- 作者: 樺山三英
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2007/05
- メディア: 単行本
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けれど、SFはスペースオペラでもなければ、サイバーパンクでもなく、それら全てを内包したサイエンスなフィクションなのだから、空想を科学する、科学を空想する、という思考から行けばありなのかも知れない。
1968年五月三日、日本人青年医師にルソーの魂が降臨した。彼は『エミール』に抱えれた理想を体現するため、理想の子どもを育てることを決意した。島を買い取り、孤児院を作った。孤児院の子ども達は、世界を救済するための救い主を生み出すための実験体だったのだ。
その中で、特別なぼくとアンジェは、物事の秩序が混沌とした複数の物語世界へと呑み込まれていくことになる。
自分は、ぼくとアンジェはじつは感覚共有している部分があって、二人の思考や記憶、あと外から植え付けられた妄想が交錯しつつ、かつ現在進行している部分が混じり合い、一つの物語になっているんだと思った。
だから、色々な場面や場合によっては結末が描かれ、ときには途中で放置されて、物語は進んでいくのだけれど、この物語の中で本当の意味で放置されているのは、物語における現実そのものなんじゃないかなー。
とくに、ぼくとアンジェ以外の現実がそうで、二人があの部屋から逃げ出したあとJJが、どうなったのか、そこから最後のシーンまで一体どれ程の時間が経過しているのかって、読者には解りようがない。
まあその辺はどうでもいいや。
この作品のポイントは、まだるっこしくて訳のわからない話かと思ったら、ところどころに読者をぐい、と引きこむ部分があって、そのために最後まで読まされてしまうところ。
とくに、エロティシズムについてはそうで、これは官能というより禁忌を描いているといった方が良いかな。普段「やっちゃだめだよー」と言われていることをやってしまう。禁忌を犯すという昂奮を読者に伝える力がすごい。
言い方は悪いけれど、鼻先に下げられたニンジンと馬の関係。
この禁忌を犯す昂奮(ニンジン)があるから、読者(馬)は先を読んでしまう。
白状すると、自分はそうでした。
図書館でこれの選評が載っている『SFJapan』を借りてきて読んでみたけれど、おおすじで納得できる意見が飛び交っていた。
あとは、樺山三英のコメントトと同氏の短編『跋』を読んだ。あとがきみたいな感じだなあ、と思っていたら受賞コメントにまさにそのようなことが書いてあった。ははは。