助言者

 

 これを書いたとき「助言者」というキーワードが出てきたのは、何気にそういう本を結構読んできたからなのかもしれない。

 迷える主人公に対して助言者となる存在が出てきて、同時にキーパーソンにもなる話の代表格は、『かもめのジョナサン』だろう。そうした助言者が、実は自身に内在するものあるいは自分自身であるとする作品もあり、バックは『イリュージョン』でそれを示唆していた。

 
かもめのジョナサン 完成版 (新潮文庫)

かもめのジョナサン 完成版 (新潮文庫)

 
イリュージョン (集英社文庫)

イリュージョン (集英社文庫)

 

 ここから自分と世界の関わり方について掘り下げていくと、 スピリチュアルな方向に進んでいくのはあちらの人間にとって「神」とか「救世主」といった見立てを用いず語ろうとすると、古代から連綿と受け継がれてきた信仰対象とは異なる神秘に至るからなのかもしれない。
 『アルケミスト』、『聖なる予言』などがこれに該当すると思う。

アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)

アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)

 
聖なる予言 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

聖なる予言 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

  関連商品で『星の王子さま』が出てきたのでついでに貼っておくけど、この作品もまあそうかもしれない。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 こうしていくつか挙げたところで、それっぽい和書が出てこないのは、私の勉強不足をさて置けば、日本列島が元来多神教の風土だからだろう。信徒ではない限りキリスト教観に基づく神の感覚は合わないと思う。
 たとえば、ニーチェを引き合いに出すとき、生活風俗と技術産業の比較を添えないと話がわかりにくいのもたぶんそれが原因ではないだろうか(そういう小説がある)。作者は説得力を持たせたようでも、読者には衒学的で胡乱な話にしか思えない。衒学的になるのを狙って書いているだろう西尾維新のような作者は例外だけども。

 あ、天沢退二郎の著書は助言者こそ出てこないものの、ちょっとそれっぽいところはあるかも。 

詩はどこに住んでいるか

詩はどこに住んでいるか

 

 これとか。

 

意見は変わるものだから、不用意な否定や批判はしない。

 ここ数年くらいの私のスタンスです。
 数年? いやいや、10年くらいは続けられているかもしれません。おお、すごいぞ私! えらいぞ私! この調子で続けていきましょう。

 というのもですね。

 「最近、○○の良さに気づいて」
 「君、前は全然興味を示さなかったじゃないか?」
 「いやまあ……」

 といった自分への反省がきっかけだったのですが、

 「前に言っていた事と違うじゃないですか」
 「意見は変わるものだから」
 「それなら、不用意な批判はせず黙っていればいいじゃないですか」


 と相手に返したとき、自分の言葉にはっとしたからです。


 意見は変わるもの。

 然りであります。
 自分自身の捉え方の変化もありますが、先入観や他者の評から悪印象を抱いてしまって、実際に触れる前に見解を持ってしまうことなどは往々にしてある事です。


 沈黙を許されない立場にあるなら、その時なりの意見を述べなくてはならないでしょうし、意見が変わった場合はそれを述べた上で「なぜ意見を変えたのか」と説明というか弁明をしなければならないでしょう。


 ですが、そういう立場になることは稀だと思います。


 だからこそ、「その件に関しましては持ち帰って検討し、後日述べさせて頂きます」という対応が出てくるわけです。本来、この言葉は逃げ口上ではないと思うのですよね。さらに噛み砕いて言えば、「あー、そりゃ知りませんわ。帰ってから確かめておきますんで、次のときで良いですか?」という意味です。


 話が少し逸れました。
 意見は変わるものだからその時思った事を言えば良い。というスタンスもあるのですが、私はこれに関しては大いに疑問があります。
 というのも、それって一貫性がないではないか……と思うからです。
 んまあ、気心の知れた相手と口頭でやり取りする上なら、それでも良いとは思いますよ。


 「やや、前と言っている事が違うではないか」
 「この度、宗旨替え致し候」
 「然様で御座ったか。して、切欠は?」
 「それは、がくかくしかじかで……」


 こんな風に会話が発展するからです。会わない間にどんなことがあったのか自然に聞けるので一石二鳥でもあると思います。言い訳がましいですがね。
 よくやりました。


 しかして、気軽に手前の意見を述べる事ができる昨今、自分は独り言のつもりで言った(書いた)のに、これを不快だとして見も知らぬ他人が異論を吹っかけてくることがある、という事例を良く見ます。
 聞きます、ではなく見ます。
 ネット上では、発言が文章として残るからです。
 その場限りの言葉として言い捨てたくとも、ログとして残る限り言い捨てられないのですから。


 ぶっちゃけ、見知らぬ他人であろうが知人友人であろうが、むっとしてもスルーすりゃいいと思うのですがね。
 本人に質してみないと真意がわからないこともあるのですから。


 そうした事も含めて「意見は変わるものだから、不用意に否定や批判はしない」というスタンスを取っています。
 手前の発言から攻撃性を抑える、棘を抜く、といった意図もありますが、先に書いたように一貫性のない人間→自分の都合で言うことをころころ変える人間→言っている事がまったくアテにならない人間、と捉えられるかもしれないからです。


 まわりを気にしすぎ?
 慎重で結構?
 いずれにせよ、損はしません。


 それに「意見が変わる」というのは、「A=Bだと思っていたが、実はA≒A’という見方もできると気づいて、これまでの意見を変えた」といったことを指すと思うからです。
 ああ、よかった。振り出しに戻った。
 うっかり思いつきで文章を書き始めると、筆が乗りやすい反面で着地点が見えなくなる危険があります。
 まとめたつもりでも、ちゃんと論旨が明確になっているかが極めて不安です。
 こんな風に。


 ところで、最近ロンドンに展示保存されている軽巡洋艦ベルファストのことを調べようとして、とりあえず「軽巡洋艦 ベルファスト」で検索したらメイドさんの絵(『アズールレーン』のベルファスト)が出てきて「君のことだけど君じゃない」というコレジャナイロボ感を味わいました。
 そっちのデザインも好きですが、個人的にはもう少し控えめの方が好みです。

 

 

リアクションみたいな記事を書いてみる

 ひさしぶりに面倒くさい事を考えている秋山くんを見た気がした。

 というのは、彼は結構こういう文章を書いているからです。そもそも蒼桐が秋山真琴を見つけたのは、はてなダイアリー時代の「思考」とかなんかそんなカテゴリーで投稿していた長文を読んで気になったからです。
 当時の自分は読むことにも書くことにも貪欲で、ついでに不遜極まりない小僧だったので「毎日毎日これほどの長文を投稿するのはどんなヤツなのだろう?」と興味を抱いたのでした。
 なお、いまでも不遜なあるいは傲慢な面は持っていると思いますが、少なくとも「そういうところが自分にはあるので気をつけよう」と意識してはいます。行き届いていなかったらごめんなさい。


 過去の話はこれくらいにしましょう。
 最近ご無沙汰なのですが、なんのかんので秋山くんとの縁は結構長く続いています。表に出る機会が重ならないだけで、そこに関係性が生まれれば機会は巡ってくるでしょう。大雑把にもほどがあるとは思いますが、それくらいがちょうど良いと最近思えるようになりました。
 他者との距離は、無理に詰めようとすると大抵はろくな事にならない、ということを身を以て知ったからです。
 いっぽうで、いつなにが起きるかわからないので、機会を見つけたならどんどん活かして行こうとも思っています。
 それが、自分にとっての「悔いを残さない選択のやりかた」なのではないかな、と。

 リンク先の記事を見ての通り、秋山真琴という人間は行動に際して計画的なのですが、結構思いつきで動く行き当たりばったりな面があります。行き当たりばったりでも支障が無いように計画を立てる人間、とも言えるかもしれません。
 実際、彼と関わって計画通りにいかなくとも結果が伴わなかったことはないし、結果が目算から外れても不満足だったことはないです。
 その結果に満足できるかできないか、言い換えれば自分が納得できるかできないかは私のとって非常に重要で、何を以て結果を成果と見定めるかの判断基準が常に自分に在るような気がします(傲慢ですね)。もちろん、依頼者など相手が存在する場合は別にして。

 記事を読んでいて、蒼桐大紀と秋山真琴の接点となっているのは「自分と他人や世界との関係性」に注視している事じゃないかなと思いました。当時、『山吹色外典』の校正を蒼桐に依頼したのは、この接点の共通性に気づいていたのかな、とも。
 結構、言葉の使い方の間違いや言い回しが変だったりして、もとの文章に干渉するぎりぎりまで突っ込みました。文語も結構多かったので、本棚から『広辞林(広辞苑の御先祖様)』を引っ張り出して対応する言葉を探したこともありますね。ちなみに、いまでもこういうケースはあるので、紙の辞書はなるべく保持してあります。

 

山吹色外典 (回廊文庫)

山吹色外典 (回廊文庫)

 
山吹色外典

山吹色外典

 

 
 それはさておき、本人が自信作というように関わった他者からしても、自信を持ってオススメできる短編集です。
 読みやすい、と感じた人がいたら私はこっそりにやにやします。

 人生百年ですかあ……。
 それくらいの気構えでいた方が良いのかもしれませんね。
 というわけで、自分のペースでゆるゆると生きていきます。

 

 ……ぶっちゃけ、そうとでも書いておかないとすぐ焦るのですよ。

 

HGBFストライカージンクス

 HGBFストライカージンクス完成しました。

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 Twitterにも書きましたが、旧日本海軍第653航空隊の零戦52型を意識してみました。ただ、部隊番号を貼ってから機体番号も貼ることにしたので、尾翼の「653-131」のようにはならず左右逆になっているのはご愛敬。

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 本体はほぼ無塗装。スミ入れをした後、プレミアムトップコート(つや消し)を全体に噴いてあります。GNスマートガンはファントムグレー。GNディスチャージャーはニュートラルグレーです。
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 最初は武器だけ塗装して、本体はスミ入れのみでトップコートを噴く気は無かったのですが、ゲート処理跡にペーパーをかけた部分が思いのほか目立ってしまったためデカールの練習も兼ねてトップコートまでやることにしました。
 デカールは全て「ガンダムデカール鉄血のオルフェンズ汎用1」です。数字とコーションマークはそのままですが、他はカットしてアレンジしています。

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  これまではロボットメカモデルにデカールを使ってこなかったため、水性トップコート(しかもプレミアム)を使うのもはじめてで、かなり苦戦しました。通常の水性トップコートはわかりませんが、プレミアムトップコートの場合、薄めに噴こうとすると粒子が散ってしまって粗が目立ち、入念に噴きすぎると白化します。
 結果、失敗しまくって、乾燥後にラッカー薄め液と水を使って布で拭き取り、やり直すこと数度。意外だったのは、この工程で脱落したデカールがほとんど無かったことです。
 失敗の原因はあまりに久しぶりだったため、私がスプレーの噴きつけ方を忘れていたのが半分、残りはプレミアムトップコートの特性上、乾燥が早く塗装中でもスプレーの噴射口を適宜拭ってやらないと、そこに乾燥したトップコートの破片がこびりつくからです。これにすぐ気づけなかったのが痛かったです。

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 この他、気になるところは多々あるのですが、修正していると切りが無くなって完成しなくなるので、ここで切り上げました。
 それから、プレミアムトップコートの特性なのか、キットの個体差なのかパーツの接合が緩い部分があって、特に右の手甲と足首の装甲板がぽろりしまくります。前者はマスキングテープを噛ませて対応してますが、後者は接着した方がいいかも……。

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 カラーリングが零戦より淡いため、陸上自衛隊10式戦車のマーキングも参考にしています。デカールは当初、あちこちに貼っていたのですが、トップコート修正の段階で脱落しました。ただ、完成してみると、これくらいのバランスで丁度良かったようです。

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 幸いあんまり目立っていませんが、合わせ目消しもやっていません。というより、イラストや設定画に沿って合わせ目を消していくと、整備はどうするんだろう? な疑問が出てくるため、ガンプラに限らず合わせ目消しは基本やらないことにしています。

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 実際、このストライカージンクスもアニメ本編とはかなり機体のラインが異なります。アニメの方は映像としての見栄え、模型の方は立体としての見栄えを優先させた感じですね。
 というわけで、模型の方はこちらの独自解釈を持ち込むことにしています。逆にその辺の差異が少ないフレームアームズなどは、工作技術が追いつく範囲で合わせています。

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 ちょっとしたこだわりとして、肩の部隊番号と機体番号が前方と後方で左右逆になるようにしてあります。これは、戦闘などで片腕が脱落した場合でも他機から認識しやすいと思ったからです。人型ならではの配慮が必要かな、と。
 あと、GNディスチャージャー背面の肉抜き穴をエポパテで埋めました。

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 よって、両肩にシールドを装備するとこうなります。機体番号のシールドを左肩に標準装備させた方が良かったかなとも思ったのですが、653の方が主張が強いので部隊番号の方を付けてあります。実際、運用する場合は機体番号を付けた方がいいでしょうね。

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 ストライカージンクスは発売時から注目していて、特にドーム型の四つ目が陣笠っぽいところに惹かれました。一応、頭部アーマーの下の顔も塗装してありますが、着脱する気が皆無のため撮影もしていません。トップコートの塗膜が干渉して、剥がれるのが嫌だというのもあります。でも、こういうところを塗るのと塗らないのでは、大きな違いだったりもします。

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 そんなわけで、最大の改造がこちら。この背面ユニット基部の肉抜きをジャンクパーツ(HGUCデルタプラスの手甲)で埋めました。頭が大きいのであんまり目立たないのですが加工の効果は絶大です。本当はプラ板を使った方がツライチ合わせができるので見栄えは良いのですが、それをやると全塗装しないといけなくなるので……。

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 成形色と似たような色を作って誤魔化してあります。個人的な感想ですが、トップコートはラッカーつや消しの方が良いかもしれません。00系は可動を強く意識しているため、塗膜によってクリアランスが厳しくなることはまずないと思います。なお、おおよそ部位ごとに分解した状態でトップコートを噴いています。キット付属のシールはセンサーアイのみ使用しています。

 上にも書きましたが、今回はトップコートの塗膜によるパーツ同士の干渉を気にしすぎて慎重にやりすぎたためか、接続が緩い部分をあります。改修したいのですが、クリアなどを塗って塗膜を作るくらいしか思いつきません。
 以前、接着剤で膜を作って軸を太らせるというやりかたを見かけて試してみたのですが、これだと接着剤の成分が表層の素材を溶かしてしまうので一時的には機能しても、最終的には逆効果なのでオススメしません。少し考えればわかることなのですが、一時的でも上手く行ってしまうと当然のことに気づけなかったりします。

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「653空、発艦、始めてください」
「よーそろー。第一飛行隊、発艦はじめ!」
みたいな(笑)

 というわけで、機体番号の由来はマリアナ沖海戦時に瑞鳳所属だった第653航空隊の零戦52型です。ハセガワのキット解説によれば、131号機は瑞鳳小隊長機(指揮官機)らしいです。これは「第653航空隊の第1飛行隊第3飛行分隊機番1の機体」のことだな、と判断しました。マリアナ沖海戦での生還機でもあります。

 なぜ指揮官機=飛行隊長機なのに第3分隊なのかというと、当時の三航戦(第三航空戦隊)の編制が1番艦千歳(戦隊旗艦)、2番艦千代田、3番艦瑞鳳だったからです。653空は基地飛行隊として編制されており、零戦の割り当てが6、6、7機だったためです。マリアナ沖海戦では、航空隊司令が千代田、飛行長が千歳、副長と飛行隊長が瑞鳳乗り組みという一見するとちぐはぐな配置になっています。
 ここでの機番というのは、機体そのものに割り当てられた番号なので、10になったらどうなるんだろう? と思ったのですが。比較的画像資料が残っているのは、マリアナ沖海戦以降なので、ハセガワの見解に手元の資料をすり合わせて131を上記のように解釈しました。
 参考にしたのは、『空母瑞鳳の生涯(桂理平著)』と当時の瑞鳳及び瑞鶴の戦闘詳報、マリアナ沖海戦後ですが当時の653空が出てくる映画『雷撃隊出動』です。本や映画はともかく、意外と一次資料が残っているので驚きました。

 

 以下、塗装部分のカラーレシピと参考文献です。塗料は全てMrカラー(クレオス)。特に付記のないものは、ラッカー塗料筆塗りです。

 ・GNスマートガン:ファントムグレー(ガンダムカラー/UG15)
 ・GNビームサーベル:エクストラシーグレー(333)
 ・GNディスチャージャー:ニュートラルグレー(スプレー)
 ・大腿部スラスター:ジャーマングレー(エナメル)
 ・スミ入れ:スミ入れブラック(エナメル)&スミ入れシャープペン
 ・頭部スリット他ブラック:セミグロスブラック(エナメル)
 ・背部ユニット肉抜き穴:グリーンFS34092(302)+ガルグレー(11)を7:3で混色
 ・デカールガンダムデカール鉄血のオルフェンズ汎用1×2
 ・全体仕上げ:水性プレミアムトップコート(つや消し)

 

空母瑞鳳の生涯―われ等かく闘えり

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雷撃隊出動 [東宝DVD名作セレクション]

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本棚にある詩集の話

 付箋だらけにした『論理哲学論考』を本棚に差し込むと、付箋が飛び出ている本が目に付いた。『寺山修司少女詩集』だった。付箋を貼るほど熱心に読んだわりには、以前いつ読んだのか思い出せない。まあ、そんなもんだよな。だから、付箋を貼ったのだろうな……などと思いつつ、なんとなく国内作家の詩集を全部引っ張り出して布団の上に放射状に並べてみた。
 六冊。あれ? こんなものか?
 ともあれ、詩集はさほど数を持っていないため、蔵書している本はなにかしら買ったきっかけがある。特に国内作家だと顕著だ。と言うより、国外作家を含めてしまうと話も思考もややこしくなるので省いている。

西条八十詩集』白凰社→作詞の試行錯誤の過程か、「蝶(そういう題の詩がある)」を知った際であろう。
『誤解 田村隆一詩集』集英社→???
寺山修司少女詩集』角川文庫→たぶん、桜庭一樹が好きだった頃であろう*1
中原中也詩集』新潮文庫→詩歌を書き始めた頃であろう。
『日本の詩歌 萩原朔太郎』中公文庫。→同上

 改めて眺めてみると、保存状態は同じなのに扱われ方が顕著に異なる。この中で最も綺麗なのは中原中也。明らかに一回読んでそれっきりという体で、実際に影響も受けていない。付箋も貼っていなければ、栞すら挟んでいない。

中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)


 付箋を辿っていって受けた影響の大きさを思い知らされたのは寺山修司であり、おそらく最も良く吸収できていた頃なのだろうなあ、とも思った。「天文学」のところに付箋が貼ってあるのは、「バーチャルスター天文学」との関連を見出したからだろうね、わかるわー。

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

寺山修司少女詩集 (角川文庫)


 萩原朔太郎は、なぜその位置に付箋を貼ったのかが一瞥してすぐにわかってしまう。中公文庫のこの本は、註が非常に細かく、ついでに活字が小さく、情報量が豊富だ。変な位置に付箋を見つけたら、ページ下に視線を移せばいい。補註の位置と合致する。

 というか、「Omegaの瞳」はどれだけ好きなんだ。付箋が貼ってあってしかも栞まで挟んであった。好きだもんな。『猫町』にしたって、折に触れて手に取ることがあるからな。


 西条八十は、折を見て再読した方がいいかなー、と思った。まだまだ自分の中に浸透しきっていない。白鳳社のこのシリーズは、版型のわりに分量が多いので、詩集としてはコストパフォーマンスが優秀だと思う。

西條八十詩集 (青春の詩集 日本篇 20)

西條八十詩集 (青春の詩集 日本篇 20)


 さて、『田村隆一詩集 誤解』だけがなぜ持っているのかわからない。1978年度版、四六判。関係の無い本の帯が挟まっていたのも覚えている。その帯を心惹かれたページに挟んだのも覚えている。

 しかし、どういうきっかけで買ったのかだけが思い出せない。

 えっと、『さよならを教えて・公式設定原画集』で石埜三千保さんが紹介していたのは、入沢康夫だったか。現代詩を薦めてきそうな人間って、他にいたっけなあ? 
 こんな事考えていたら、以前読んだ茨木のり子の詩集を思い出して、うっかり注文しようとしてしまった。思いとどまった。
 茨木のり子梨木香歩がエッセイで引用していて「え、こんな詩も書く人なの?」と驚いて、地元の図書館で二、三冊まとめて借りてきて読んだのである。ああ、これにもきっかけがあるな。
 当時もいまも買うまで踏み切れないのは、装幀を豪華にした所為で値段が高いからなのである。 そこまで好きではない、ということもあるが、収録されている量が少ないのがわかっているから思い切れない。キンドル? あれは詩歌を読むにはおそろしく不向きなツールだと思う。尾形亀之助の『色ガラスの街』がそうだった。

 一応、詩歌を書く人間からすると、改行や一行の字数、1ページ内に表示される範囲も含めて作品なので、青空文庫のように余計なことをせずアーカイブしてくれた方がまだ伝わるのである。詩人とはめんどくせえ人種なのである。ぶっちゃけ、青空文庫を許容できる(縦書き→横書き)自分はまだ良い方で、昔詩集を出すというので寄稿した際に、改行で揉めていた人がいたなあ、などと遠い目をしてしまう。だったら、作者側で版型に合わせて調節すりゃいいじゃん、と思っていたことも思い出してしまった。え、その詩集はどうしたかって? いやあ、とんと記憶に御座いませぬ。

 ここまで記憶を遡行したのに、『田村隆一詩集 誤解』はどういうきっかけで買ったのだろうか?
 思い出せない。

*1:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の頃だと思われる