉遣いが見えた気がした。改稿が完了していなかったのかな、と思いつつ本を閉じた。
この人、いま生きてたらどんな作品書いてたんだろ。
藤原伊織。著書の後期に進むに従って切れ味が落ちていくように感じるのは、登場人物の(あと読者の)加齢に合わせて落としているのか、実際に落ちているのかわからないのだよね。腕の立つ人だから。
著作の中では『ダックスフントのワープ』が好きかな。人に勧めるなら『テロリストのパラソル』か『てのひらの闇』だな。
今回、藤原伊織を読んでいて「よかったな」と思ったのは、過去に村上春樹と軒上泊を読んでいたことだった。これによって、作品の輪郭がよりつかめたと思う。こういうことがあるので、読書は自分だけのアンテナでやらない方がいいのだろう。
いましばらく読む本はあるので口にする気はないが、また機会があったら誰かに聞いてみたい。
「貴方の好きな作家は誰ですか?」
と。


































