べっぴんの町

 

べっぴんの町 [DVD]

べっぴんの町 [DVD]

  • 出版社/メーカー: TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
  • 発売日: 2015/11/11
  • メディア: DVD
 

  1989年公開。原作は軒上泊氏の同名の小説なのですが、こちらは1985年初版発行で、映画が公開された時点で同じ探偵“私”を主人公とした素人探偵《オプ》シリーズは、4巻目まで刊行されていました。原作も結構面白くて、いま2巻目の『ディセンバー13』を読了して、『また、ふたたびの冬』を読み始めたところです。ここまで読んできて、シリーズ4冊からのエッセンスを1本の映画に入れているのかな、と思える部分があります。

 映画『べっぴんの町』は、出演者の持ち味を活かす形でアレンジされているようで、原作『べっぴんの町』との相違点が結構多いのですが、それぞれ小説としての面白さ、映像としての面白さを追求した好例だと思いました。

 キャストが超豪華なんです。特にある嗜好を持つ人間にとっては、男優の面子が凄い。

 柴田恭兵、田村美佐子、本木雅弘和久井映見峰岸徹笑福亭鶴瓶倉田てつを片桐竜次、伊藤洋三郎、川治民夫、上田耕一(敬称略)。

 89年ということは、『あぶない刑事』は『もっとあぶない刑事』かつ『もっともあぶない刑事』で、ゴジラは『ゴジラVSビオランテ』で、仮面ライダーは『仮面ライダーBLACK RX』なので、これだけで上記の約半数が出揃ってしまいます。

 そうした背景を受けてか、柴田恭兵さんが「こんな上品なデカがいるか?」と言ったり、倉田てつをさんが「俺にはやらなくちゃいけないことがあるんだ」と言ったり、原作にある台詞であっても明らかに狙ったメタ台詞が出てきて笑えます。特に後者は原作にはない台詞なので、脚本が意図的に入れたのでしょうね。

 セントラルアーツ制作ということもあって、共演経験のある役者同士の絡みが多いため、息がぴったり合っているところも見ていて心地良かったです。

 舞台は神戸。

 内陸育ちで海のある場所では日本海側にしか住んだことのない自分からすると、フィルムは古いのに絵は新鮮に映りました。

 また、地元の方によれば、阪神淡路大震災で失われた神戸の街並みを残す貴重なフィルムでもあるそうで、その他にも横須賀などとはまた違った日本の中に入り込んでいる異国の文化を感じ取れる作品になっているとも思います。
 別に隠していたわけではないのですが、恭サマ(柴田恭兵さんの愛称)のファンなので、DVDを買った理由はわりとそれだけです。事前に原作を読んでみてそれが面白かったから、というのもありますけどね。

 台詞回しがいちいちキザなのですが、このキャストが言うと嫌味が無いんですな。原作だと文章だけなので、ちょっと気になります。

 私は、九時きっかりに住処を出た。一階の中国人の洋服屋は、まだシャッターを降ろしていた。トアロードを下ってきたメルツェデスをうっちゃり、道路の西側へ渡った。少し坂を下り、〝ボンド・カフェ〟の一階へ入った。
「おはよう」
 十八歳のウェイトレスに第一声を捧げ、私は、道際のボックスへ腰掛けた。開店直後でほかに客はいなかった。
「元気か?」
「はい」
「そうか」
「御注文は?」
「いつものスープと、ロールパンと、サラダ。それとコーヒーだ」
「分かりました」
 その女の子はいつ見ても感じが良かった。一週間前には二人で映画を観た。〝ワンス・アポン・ア・タイム・アメリカ〟映画から受けた影響は、十八歳の女の子を、そのあとホテルへ誘う気を起こさせないことだった。
 彼女は、コーヒー以外の物を卓上に並べると、トレイを抱き締めて言った。
「この前、とても楽しかったです」
 もちろん、〝映画が〟という意味だろうが。
「おれもだ。いろいろと勉強になったよ」
「また連れてって下さい」
「〝教育映画〟が来ればな」
 女の子はにこりと笑みを浮かべ、店の奥へ引っ込んだ。

 

   軒上泊『べっぴんの町』集英社文庫

 

 この中国人の洋服屋を演じているのが笑福亭鶴瓶さんで、本当に良い味を出していて、私(主人公)の部屋があるビルの1階に住んでいるため、場面が切り替わるワンクッションで登場し、とても美味しい役どころでもあると思いました。笑福亭鶴瓶さんが好感の持てる商売人のおじさんという感じで演じていて、これをすかしてかわしつつ邪険にしない恭サマとの掛け合いが面白さを引き出しているのでしょうね。

 上記の原作からの引用シーンですが、映画だとこの様にアレンジされています。

「だあれ、この人?」
(声に振り仰ぐと十八歳のウェイトレスがこちらを覗き込んでいた)
中島町子ちゃん、新しい恋人。可愛いだろう?」
(私は笑って写真をちらつかせた)
「ひどい。映画に連れてってくれるって約束忘れてるんじゃないの?」
「忘れてないって。でも、行くんだったらラブストーリー観に行こう」
「アニメのどこがいけないの?」
(ウェイトレスはにっこり笑って、空になったトレイを抱えて奥に戻った)
(私は相方のいないテラス席でコーピーカップを持ち上げる)
「4本も続けて観れないよ」

 

   映画『べっぴんの町』
    ※()内は筆者による補記。

    私:柴田恭兵。ウェイトレス:守谷佳央理守谷香

 

 この「4本も続けて観れないよ」がチャーミングで良いんです。

 かつて、渡哲也さんは舘ひろしさんに対して「お前には華がある」と評したそうですが、柴田恭兵さんには独特の色気がありますね。この辺りが『あぶない刑事』でのダンディとセクシーに繋がっているのかもと思いもしました。

 89年の映画なので、音響効果がいまからすると特に殴打するときの音がいかにも〝作った〟感じが強いのですが、それゆえにマッチを擦る音や瓶を置く音、足音や衣擦れの音といったあまり目立たない効果音が相対的に自然に聞こえるため、もしかしたらこの時代はわざとそうしていたのかな、とも思いました。

 音楽に関してはメインテーマが1曲あり、これのアレンジバージョンを複数使うやりかたが採用されており、物語の内容がシンプルなのでこのイメージを全体に通底させるBGMとして機能していました。
 主人公に着目していれば、物語が読めてくる作りになっており、その分背景説どころか伏線さえも省略されているため、「どうしてそうなったのか」が少しわかりにくい部分もありましたが、全体としては楽しめました。ただ、この辺りは原作を先に読んでいたことも関係あると思います。

 80年代なので車が面白いです。
 〝私〟の愛車はMG・MGBという渋い(かつエンスーな)チョイスなのですが、中盤でのカーチェイス相手がホンダ・プレリュード(2代目)だったり、トヨタソアラセリカXX(2代目)が並んで信号待ちしていたり、日産・シルビア(S12)が何気なく停車していたり、といまの車よりもこの時代の車の方に親しみを感じる自分には、そういう点でも美味しい映画でした。

 本木雅弘さんはヤクザの若頭という役どころなのですが、原作から踏襲した見た目や物腰だけだと好青年に見えてしまう感じがよく出てましたね。これは配役の勝利だと思います。

 つまり、役者について何も知らなくても、皆役にはまっているのでいま観ても面白いと思います。
 日常生活からは余裕を感じるのに同時に虚しさに近い倦怠感が漂う雰囲気は、バブル景気の光陰をほどよいバランスで描いているとも思いました(まあ、この後に間もなく崩壊するのですが)。

 

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霜月りつ『本屋のワラシさま』ハヤカワ文庫

 

本屋のワラシさま (ハヤカワ文庫JA)

本屋のワラシさま (ハヤカワ文庫JA)

 

「────その本はまだ置いておくとよいぞ」
 子供の声がした。はっとして声のしたほうに目をやって、
「うわあっ!」
 思わず叫んだ。レジ台の上に、今さっき片付けた筈の人形が座っていたからだ。
「失礼なやつだな。おれのような愛らしい童女を見て、うわあ、とは」
 人形は座ったまま赤い唇を開いた。いや、人形ではない。人形に衣装や髪型がそっくりの女の子だ。
「な、な、な、き、……だ、」
「なんだきみはだれだ、と言いたいのか?」
 少女は首を傾げる。真っ黒な髪がサラリと肩の上を滑った。啓はあごをコクコク引いてうなずいた。
「おれはワラシ。この水谷書店の座敷童ぞ。大切にするがよい」

 

   霜月りつ『本屋のワラシさま』ハヤカワ文庫 

 

 怪奇不思議や妖怪変化と古書店の組み合わせは数多くありますが、これは個人経営の書店に居着く座敷童と元大型書店の店員のお話しです。

 主人公の啓は以前の職場でのトラブルから、対人恐怖症を煩い本を読むことができなくなってしまった経験を持つ青年です。どちらも完治とは行かないまでも回復してきたため、入院した伯父に店主代理として一時的に店を任されることになります。ひとまず、過去の経験を頼りに──つまりは大型書店の価値基準でもって──棚整理を始めようとしたところ、レジ台の上に置いてあった人形が突然動き出ししゃべり出し……というのが引用した部分です。

 しかも、店主にしか見る(動いている姿を感知する)ことができないので、臨時とは言え店主代理となった啓はいきなり見えてしまい戸惑うばかり、というわけです。

 江戸時代の貸本屋の時分から守り神として、本屋に居着く座敷童。物言いは率直で、態度は傲岸不遜。暇があれば本を読んでいる。まあ、私なら惚れますな。

 1話完結型の短編を繋いでいって長編の体を成すかたちで、区切りよく読めてかつ全体の時間が進んでいきます。なんとなく続きが出そうな雰囲気がある本ですが、この1巻で完結します。

 実際、このフォーマットで何話も書けそうな気がしたのですが、この1冊で啓の抱えていた問題が解決するので(解決しないと話にならない)、ここでばしっと締めたのは潔いと思いました。物語としても美しい終わり方です。ぐっじょぶ!

 私のお気に入りは「三冊目 ローダンを待ちながら」ですね。本に対する思い入れを抱く人間の心境をわかっているなぁと思いますし、実はこのエピソードだけ話の大筋にワラシが干渉しないのです。ブックアドバイザーとしての能力は発揮しますが、それもたったひと言の助言のみ。

 その後は、ぜーんぶ人の行動と本との出会いによる偶然によるものです。

 あと、啓とワラシの関係が近しくなってきて、思わず「ふふっ」と笑ってしまうような場面が多々あります。

 啓がどうして今のようになってしまったのかも一つの問題に思われていたことが様々な要素が絡まった末のことだったりして、1冊を通しての大筋も面白いです。

 そうした啓の内面の変化に同調しているのか、元図書課員で本はなるべく書店で手に取って買いたい私としては、一冊目の彼にはイラッとする部分が多々ありました。また、それとは別に一冊目(一話)に関わるエピソードが個人的な経験に拠りすぎていて、ちょっと押し付けがましく感じます。人によっては四冊目(四話)で引っかかる率が高いかもしれません。

 つまり、良くも悪くも読者の感情を揺さぶる本であり、本が好きな人にお勧めできる一冊なのです。

 

 以下は余談なのですが、この本を手に入れるのには結構苦労しました。

 出先で唐突に読みたくなり、「確か刊行した頃にあの書店にあったよな」と立ち寄ってみたら、見事に売り切れ(当たり前だ、馬鹿者め)。この日は池袋を経由するため、まずくまざわ書店(規模は小さいものの応対が丁寧なので愛用している)で探して貰うとやはり売り切れ。

 リブロがなくなってしまったのが本当に痛いですね。

 池袋駅構内には他にも2店舗ほど書店はあるのですが、近年の私が良く読む早川書房東京創元社の本はあんまり置いてないんですよね。客層が違うわけですな。

 結果、合計5つの店舗を回り、旭屋書店の棚で発見しました。

 昔からそうなのですが、旭屋書店は入ると「ああ、書店だ。これこそ書店だ」的な安心感があります。広すぎず狭すぎずほどよい空間の作り方をしている気がします。郊外にはありませんけどー。

 ただ、ちょっと残念だったのは帯の背の部分がちょっと破れていて、新古書店にありそうな佇まいだったので、一応店員さんに確認しました。

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 この時点で「たぶん在庫ないだろうなー、そういう縁なんだろうなー」とは思っていたのですが、ここまで来て確しかめもせずに割り切ってしまうのはダメだろ、という思いから確認して貰いました。

 で、まあ、案の定、他に在庫は無かったわけです。

 忙しい最中に面倒を頼んでしまった店員さんには悪いとは思いましたが、この本にちょっとした思い出ができましたね。これでつまらなかったらどうしよう……という危惧もあったのですが、そうした思いは杞憂に終わりました。おそらくこの本はうちに居着くでしょう。

 というのが、今年の11月のハイライトでした。

 

 では、なぜそうまでして読みたがるような本を確保していなかったのか。
 理由は私の面倒な性分にあります。

 

 刊行時点(2019年5月)で情報は掴んでいたのですが、その時はあまり乗り気ではなかったため、メモだけしておいた「いつか読むつもりの本」のうちの1冊でした。

 そーゆー本が結構あります。なぜその時買っておかないのかというと、入手する所有欲と読書欲が一致しないときに買っても本棚の肥やしになるからです。
 本に限って言えば、この所有欲と読書欲の一致による反応が購買欲の正体だと思っています。食欲と似ています。飢えを感じるところなど。

 書店って難しい商売ですよね。商品は腐りはしないけど、新刊の鮮度が読者の食欲と一致するとは限りませんから。
 一時の話題性や注目を集めることで「その時は売れる本」というのはあるでしょうけど、実際のところ書店にとっての上客はちょくちょく本を買いに来る読書が好きな人間でしょうから。

 で、こういう客は好みが一定しないから、入荷する本をジャンル単位ですら絞れないので面倒くささがあると思います。なぜかというと、私がそうだからです。

 

  なお、今回から電子化されている本は、Kindleのリンクを貼ることにしました。Amazonリンクを使うならそっちの方がいいかな、と思った次第です。

 

強襲装甲艦イサリビ(ガンダム名鑑ガム2)

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 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』より強襲装甲艦イサリビです。
 当時(2018年冬頃)の模型製作スキルを注ぎ込んで、全長約7cmのキットを全塗装しました。今回は製作中に写真を撮っておいたので、製作過程も書いてみようと思います。

 

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 艦首が大きく推進器や主砲塔は左右にセットされる特異なデザインは、ぶ厚い装甲で敵弾を防ぎつつ進行するためだとか(母艦が簡単に沈んでは困る)。当然、重装甲を活かさない手は無く、作中でも吶喊をかける殴り込み戦術が行われていましたね。

 

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 こちらは艦尾から。放映初登場時には艦尾だけしか映っておらず、安定翼も艦尾方向へ折りたたまれていたためこっちが艦首だと思ってしまったので、実際に宇宙空間に現れたときには「そういうデザインだったのか!」と驚きました。だって、推進器口も見えなかったんですもん。

 

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 全体的に仕上げが汚いのはスミ入れ部分が細かいこともありますが、そのままだと鉄血らしくないので、ある程度は狙って汚してあります。

 

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 側面から見ると良くわかりますが、無骨な印象とは裏腹に海洋生物を思わせる流麗なラインを有する艦でもあります。

 

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 艦橋部は戦闘時収納されるため、艦首から艦尾までのラインが一直線になり、この姿が美しいのです。実際、再現しようか迷ったのですが、今回は塗装に専念することにしました。

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 で、ぶっちゃけ、どれくらいの小さいのかというと、これくらいの大きさです。
 まず、一円玉比較。

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 アルミ缶比較(後で気付いたのですがスプレー缶を使えば良かったですね)。

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 そして、以前作ったCGSモビルワーカーと並べた写真です。

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  このくらいちっちゃいです。
 京商の1/64ミニカーRX-8と同じくらいでした(トミカは大体1/55~1/61くらい)。

 デカールはHG鉄血のオルフェンズデカール2に付属している鉄華団マークをそのまま使っています。

 

製作編

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 そもそも「2分で作る!」という謳い文句の塗装しない前提のキットというより食玩なのでグレー1色です。これは何をしているところなのかというと、イサリビの「白」をどの色にするかランナーに塗って検討をしているところです。
 筆塗り+仕上げにトップコートが基本なので、なるべく一発塗りで済ましたいため下地の色との相性も合わせて見ていきます。これは、混色を用いる場合も同じです。塗料瓶が映っていませんが、キャラクターホワイトの隣は明灰白色です。
 塗料の色だけ見るとガルグレーがそれっぽいのですが、塗ってみると悪い意味で泥臭さが強くなってしまいました。さらに、今回は白の上にタミヤエナメルのスミ入れブラックをぶちまける予定なので、ここの色よりも暗くなります。

 ガンダムカラーホワイト1にしました。大きく分けてくすんだ白と赤の二色で塗り分けるため、白の部分を大体の見当で塗ります。はみ出してしまった部分は、乾燥後にラッカー薄め液を綿棒に染み込ませて修正します。

 今度は赤(艦艇色)です。というわけで、ひたすらマスキングします。
 この時、隙間を見逃すと白が侵食されてしまうため徹底してやります。

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 そして、塗ります。

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 こうした塗り分けはラッカーとエナメルと言った具合に塗料の種類を変えると楽なのですが、最終スミ入れと細部にエナメル塗料を使うため、クレオス一本勝負です。んまあ、面積が違うだけで、普段からやっている塗り分けなんですけどね。
 次に、砲塔を製作します。

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 キット付属の砲塔は砲身がただの出っ張りなので、ちょん切って砲塔基部に真鍮線を接着します。艦船模型のテクニックの応用です。なんで、この工具箱には真鍮線があるんだろう? と思いつつ補強も兼ねてサーフェイサー1000を噴いておきます。

 それでは、お楽しみタイム。マスキングテープを剥がします。

 

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 上手くできました!
 塗料をエナメルに切り替え、ジャーマングレイとガンメタルを塗ります。色の名前は同じでもタミヤエナメルの方がクレオスラッカーのジャーマングレイよりも、色が濃いのでちょっとした違いを求めたいときにも使い分けは有効です。あと、元の塗料がつや消しと半光沢という違いもあります。

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 砲塔も塗ってみたらそれっぽくなりました。

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 大成功!

 これを左右合体させて接着し、接着境界面の塗装を修正し、スミ入れをして、アンカーを塗って、最終組立をし、水性プレミアムトップコート(つや消し)を噴いて、艦橋舷窓と艦首のライトを塗り、デカールを貼ったら完成です。

 

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   付属している台座は小さいので、製作当初は市販のミニカーケースを流用(ネジ穴があるのはそのため)したものを使っています。その後、丁度良いケースがお手頃価格でヤフオクに出ていたので落札し、現在はこのケースに入れています(前後にスリットがある方です)。

・ カラーレシピ

 白=ガンダムカラーホワイト1(クレオスラッカー)
 赤=艦艇色(クレオスラッカー)
 砲塔など=ジャーマングレイ(タミヤエナメル)
 推進器部=ガンメタル(タミヤエナメル)
 艦橋窓=ガンクローム+クリアグリーン(タミヤエナメル)
 舷灯など=ガンクローム+クリアイエロー(タミヤエナメル)
 艦尾後部の「く」の字モールド=ホワイト(タミヤエナメル)
 仕上げ=水性プレミアムトップコートつや消し(クレオス)
 ※クレオス=Mrカラー

 何やら最後が「あーっと言う間に~」みたいなノリになってしまいましたが、この工程は写真を撮っている余裕が無いのでいつも省略です。

 そんなわけで、自分史上最小モデルが完成しました。

ブリット

 

ブリット (字幕版)

ブリット (字幕版)

 

 スティーブ・マックィーン主演、1968年のアメリカ映画。坂の多い街、サンフランシスコでの初代フォード・マスタングVSダッジ・チャージャーのカーチェイスが有名だろうか。マスタングを駆るマックィーン本人は「当時の自分が発揮できる最高のテクニックを出し切った」と言ったらしい。レーサー出身の俳優なので、この発言に疑問はないが、オンボードカメラが無い時代に、あのスタントをどうやって撮ったのだろう? そう思えるほど、不自然さがなかった。おそらく、カットの繋ぎやカメラアングルで何らかの魔法を用いているのだろう。

 カーチェイスは、映画中盤にあり、以降はマックィーンがわずかな手がかりから黒幕を突き止めるまで、ノンストップで邁進していく姿が描かれる。

 ラストシーンが非常に淡々としていて、「今日日の映画では通らないだろうなぁ」と思った。しかしながら、言葉はなく、クレジットさえも最低限に抑えた終わり方は実に渋い。特に、ブリット警部補(マックィーン)が寝室のドアを閉め、洗面台で顔を洗うシーンから『ブレード・ランナー』のラストを思い出した(もしかして、原型か?)。

 

 サンフランシスコは、『ナイトライダー』などにも良く出てくる街なので、雰囲気はそれなりに見慣れたアメリカの街並みなのだが、シスコに限らず60年代末期の古きものと新しきものが混じり合っている風景は、ちょっとしたカルチャーショックだった。

 50年代の車(いわゆる長寿車種ではない)と70年代に入ってから主流となる車が一緒に走っているし、病院の中は40年代と言われても信じてしまいそうな古びた部分が出てくる。アメリカ合衆国という国を象徴するかのような多彩な人種がそうした風景の中で動いているのに、70年代に爆発的に増加するニューシネマにあるようなイデオロギー的なものは感じられない。ありのままを映したらこうなる、という感じだったからこそびっくりしたのかもしれない。

 そうして気付かされるのは、現代に近づくにつれて変化が画一的になっているという事であり、いまもなお加速しているという事だ。

 マックィーンの魅力を知るために見たつもりが、彼を起点に映画の見方を新たに1つ教えられた気がした。

 

オリヴァー・サックス(訳:大田直子)『心の視力』早川書房

 

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

 

視力を失う、失語症や知覚失認をわずらう……。
知覚に障害を負ったとき、脳と心はどのように対応していくのだろうか。
サックスの患者となった、楽譜を読めなくなったピアニストは、やがて文学や日常のさまざまなものを識別できなくなっていくが、音楽の助けにより穏やかな日常をいとなんでいる。脳卒中失読症になった作家は、苦労はあったもののの自らの体験をもとにしたミステリを執筆するまでになる。
そして、サックス自身、生まれつき人の顔が見わけられない「相貌失認」をわずらっていたが、さらに癌により右目の視力を失って心に豊かな視覚世界を築く人もいる。目と脳の奇妙で驚くべき働きを卓越した洞察力と患者への温かな視線で描き出した傑作医学エッセイ集。


   (カバー折り返し解説文より) 

 

おおざっぱに言って、本書のテーマは「見る」力とその欠如である。
 
   (訳者あとがきより)
 

 

 解説文にある通り、開業医(脳神経科医)であるサックス先生の一人称で、各患者の診療経過をその症例の医学的解説を交えて綴られた医療エッセイの体裁を取っている。
 特に、〈残像──日記より〉では、二〇〇五年一二月一七日~二〇〇九年一二月九日のあいだ、メラノーマ──黒色腫。腫瘍の一種。すなわち癌──が発覚してから、治療──薬ほか、レーザー照射、放射線治療──による見え方の変遷と、その時々の生々しい感情が記されている。他のどの症例よりも簡潔な文章でありながら、ガンや失明の恐怖やまだ見えることへの安堵などに共感を覚えてしまうほどだ。

 自分の身に起こったこと──自分が感じていること──を他者にわかるように言葉で伝えるのは実はかなり難しい。これは、小説の描写とは似て非なる表現であり、文章として整っている必要はなく、想像の余地は少ない方がいい。
 おそらく、医師が患者からの病状を聞く際には、そうした点に注意を払っていると思う。ときに言葉を補ったり、これまで発せられた内容から類推して合致する言葉で「こうですか?」と確認を取るのは、会話を通して病状に対する認識を一致させるためであろう。
 つまり、病状申告は患者が行うものだが、問題点をあらわにする病状把握は、患者と医師で行うものである。『心の視力』では、こうした過程がごく自然にやわらかな筆致で記されている(訳が良いこともある)。

 〈初見演奏〉、〈文士〉、〈失顔症〉、〈ステレオ・スー〉、これらはすべて異なる症例であるが、サックス先生の患者に対する真摯な向き合い方は変わらない。サックス先生が患者の訴えを聞き、ときには言葉を接いだり単語を言い換えたりして、患者に内在する病因を会話(音声会話に限らず)によりあらわにしていく様が伝わってくる。

 病状には大きく分けて、明らかに様相がわかるものと、本人の申告やあるいは医療機器──聴診器や拡大鏡といったありふれた医療器具から、レントゲンやMRIといった大がかりな機材に至るまであらゆる医療専門機器──を用いなければ、専門医であってもまったく見当が付かないものがあると思う。素人でも、隣人の顔が普段より赤ければ診断を下すことができなくとも、「熱があるのではないか?」という様子を読み取ることはできる(自分自身のみでの観察ならば、自覚症状の有無に相当する)。

 真に恐ろしいのは、本人(自覚症状がない)も周囲もまったく異常に気がつけない種類の病なのだが、話の趣旨から逸れるためこの一言を添えるに止めておく。

 先に引用した解説文にあるように、サックス先生自身が生まれつき人の顔を見わけられない〈相貌失認〉と共に生きてきた人間であり、『私はしょっちゅう医学談義に花の咲くような家庭で育った(「はじめに」より)。』ことも大きく作用しているだろう。なお、この文章は『私自身が医師になり、さらに逸話を語るようになったのは必然だったのかもしれない。』と結ばれている。

 専門的なことについては、それぞれの分野に明るい方々にゆだねるとして、私としては『心の視力』を読んで、サックス先生が極めて「聞き上手な医師」であると同時に、「話し上手な患者」だという感想を抱いた。

 本書は、脳神経科医としての知見を交え、先行研究の事例や人がものを認識する能力や発話能力、言語表現能力についてまで及ぶ興味深い論旨が展開されている。そのためか、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考(論考)』で述べた「語る」と「示す」の相違も引き合いに出されており、私としてはつくづく『論考』を再読しておいて良かったと思わされた。

 

 ちなみに、私にサックスを薦めてくれたのはSCA自さんで、Twitterでのちょっとしたやり取りの折、「(前略)ちなみにオススメはジュリオ・トノーとかリンデンとかR・ダグラスとかダマシオとかラマチャンドランとかサックス先生も読んで欲しいですし、贅沢言えばカーネマンとかカリーリとかザルカダキスとか」というリプライを頂戴したのである。
 トノーとリンデン、ダグラスは読んだことはないものの、傾向は大体知っていたため、ダマシオ、ラマチャンドランに惹かれたのだが、前者はあちこちで「訳が悪い」と翻訳者の専門知識のなさを糾弾するレビューが散見され、後者は地元の図書館が所蔵していなかったので、「サックス先生って、オリヴァー・サックスのことかな?」と一点読みで検索してみたら、『意識の川をゆく』を見つけたのである。これが、非常に興味深かったのと、地元の図書館がサックスの本はほぼすべて所蔵していたので『心の視力』、『見てしまう人々(いまこれを読んでいる)』、『意識の川をゆく』を借りてきた。

 門田充宏さんの『風牙』を読み終えたその勢いで『追憶の杜』を買ったものの、知覚や認識といった分野の知見に、欠けている部分があるように思えて専門書を少し読んでからにしよう、とAmazonを眺め図書館を漁ってみたのである。幸いなことに、上述のように参考意見は頂戴していた。


 最近強く感じるのは、知識は自分の中で体系化していかないと全体が機能しないということである。私は物事を考えるとき、櫛形のツリー状に捉える傾向があるため、途中が欠けていると自分の想像で繋ぐしかない。表面上は問題ないのだが、いわばハリボテの知識なので簡単にボロが出るし、本当に必要な場面では役に立たない。
 櫛形のツリー状とは書いたが、トップダウンでもボトムアップでもなく、全体表示すると大体そういう形になるというだけで、XYだけではなくZ軸もある。ホワイトボードやコルクボードに項目ごとのメモを貼り付けて、点と点を線で結ぶ捉え方(これもXYだけに見えて隠れたZ軸がある)もあると思う。