オリヴァー・サックス(訳:大田直子)『心の視力』早川書房

 

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

 

視力を失う、失語症や知覚失認をわずらう……。
知覚に障害を負ったとき、脳と心はどのように対応していくのだろうか。
サックスの患者となった、楽譜を読めなくなったピアニストは、やがて文学や日常のさまざまなものを識別できなくなっていくが、音楽の助けにより穏やかな日常をいとなんでいる。脳卒中失読症になった作家は、苦労はあったもののの自らの体験をもとにしたミステリを執筆するまでになる。
そして、サックス自身、生まれつき人の顔が見わけられない「相貌失認」をわずらっていたが、さらに癌により右目の視力を失って心に豊かな視覚世界を築く人もいる。目と脳の奇妙で驚くべき働きを卓越した洞察力と患者への温かな視線で描き出した傑作医学エッセイ集。


   (カバー折り返し解説文より) 

 

おおざっぱに言って、本書のテーマは「見る」力とその欠如である。
 
   (訳者あとがきより)
 

 

 解説文にある通り、開業医(脳神経科医)であるサックス先生の一人称で、各患者の診療経過をその症例の医学的解説を交えて綴られた医療エッセイの体裁を取っている。
 特に、〈残像──日記より〉では、二〇〇五年一二月一七日~二〇〇九年一二月九日のあいだ、メラノーマ──黒色腫。腫瘍の一種。すなわち癌──が発覚してから、治療──薬ほか、レーザー照射、放射線治療──による見え方の変遷と、その時々の生々しい感情が記されている。他のどの症例よりも簡潔な文章でありながら、ガンや失明の恐怖やまだ見えることへの安堵などに共感を覚えてしまうほどだ。

 自分の身に起こったこと──自分が感じていること──を他者にわかるように言葉で伝えるのは実はかなり難しい。これは、小説の描写とは似て非なる表現であり、文章として整っている必要はなく、想像の余地は少ない方がいい。
 おそらく、医師が患者からの病状を聞く際には、そうした点に注意を払っていると思う。ときに言葉を補ったり、これまで発せられた内容から類推して合致する言葉で「こうですか?」と確認を取るのは、会話を通して病状に対する認識を一致させるためであろう。
 つまり、病状申告は患者が行うものだが、問題点をあらわにする病状把握は、患者と医師で行うものである。『心の視力』では、こうした過程がごく自然にやわらかな筆致で記されている(訳が良いこともある)。

 〈初見演奏〉、〈文士〉、〈失顔症〉、〈ステレオ・スー〉、これらはすべて異なる症例であるが、サックス先生の患者に対する真摯な向き合い方は変わらない。サックス先生が患者の訴えを聞き、ときには言葉を接いだり単語を言い換えたりして、患者に内在する病因を会話(音声会話に限らず)によりあらわにしていく様が伝わってくる。

 病状には大きく分けて、明らかに様相がわかるものと、本人の申告やあるいは医療機器──聴診器や拡大鏡といったありふれた医療器具から、レントゲンやMRIといった大がかりな機材に至るまであらゆる医療専門機器──を用いなければ、専門医であってもまったく見当が付かないものがあると思う。素人でも、隣人の顔が普段より赤ければ診断を下すことができなくとも、「熱があるのではないか?」という様子を読み取ることはできる(自分自身のみでの観察ならば、自覚症状の有無に相当する)。

 真に恐ろしいのは、本人(自覚症状がない)も周囲もまったく異常に気がつけない種類の病なのだが、話の趣旨から逸れるためこの一言を添えるに止めておく。

 先に引用した解説文にあるように、サックス先生自身が生まれつき人の顔を見わけられない〈相貌失認〉と共に生きてきた人間であり、『私はしょっちゅう医学談義に花の咲くような家庭で育った(「はじめに」より)。』ことも大きく作用しているだろう。なお、この文章は『私自身が医師になり、さらに逸話を語るようになったのは必然だったのかもしれない。』と結ばれている。

 専門的なことについては、それぞれの分野に明るい方々にゆだねるとして、私としては『心の視力』を読んで、サックス先生が極めて「聞き上手な医師」であると同時に、「話し上手な患者」だという感想を抱いた。

 本書は、脳神経科医としての知見を交え、先行研究の事例や人がものを認識する能力や発話能力、言語表現能力についてまで及ぶ興味深い論旨が展開されている。そのためか、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考(論考)』で述べた「語る」と「示す」の相違も引き気合いに出されており、私としてはつくづく『論考』を再読しておいて良かったと思わされた。

 

 ちなみに、私にサックスを薦めてくれたのはSCA自さんで、Twitterでのちょっとしたやり取りの折、「(前略)ちなみにオススメはジュリオ・トノーとかリンデンとかR・ダグラスとかダマシオとかラマチャンドランとかサックス先生も読んで欲しいですし、贅沢言えばカーネマンとかカリーリとかザルカダキスとか」というリプライを頂戴したのである。
 トノーとリンデン、ダグラスは読んだことはないものの、傾向は大体知っていたため、ダマシオ、ラマチャンドランに惹かれたのだが、前者はあちこちで「訳が悪い」と翻訳者の専門地職のなさを糾弾するレビューが散見され、後者は地元の図書館が所蔵していなかったので、「サックス先生って、オリヴァー・サックスのことかな?」と一点読みで検索してみたら、『意識の川をゆく』を見つけたのである。これが、非常に興味深かったのと、地元の図書館がサックスの本はほぼすべて所蔵していたので『心の視力』、『見てしまう人々(いまこれを読んでいる)』、『意識の川をゆく』を借りてきた。

 門田充宏さんの『風牙』を読み終えたその勢いで『追憶の杜』を買ったものの、知覚や認識といった分野の知見に、欠けている部分があるように思えて専門書を少し読んでからにしよう、とAmazonを眺め図書館を漁ってみたのである。幸いなことに、上述のように参考意見は頂戴していた。


 最近強く感じるのは、知識は自分の中で体系化していかないと全体が機能しないということである。私は物事を考えるとき、櫛形のツリー状に捉える傾向があるため、途中が欠けていると自分の想像で繋ぐしかない。表面上は問題ないのだが、いわばハリボテの知識なので簡単にボロが出るし、本当に必要な場面では役に立たない。
 櫛形のツリー状とは書いたが、トップダウンでもボトムアップでもなく、全体表示すると大体そういう形になるというだけで、XYだけではなくZ軸もある。ホワイトボードやコルクボードに項目ごとのメモを貼り付けて、点と点を線で結ぶ捉え方(これもXYだけに見えて隠れたZ軸がある)もあると思う。

 

門田充宏『風牙』東京創元社

 

風牙 (創元日本SF叢書)

風牙 (創元日本SF叢書)

 

記憶翻訳者《インターブリタ》とは、依頼人の心から抽出した記憶データに潜行し、他者に理解可能な映像として再構築する技能者である。珊瑚はトップ・インターブリタとして期待され、さまざまな背景を持つ依頼人の記憶翻訳を手がけていた。 

   この「記憶に潜行する」シーンから物語は始まるのだが、『ニューロマンサー』に代表される意識だけが身体から抜け出して活動するような表現を用いながら、その過程については新鮮な切り口で明解に描かれている。


 『風牙』における記憶への潜行は、記憶翻訳者《インターブリタ》として訓練を受けた過剰共感能力者によって行われる。
 過剰共感能力者とは、他者の思考や情動をあたかも自分自身のそれであるかのように、過剰なまでに共感してしまう能力を持つ人間である。作中にも出てくるが、他者の心を察する能力というよりは、他者の感覚・思考・情動を自動的に受け容れてしまう深刻な障害である。共感性が強ければ強いほど自他の境界が曖昧になり、自己形成にさえ支障を来しかねない。
 当然、日常生活を送るのも難しいため、上記の過程で大きなトラブル──収録作『虚ろの座』にて描かれる──に遭遇した主人公・珊瑚(表紙の少女)の実年齢は25歳である。もうちっと歳食っていたらストライクゾーン直撃のロリババアだったのに、あぶないあぶない(なにがだ)

 これを能力として解釈したのが、記憶翻訳事業の先駆者である民間企業・九龍の創業者にして社長の不二であり、珊瑚にとっては雇い主であると同時に個人的な恩義がある大切な人でもある。


 物語は不二が不治の病に罹り余命を宣告されたのきっかけに、自分自身の記憶補完(翻訳された記憶はデータとして保存できる)を望んだ事に端を発する。通常、プライバシーの観点から記憶翻訳者は広義の意味での身内の記憶翻訳には関わらないのがセオリーなのだが、潜行した記憶翻訳者は全て初期段階ではじき出され、不二は意識不明の状態に陥っていた。
 そんなわけで、九龍随一の記憶翻訳者(誇張表現ではない)の珊瑚に、例外的措置として白羽の矢が立てられたのである。こうして表題作にして最初に配置された『風牙』の物語は幕を開ける。

 

 記憶翻訳者は まず対象=依頼人の主観を解釈し、次に自分自身の主観として再解釈することで、他人の記憶の中に自分を反映させる。この際、自他の区別を付けるための補助装置・共感ジャマー(過剰共感能力者ならば日常的にも使っている)やサポートユニット、外部からのモニタリング要員の助力を受けつつ、対象と自分を別個の存在として自己を保つ。その上で、対象の記憶へ影響が及ばないように、記憶の情景に己を反映させる。
 つまり、自分がいないはずの過去にいたことにするのが、翻訳の第一段階となる解釈と第二段階の再解釈であり、このイメージを誰でも体験できる視・聴・嗅・触・味を伴った映像データとして汎用化するのが記憶翻訳と呼ばれる作業になる。

 記憶翻訳と記憶(≒体験)の汎用化の技術を応用した娯楽コンテンツ──ヴァーチャルリアリティのハイエンド版──を提供するのが九龍の商売であり、記憶翻訳者である珊瑚の仕事というわけだ。

  脳科学や意識の在り方、ついでにMRIfMRI──というか核磁気共鳴を利用した医療機器──について、いくらかでも知見があるとすこぶる面白い。

 

 愛犬との思い出に込められた飼い主の思い入れと「自分が自分であること」の根底にあるものを描いた表題作『風牙』は、面白いし出来も良いのだけど、個人的には珊瑚が記憶という内的世界ではなく、珊瑚の自室やお気に入りの喫茶店、上司や同僚、新たに知り合う人々とおもに母親についての事柄──珊瑚自身の母への思いも含めて──が語られる『みなもとへ還る』がいちばん好き。

 『閉鎖回廊』は、ホラーゲームを彷彿させる娯楽コンテンツのベーターテスト中に発生したトラブルを通して描かれる“恐怖”を克明に描いており、小説として面白いと思うがそれがゆえに“私”は苦手だった。

 『虚ろの座』は、『風牙』、『閉鎖回廊』、『みなもとへ還る』へ至る物語のルーツを前3作とは異なるアプローチで描いた本来なら語られざる過去の物語。

 

 読み落としでなければ、九龍の所在地が明確に記されていないのだが、断片から全体像が浮かび上がる描写には驚かされた。日本列島本州のどこかにあるそれなりの都市の一部であるのは間違いないのだが、それ以上のことは判然としない。それとも「都心=東京都心と捉えるのは想像力の放棄である」という私のひねくれ根性のせいだろうか。いずれにせよ、ありそうな街の情景が読んでいると自然に浮かび上がってくるのである。この細部から総体が形作られるやりかたは、記憶翻訳の描写にも良く似ている。

 
 登場人物が非常に魅力的な作品であり、主人公の珊瑚はコテコテの関西弁で話すのだが、どことなくのんびりとしている。関西と言っても内陸寄りの訛りだからかもしれない。ネイティヴを聞いたことがあると想像しやすい。個人的には、九龍の技術者ショージくんこと東海林と、言葉遣いから姿勢の良さまで窺えてしまうカマラ女史(バリバリのキャリアウーマンにこの名を冠してしまうネーミング・センスも素敵)が印象に残った。次作『追憶の杜』にも出てくるだろうか。いまから読むのが楽しみである。

  ところで、巻末の解説を書いているのが、長谷敏司さんなのだけど、冒頭からしてすごい。なにしろ「(前略)これほど高い適性を持つSF娯楽小説の書き手を、四年もの間、紙の書籍としてはほぼ塩漬けにしていた東京創元社は、相当に罪深いということになる。」と糾弾している(2018年10月31日 初版)
 あとがきを読んだ後にこの一文が待っているので、いち読者としてはこれに続く作品解説はうなずくしかなかない内容だった。『追憶の杜』を読む前にあらためてこの分野を勉強しようと思い、オリヴァー・サックスの著書を三冊ほど図書館で借りてきた。

 余談だが、長谷さんはデビュー作『戦略拠点32098 楽園』において、記憶にまつわるエピソードを書いている。角川スニーカー文庫、2001年12月1日初版。第六回角川スニーカー大賞受賞作ということもあり、同氏の作品の中では後の『円環少女』シリーズと並んで最も読みやすい。ただし、文章そのものの読みやすさでは、『楽園』が抜きん出ている。イラストはCHOCOさんで、巻頭カラーページと設定画があるのみで挿し絵が一切無い。この思い切りが最初に見る絵のイメージを文章に結びつけ、未知の惑星の空の下、草原を駆けるマリアと、それを見守り、あるいは追いかけるガタルバとヴァロワの姿が浮かび上がってくる。白状すると、私はいまでもなお長谷作品の中では『楽園』が最も好きだ。
 残念ながら絶版。電子書籍はあるので、気になった方はそちらを当たって頂きたい。 

 

 『風牙』も単行本に先行して出版されたKindle版もあるので、一応紹介しておくが、いま買うのであれば同じKindle版でも『風牙(創元日本SF叢書)』の方がお得であろう。

風牙 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作

風牙 -Sogen SF Short Story Prize Edition- 創元SF短編賞受賞作

 
風牙 (創元日本SF叢書)

風牙 (創元日本SF叢書)

 

 

ジェラルド・エーデルマン『脳は空より広いか』草思社

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

 

 

 意識はどこからどの様に発生するのか、について。科学的かつ論理的に書いた本。この手の専門書では抜群に読みやすい良書です。用語解説や訳注も丁寧なのですが、できれば先に『論理哲学論考』を読むことをお薦めします。

 奇跡的に地元の図書館が所蔵していました。

 最近の公共図書館はこんな枕詞が必要なのは、例えばこの分野ではベストセラーの『脳は眠らない』は一冊も持ってなかったり、『夢を見る脳』は置いてないのに『意識は傍観者である』は所蔵していたり、となんとも中途半端な有り様だからです。

 ここの得意分野は民俗学だとは前々からわかっているのですが、「あれがなくてこれがない」感をひさしぶりに味わいました。というか、採光的な意味で明るい図書館って居心地が悪いので、改装されてから利用することが極端に減ったこともあるんですけどね。

 

 

 

 

アウトライターズ・スタジオ・インタビュー#149

 ぎけんさん(@c_x)企画のアウトライターズ・スタジオ・インタビューに参加しました。 

unmake.blog133.fc2.com


 有難いことに「Twitterはやっていないし見ていないけど、サイトとブログはたまに覗くよ」という方がいるようなので、ここにも書いておきます。
 インタビューの主旨は、「アニメと自分の関わりとか自分がアニメのどんなところが好きかを語ってください」みたいなことなのですが、こいつ良くしゃべるなあ……って感じに長いですね。

 実際、最初に書いたときはもっと長くて、バージョン違いテキストを三つくらい作ってこの形にまとめました。


 どこが長かったかというと最初の項目でして、遡ったら幼少期に見た『ゼロテスター(何回目の再放送かわからない)』に行き着いてしまったのです。私の場合、そこからアニメ一直線にはならず、どちらかと言えば特撮が主体でした。
 この話題は読書(小説)や模型にも及ぶため端折ったのですが、端折っても長い。そこで思考を転換して「アニメをアニメとして意識してみるようになった作品は何か?」という問いを立てたとき、出てきた解が『天地無用!魎皇鬼』だったわけです。
 
 あとはまあ、概ね記事に書いた通りです。

 このブログにも「アニメ」カテゴリを作ってしまったので、適宜活用していこうと思います。

 アウトライターズ・インタビューは、書くひとによって書き方が異なるため、文章から人柄が見えてくるので面白いですよ。

unmake.blog133.fc2.com


 言われるまでもなく、個を剥き出して書いてしまったので、企画の主旨には沿えたかな、と思います。
 記事の方は素振りではなく真剣勝負なので、読んでくれると嬉しいです。

 ……己の面倒くささに自分で呆れているこの頃。

 

2018年、個人的に印象に残ったアニメ10本

 ……というのをTwitterに投稿したのですが、引用リツイートで補足を書こうとしてスレッドごと削除してしまったため、ブログのネタにすることにしました。別途、メモは残してあったのですが、年も変わっていますし再投稿するのも興ざめものですから。

 あらためまして、あけましておめでとう御座います。

 ではでは、書いていきましょう。


・2018年、個人的に印象に残ったアニメ10選

 


 どう選んだのかというと、「印象に残った」という言葉そのままです。

 思い返して頭の中にパッと浮かんだ作品を書き出し、年度が間違ってないかだけ確認。その中でより好印象の作品に絞り、10本に絞り込む上で「見返したことはあるか」という条件を加えました。そうでもしないと切りが無いので(苦笑)
 そういう訳で、先に挙げた10本には好みも強く反映されています。おススメという意図もあんまりないです。

 加えて、遠慮なくネタバレしているのでご注意ください。
 以下の作品別コメントは、これまでの総括として書いてみました。

 


宇宙よりも遠い場所

 正直、舐めてました。なにかしら作品世界特有の制度でも持ち出して、わりとほいほい南極行っちゃうんだろうなー、なんて思ってました(ごめんなさい)。
 そんなことを思いつつ、1話からオンタイムで見ていたのはPVでの砕氷船しらせの描き込みが空中線に至るまで丁寧だったからです。
 南極……なかなか行かないんですよね。
 要約すると「主役女子高生四人に焦点を当てていって、こういう子たちがこんな風に知り合って、こういう縁と機会があって南極に行くのだよ」という流れを丁寧に描くのですね。1話Aパートでその事に気づき、私は思わず「やべぇ。ガチだ」と口走りました。
 南極については、現実に民間観測隊を南極に行ける状況があるとしたら、という背景から描いていますね。これも「やべぇ。ガチだ」でした。

 

 こっからは完全に未見の方置いてけぼりで行きます。

 

 この作品、台詞が多い(多すぎる)脚本という評があるらしいのですが、自分は特に気になりませんでした。
 言っちゃあなんですが、四人それぞれがめんどくさい部分を持っているので、この子はここで言うだろうなー、という言葉を言っていたからです。音響やコンテなどを含め演出に支えられていた部分は大きいと思いますが、やはり前半の尺を無駄なく活用してキマリはこういう子、報瀬はこういう子、日向はこういう子、結月はこういう子、というのをしっかり人物を描くことで物語で示していた構成があったからだと思っています。
 半ばからいわゆる大人組にも焦点が当たってきて、過去と現在の――特に報瀬や吟の気持ちの上での――距離が近づいてきて、それぞれの近しい人間(報瀬にとってはキマリ達三人)も外縁から内側へと引き込まれ12話の“あのシーン”に一端は集約されたのだと思います。
 当時、ノートPCを見る報瀬と、部屋の外で様子を見守るように伺っているキマリ、日向、結月の三人が映すシーンを「小説の間合いを映像でやってきた」と書いたことを覚えています。
 ここまで書いて思い出しましたが、間の取り方が独特でそれが印象に残った作品でした。台詞や動きの間にちらっと映る背景や物(最も印象的なのはラジオゾンデ)の見せ方が小説の情景描写に似た間合いがありました。


ゆるキャン△

 カレーメンが食べたくなります(笑)
 実際、作中の台詞でもありますが、なでしこは本当に美味しそうに食べますよね。
 この作品については、りんがスクーターを入手してからあちこち移動する話が増えてくるのですが、実はこの移動シーンがキャンプしているシーンより好きです。特になでしこが風邪っぴきで電話越しにナビをする回は好きです。
 人間関係の構築がちょっと変わっている点も印象的で、りんとなでしこの出会いから新学期の通学シーンで一端リセットされます。二人がストレートに友達になるのではなく、なでしこが野外活動サークルへ興味を持ち千明とあおいと知り合ってから、勢いで図書室にいたリンに声を掛けてしまうんですよね。この時、恵那もいるので1話アバンでちらっと見せた最終話のシーンが生きてきます。最終的にこの五人が一緒に行動することが、ここで提示されているのです。
 当時「(なでしこが)1クールかけてリンを攻略したか」とツイートしていた方がいましたが、どちらかというと攻略に手間取ったのは恵那の方ではないかと思います(笑)


スロウスタート

 タイトル通り3話くらいから動き出す作品。そうした事もあってか、常に一歩引いたところに視点を置いて見ていました。これはまさしくぱっと思いついた作品なのですが、一体どこに惹かれたのかが思い出せません(笑)
 メインキャラ四人のうちでは、「君は本当に高校生か?」みたいな天然のたらし栄依子ちゃんが観ていて面白かったのですが、個人的には榎並先生(CV:沼倉愛美)最高! でありました。
 この年から沼倉愛美さんが大好きなことを自覚してアニメを観るようになったので、Twitterでは「ぬーぬー(沼倉愛美さんの愛称)」うるさかった年だと思います。※

※きっかけは、過去に見た作品の中で「なぜ自分が最後まで見ていたのかわからない」作品がいくつかありまして、この“なぜ”に該当する作品には全て沼倉愛美が出ていたという偶然なのか必然なのかわからんちんな事実に直面したからでした。
 いまのところ、桐(『このはな綺譚』)がいちばん好きな役ですが、大野アシュリー(『妹さえいればいい。』)も捨てがたい、比良坂夜露(『アリス・ギア・アイギス』も好きですし、いやいややっぱり井口さん(『SHIROBAKO』)か……(以下略)

 


BEATLESS

 たまたまYouTubeにサジェストされていたPVのサムネイルに表示されていたスノウドロップに“引っかかり”を覚えて再生してみたら、『BEATLESS』のアニメ化告知だったので思わず苦笑いしました。
 この時点で「人間の姿をしているのに、明らかに人間ではない」とわかる映像表現には目を見張りました。アンドロイドやガイノイドは、多くのアニメで描かれてきましたが、それらはどれも顔立ちを人間のキャラと微妙に変えてあったり、外見的特徴があったりそうと知らなければ全く区別が着かない見かけだったものが多数を占めていたからです。
 この驚きは『宝石の国』によって覆されましたが、対比となる人間が金剛先生しか出てこないため、『BEATLESS』は「人間の姿をした人間ではないものがいる社会」を描いた作品だと思います。
 また、長谷敏司さんはデビュー当時から一部を除いて著作を読んでいる作家でして、『BEATLESS』原作単行本は当時積んでいました。
 積んでいたらアニメが始まってしまい2話まで見たときに、「いますぐ原作を読まなければならない!」と放映と並行して読み始め、半ば頃に読み終えました。結果として、原作単行本は付箋だらけになりました。※
 読了後の視聴で注目していたのがアナログハックの表現で、原作だと地の文で「~はレイシアのアナログハックだ」のように明言されている部分が結構あります。ところが、アニメ場合は画面からそれを絵解きする必要があるため、この見極めが完全に視聴者に委ねられるからです。
 特にレイシア級の場合は、目指すところへ対象者(レイシアならばアラト)を誘導するためアナログハックと、hIEがAASC(行動適応基準)に従って用いる通常のアナログハックの二種類が混在するため、より難易度が上がりました。
 後者はモブhIEも行う営業スマイルや世間話の中での愛想笑い。レイシア級では、紅霞が去り際に笑ってみせるなどと言った「その人間が望んでいるであろうふるまい」が主になるのですが、レイシアの場合はアラトの好感度を維持したまま自分の行動を承諾させる必要があるためすっごく難しいのです。
 この“相手に望んでいるであろう対応をする”ことは、人間が普段から行っていることなのですが、アニメでも原作でもこの点に全く言及しないところが意地が悪いですね。親近感すら湧きます(マテ)
 途中、万策尽きてしまったのは残念でしたが、間が空いても最終話まできっちりやってくれたことは嬉しかったですね。ぶっちゃけ、ラストのスノウドロップをいい加減な描き方したら「水島精二監督作品は二度と見ない」くらいの覚悟で視聴に臨んでました。つまり、信じていたわけです。

※特番でこの三倍くらい付箋が貼ってある原作単行本を、レイシア役の東山奈央さんが取り出したときはぶったまげました。


アンゴルモア 元寇合戦記

 原作未読。2018年最初の伏兵でした。
 元寇を扱った映像作品はいくつかあるのですが、あえて対馬の戦いに視点を置くところからして驚きでしたし、様子見のつもりが1話からほどよい時代考証、クセの強いキャラクター、見せる殺陣、歴史好きの期待を裏切らない拡大解釈、大仰な身振りによる画面をいっぱいに使った演出に引き込まれました。
 個人的に嬉しかったのは、推測で「原作ではこうだと思うが、映像化するにあたって展開やときには言葉一つでわかるであろう部分は流れを重視して端折ったと思われる」といったことをツイートしたら、原作ファンの方から引用RTで「そう、その通り原作を上手くアレンジしている」といったコメントを頂いた時ですね。
 また、OP曲が非常に好きでして配信と同時に購入した作品は、今期ではストレイテナーの『Braver』だけです。


『SSSS.GRIDMAN』

 今期後半の本命、BABY DAN DAN DAN!
 と言いつつ、実は直前まで見る気はなかったのです。ところが番組表を確認したらほどよい時間帯に放送していたので、試しに1話を見てみたら好きな演出の連続でどはまりしました。この直後、原作である特撮版『電光超人グリッドマン』の存在を知り、AmazonPraimVideoで見てみたら、こっちはこっちで面白く、少し無理をして全話見ました。
 3話辺り。ネット上でも明らかに注目されてきた頃に、ちょっとした考察じみたテキストを書いてしまったのですが、ブログに掲載するかぎりぎりまで迷って結局お蔵入りにしたこともあります。この時点では、アカネがあの世界の創造神だとまだ提示されてなかったので正解でした。
 ラストシーンの解釈で考察が飛び交っているようですが、そんな難しく考えなくても良いんじゃないかな、というのが私の見解です。私は端的にグロブロー(『要塞シリーズ(荒巻義雄著)』の舞台となる架空天体の名前)と書きましたが、「『永久帰還装置』だ、神林長平だ」と書いている人がいました。
 ここは、特撮版におけるコンピュータ・ワールドという概念を知っているか、架空世界を扱った作品に親しんできた経験が無いとわかりにくい部分だと思います。
 この作品が提示したのは「あなた達は自分が現実だと信じているその“現実”は、その“いま・ここ”は相当曖昧なものですよ」と訴えかけていると思います。私は変な人間なので、自分が現実だと思っている“いま・ここ”が誰かの夢ではないか、と疑ったこともありますし、自分の存在を規定するものは他者の存在があってこそだとも考えています。
 大石昌良さん(OxT)が放送終了後に「【後日談】OP歌詞のリテイク等でネタバレに慎重だった雨宮監督が、「君を退屈から救いに来たんだ」のところでグリッドマンをアカネのところに窓ガラスばりーんってよこした時には「おい!あんたが一番ネタバレしてんじゃねーか笑!」って最高にエモかったです笑。」とツイートしていたように、あのOPが全てを語っていると思います。

 「僕らの世界」の「僕ら」というのは、裕太や六花、内海達のことで創造主=神様であるアカネに「目を覚ませ!」と言っているわけですね。侵略者とはアレクシスのことであり、このイレギュラーを排除しに来たエージェントがグリッドマンなわけですね。
 ラストシーンは実写(≒現実)に切り替わりタイトルが被って終わりますが、「この映像を見ているあなた方視聴者を誰かが同じように画面で見ていない、と言い切れますか?」という製作側の問いかけでもあると思うのです。


『アニマエール!』

 原作未読。2018年最後の伏兵でした。
 当初はニコ動で見ていたのですが、3話を見たらときの次の期待度が一気に高まったため、以降はTV視聴に切り替えました。
 主人公・こはねがチアリーディングに憧れを抱いて、幼馴染みの宇希の助けを借りつつひづめを動かす過程は丁寧な分焦れったくもありました。いまにして思えば、この部分は助走であって、中盤以降加速していく物語を支える足場になっていたんですね。こはね、宇希、ひづめ、こてっちゃん虎徹)、花和、の五人は皆それぞれ強い個性の持ち主なので、短期間にまとまっていくには強い核が必要だからです。まず、こはねとひづめの双方を見守るかたちで距離を置いていた宇希という三角関係。宇希が積極的に関わるようになったところでそこにこてっちゃんが加わり四人になり、グループとして動き出したところにひづめの延長線上にいた花和が飛び込んでくるかたち。導入がどれも体当たり気味で、毎度わちゃわちゃしている様が見ていて和みました。
 チアが主題なだけあって、経験者であるひづめの発声は、画面からも空気の振幅を感じ取れるような絵作りがされていたと思います。実際、全編に渡ってキャラがきびきび動きますし、日常場面ではキャラの動きを追うようなカメラワークが実写っぽくてそれが臨場感を出していたと思います。ディフォルメキャラの場面との切り替えも自然な出入りで、ここではこてっちゃんが大活躍でしたね(笑)
 メインキャストの演技が光る作品でもありました。
 ひづめのアップダウンが激しさを自然に表現した山田唯菜さん、宇希の極めて常識的な部分とそこから逸脱する部分を見事に演じた井澤美香子さん、こてっちゃんのほんわかしたところと微妙に黒いところを可愛らしく演じた楠木ともりさん(そして『GGO』のレンを微塵も感じさせなかった!)、花和の真っ直ぐなゆえに不器用な性分をめんどくさいと感じる前に微笑ましく感じさせた白石晴香さん。
 そして、この作品の見どころの一つとも言えるのが、こはねの前向きゆえに空回りしてしまうところや天然のはげまし気質をチアの習熟過程とリンクするかのように役をものにしていった尾崎由香さんの演技でした。
 気づけば軽い気持ちで見始めたら見ていると気持ちが軽くなる作品になっていて、終わったときのロス感が自分でもどうしようってくらい強かったです。


ゾンビランドサガ』

 話題になる前から注目されていることは気づいていたのですが、『電光超人グリッドマン』を見始めてしまったために、リアタイ視聴の機会を逸してしまった作品です。放映期間に一切ツイートがないのはそういうわけです。
 配信で追いかけることは十分可能だったのですが、あえて途中から乗らずに関連ツイートを全て流して放送終了直後くらいに見始めました。
 毎回こちらの感性へダイレクトに訴えてくる全力投球。イロモノのふりをした堅実な作品で、フランシュシュがゾンビであることを除けばわりと正統派のアイドルものなんですよね。
 上手いなと思ったのは、ゾンビであるためオフのときは完全に世間から切り離されてしまい、アイドルものでは縁が切れない業界のしがらみに主人公達がほとんど関わらない(関わりようがない)という作りにしてあることでした。そのため、1クールアニメでありながらメンバー7人のうち5人までそれぞれの過去と現在を結びつけたエピソードを入れても密度は高まりこそすれ、話の展開に無理がないのですね。ゆうぎりとたえがそれぞれ生きていた時代からの乖離の長さと意識が戻っていない、という点から外側からメンバーを支える形になっていたので、それによってキャラに深みが出ていたと思います。個人的に好きなのは、ゾンビ2号です。二階堂サキです、夜露死苦
 メンバー内でのジェネレーションギャップがポイントになる作品でもありますが、面白いのはフランシュシュの楽曲はおおよそ80年代半ば~ゼロ年代までの様々な楽曲の特性が取り入れられており、これを2018年現在の音楽としてまとめているところでした。ここそれっぽいと思ったら、術中にはまった証拠だと思います。
 作っている側は狙ってやっているはずですが(それでもコケることはある)、今期の大穴・大当たりだったような気がします。

 


『メルクストーリア-無気力少年と瓶の中の少女-』

 YouTubeでサジェストされていたPVが好印象だったので見始めたら、これが今期の和み枠になりました。
 1話ないし前後編2話完結のオムニバス形式で進むため、エピソードごとのゲストキャラクターやその地域と種族についてしっかり掘り下げて描いてあり、こうしたバラバラの視点から作品世界全体を描き出す方式は、モンスターを倒すのではなく鎮める(癒す)という作風とマッチしていたと思います。
 これといって突出した部分はないのですが、丁寧に作っているのが見ていて伝わってくる作品でした。個人的に好きなのは、妖精の国のお話と死者の国のお話しでした。あ、何気にどちらも、春と冬、光と闇、過去と現在、表と裏、現実と夢、生と死と言った鏡映しになるテーマを扱っているエピソードですね。
 本やゲームなどを通して定着した「ふわっとしたファンタジー感」を上手く活用した作品でもあり、各地域と各種属を小規模商隊の交易で結びつけることで消極的な強調による他種族共存世界を描き出すことに成功していたと思います。
 文化と生活風俗の違いを強調することで、文明レベルに差異が生じないようにしていて、あんまり深いことを考えずに物語を楽しめました。この作りを補強するために、各地でのカルチャーショックがたびたび描かれていたのも好印象です。
 1話と最終話が対の構造になっていて、最後までゆったり楽しむことができました。でもこの作品、評価している人が少なくて淋しいです。『デュープリズム』の世界が好きな人は、好きになれる作品だと思うんですけどねえ。※

※ていうか、『デュープリズム』自体が結構マニアック。


BANANA FISH

 これは以前ツイートしたことそのままです。
 原作未読。途中、あまりの胸くその悪さにリタイアしかけましたが、最後まで見ていて良かったです。後半は知らずマックスとブランカの視点を意識しており、二人にとってまたアッシュにとって互いがどういう存在なのかが見えてきて、殺伐さを極めていく中で自分なりの楽しみ方を見出せました。
 視聴を断念しかけたときTLに現れた「この作品はアッシュに色んな人間が裸の感情をぶつけていく物語なんだよ(大体こんな意味)」という一文に、見逃していた物の見方を教えられた気がします。どこの誰とも知らない貴方に感謝します。
 ラストシーンを「美しい」としか表現できない映像作品にひさしぶりに出会いました。それまで散々醜い面を見せてきただけに、この絵がものすごく綺麗で美しさが際立つのです。これは完全に予想外でした。

 

 以上です。ブログの記事にすると決めた時点で、それなりの量を書くつもりでいましたが、結構な分量になってしまいました。