藤原伊織を読む

 他人の本棚を見る機会がなくなっても、他人の本棚に触れる機会は作れる。

「あなたの好きな作家は誰ですか?」

 そう問えばいいのだ。相手が自分と同じ物書きであるならば、アレンジを加えて「影響を受けた作家は誰ですか?」とやや内側に踏み込んだ質問にしてみるのもいい。いずれにしても話しているうちに、自分が能動的には絶対に手に取らないであろう作家の名前が出てくる。

 これは私が不勉強であるゆえなのかもしれないが、こういう話をすると「名前は知っているけれど良く知らない」あるいは「名前すら知らない」作家の名前と邂逅することが多い。

 そうしたときに取る対処は、最終的に三つで、「調べてすぐ読んでみる」「調べていつか読もうと検討する(棚上げ)」「調べるだけ」の三つになる。「調べもしない」という選択肢はない。

 

 藤原伊織は今年の1月に知人と交わした会話に出てきた作家で、「あれ、誰だったっけこの人?」くらいのひどく雑な認識のまま、問い返してしまったのだ。そこから話しを進めて著書の個人的なおすすめを聞き、読むことにした。Kindle電子書籍を……と思ったが、肝心の著者が他界されているので遠慮することなく古本チェーンと図書館を駆使することにした。

 この時勧められたのは『名残り火』『シリウスの道』『ダックスフントのワープ』だったのだが、後日近所のブックオフを覗いてみたら『テロリストのパラソル』を見付けたのでこれを購って読むことにした。

 

 直木賞受賞作。

 そういえば、2000年代初頭に少し話題に上ったような記憶があるのだが、あれはなにがきっかけだったのだろう。うっすらとした記憶では雑誌『ファウスト』方面から話題にした作家がいたからだったように思うのだが、思い出せない。

 おっさん向けというにおいがすごいですよ、とは忠告されていたものの『テロパラ』ではそれほど気にならなかった。

 巻末の解説でも取り上げられていたが、基礎的な文章力が高く、非常に読みやすい。主人公の行動がねばっこいのに文章はちっともねばっこくない。さらりと読める。ミステリー仕立てではあるが、ハードボイルドの色が濃く、ニヒルでキザでええかっこしいである。

 読みはじめた頃ホットドッグが食べたくなり、読み終えてもやはりホットドッグが食べたいと思うので、「食事シーンは美味そうに書け」という大昔受けたアドバイスはやはり正しかったのだと確認したりもした(ベストセラーに対するひでぇ感想)

 学生運動が物語に背景に出てくるのは、作者の経歴と生年からすれば当然のことで、私は学生運動全般にネガティブな感情しか抱いていないため警戒したが、主人公の島村は——ひょっとしたら筆者も——同世代の当時の行動を恥じているようだった。

 ともあれこの時、著作を時系列でなるべく全部読んでみようと思った。

 

 

 直木賞以後の長編2作目。

 主人公は『テロパラ』より輪を掛けてダメ人間っぽさが増したが、行動の動機が『テロパラ』よりわかりやすく(納得しやすいという意味で)なっており、事前知識を逐一レクチャーしてくれるため『テロパラ』より読みやすい面もあるかもしれない。

 

 作者の絵画に関する関心の強さがうかがえる作品でもあり、これは『雪が降る』や『ダナエ』などに収録されている短編でもちらほら顔を覗かせている。

「人間を動かす要素になにがあるか。きみは、それを知っているだろうか」
「知りませんね。
「私が知るかぎり、およそみっつある。カネ、権力、それに加えて、美だ」

    ——藤原伊織『ひまわりの祝祭』

 

 この部分を読んで『果てしなく青い、この空の下で』を思い出した。つまるところ、私のバックグラウンドはそちらに広がっているのだ。

  『テロパラ』の頃に感じられた切れ味も健在だった。

 

 いったん時代を遡行してデビュー作を読む。

 読んでいるうちに村上春樹の初期作や軒上泊のアマチュアオプシリーズの影がちらついていたのだが、それもそのはずこの三人の作家は一歳違いと歳が近いのだった。どの作家もそれぞれが舞台と定めた場所で、その時代を色濃く投射した物語を描写していたのだから。

藤原伊織、軒上泊:1948年生まれ。村上春樹:1949年生まれ。

 

 そうした意味で田中康夫の『クリスタルな日々』は、読んでおいてよかったな、と思えた。

 私は80年代のバブル期に書かれた作品のうち、あの時代の豊かさを当たり前のこととして描いている作品が好きなのだ。それは過去も現在も私にはできない体験であると同時に、バブルと呼ばれた時代にわずかながらも知っている世代であるため「あの時代を大人として過ごしてみたかった」という幼稚な願望があるからなのかもしれない。

 ダックスフントの寓話がやや冗長に感じる部分もあるが、最後の最後で希望をちらつかせてそれを圧倒的な現実で断ち切る手管にはうなった。希望の芽を見出したかと思うと圧倒的な絶望感が横たわる。そういう話の構造があった。

 

 

  ここくらいから少しトーンが変わり始める。どの短編も非常に良くまとまっていて、バイオレンスな要素さえなければ国語の教科書にも載っていそう、とさえ思えた。やはり文章は冴えている。

 割り切って仕事としてお金のために書くようになった、という印象があるのは『雪が降る』以降だと思う。

 

 

 それまであった文章の読みやすさが「とても読みやすい」から「読みやすい」程度まで落ちてきたのはこの頃ではないかと思う。いっぽうで群像劇の描き方は会社組織を通しているためか格段に上がっており、特に現役サラリーマン読者には受け取りやすくなっていたと思う。

 主人公の生い立ちをやや特殊な環境に置くことによって、一介のサラリーマンが事件を追う動機にしてはいたものの、正直この動機付けにはやや強引さを感じていた。

 同時に明らかな読者サービスが見られるようになったのも『てのひらの闇』からで、リアリティラインぎりぎりに触れる快活なキャラクターが登場するようになって、ドラマに花を添えていたと思う。

 ナミちゃんが面白いから読む、という人も一定数いたはずだ。

 

 

 

 藤原伊織の著書で最もぶ厚かった。それもあったのか、単純にメインターゲット層と自分の乖離が限界に達したのか、若干読むのが大変だった。これが藤原伊織の文章でなければ投げていたかもしれない。

 おそらく、売り上げ的にはとっくに軌道に乗っていて、売れていた時期だと思うのだが、そのためなのか『テロパラ』の頃に感じられた切れ味がほとんど無くなっていた。

 そして、そのボリュームに対して大きな空虚さが読後感として残る。

 

 

 

  締めに入る前にこれも名を結構聞いた気がするので、読むことにした。

 『ダナエ』。導入がややもっさりとしていて正直かったるかったのだが、少女が出てくるところに限って精彩が宿っていた。『ダックスフントのワープ』でわずかにかいま見られたような若者のみずみずしさ。そういうのをまだ書けるんじゃないのかな、と思わされた。

 

 

 積み上げていた藤原伊織の著作を全て読み終えた。最後の『名残り火』は28節あたりからかな、それまでの単行本用にならされた文章から作者の素の言葉遣いが見えた気がした。改稿が完了していなかったのかな、と思いつつ本を閉じた。

 この人、いま生きてたらどんな作品書いてたんだろ。

 

 藤原伊織。著書の後期に進むに従って切れ味が落ちていくように感じるのは、登場人物の(あと読者の)加齢に合わせて落としているのか、実際に落ちているのかわからないのだよね。腕の立つ人だから。

 

 著作の中では『ダックスフントのワープ』が好きかな。人に勧めるなら『テロリストのパラソル』か『てのひらの闇』だな。

 

  今回、藤原伊織を読んでいて「よかったな」と思ったのは、過去に村上春樹と軒上泊を読んでいたことだった。これによって、作品の輪郭がよりつかめたと思う。こういうことがあるので、読書は自分だけのアンテナでやらない方がいいのだろう。

 いましばらく読む本はあるので口にする気はないが、また機会があったら誰かに聞いてみたい。

 

「貴方の好きな作家は誰ですか?」

 

 と。