視力を失う、失語症や知覚失認をわずらう……。
知覚に障害を負ったとき、脳と心はどのように対応していくのだろうか。
サックスの患者となった、楽譜を読めなくなったピアニストは、やがて文学や日常のさまざまなものを識別できなくなっていくが、音楽の助けにより穏やかな日常をいとなんでいる。脳卒中で失読症になった作家は、苦労はあったもののの自らの体験をもとにしたミステリを執筆するまでになる。
そして、サックス自身、生まれつき人の顔が見わけられない「相貌失認」をわずらっていたが、さらに癌により右目の視力を失って心に豊かな視覚世界を築く人もいる。目と脳の奇妙で驚くべき働きを卓越した洞察力と患者への温かな視線で描き出した傑作医学エッセイ集。
(カバー折り返し解説文より)
おおざっぱに言って、本書のテーマは「見る」力とその欠如である。
(訳者あとがきより)
解説文にある通り、開業医(脳神経科医)であるサックス先生の一人称で、各患者の診療経過をその症例の医学的解説を交えて綴られた医療エッセイの体裁を取っている。
特に、〈残像──日記より〉では、二〇〇五年一二月一七日~二〇〇九年一二月九日のあいだ、メラノーマ──黒色腫。腫瘍の一種。すなわち癌──が発覚してから、治療──薬ほか、レーザー照射、放射線治療──による見え方の変遷と、その時々の生々しい感情が記されている。他のどの症例よりも簡潔な文章でありながら、ガンや失明の恐怖やまだ見えることへの安堵などに共感を覚えてしまうほどだ。
自分の身に起こったこと──自分が感じていること──を他者にわかるように言葉で伝えるのは実はかなり難しい。これは、小説の描写とは似て非なる表現であり、文章として整っている必要はなく、想像の余地は少ない方がいい。
おそらく、医師が患者からの病状を聞く際には、そうした点に注意を払っていると思う。ときに言葉を補ったり、これまで発せられた内容から類推して合致する言葉で「こうですか?」と確認を取るのは、会話を通して病状に対する認識を一致させるためであろう。
つまり、病状申告は患者が行うものだが、問題点をあらわにする病状把握は、患者と医師で行うものである。『心の視力』では、こうした過程がごく自然にやわらかな筆致で記されている(訳が良いこともある)。
〈初見演奏〉、〈文士〉、〈失顔症〉、〈ステレオ・スー〉、これらはすべて異なる症例であるが、サックス先生の患者に対する真摯な向き合い方は変わらない。サックス先生が患者の訴えを聞き、ときには言葉を接いだり単語を言い換えたりして、患者に内在する病因を会話(音声会話に限らず)によりあらわにしていく様が伝わってくる。
病状には大きく分けて、明らかに様相がわかるものと、本人の申告やあるいは医療機器──聴診器や拡大鏡といったありふれた医療器具から、レントゲンやMRIといった大がかりな機材に至るまであらゆる医療専門機器──を用いなければ、専門医であってもまったく見当が付かないものがあると思う。素人でも、隣人の顔が普段より赤ければ診断を下すことができなくとも、「熱があるのではないか?」という様子を読み取ることはできる(自分自身のみでの観察ならば、自覚症状の有無に相当する)。
真に恐ろしいのは、本人(自覚症状がない)も周囲もまったく異常に気がつけない種類の病なのだが、話の趣旨から逸れるためこの一言を添えるに止めておく。
先に引用した解説文にあるように、サックス先生自身が生まれつき人の顔を見わけられない〈相貌失認〉と共に生きてきた人間であり、『私はしょっちゅう医学談義に花の咲くような家庭で育った(「はじめに」より)。』ことも大きく作用しているだろう。なお、この文章は『私自身が医師になり、さらに逸話を語るようになったのは必然だったのかもしれない。』と結ばれている。
専門的なことについては、それぞれの分野に明るい方々にゆだねるとして、私としては『心の視力』を読んで、サックス先生が極めて「聞き上手な医師」であると同時に、「話し上手な患者」だという感想を抱いた。
本書は、脳神経科医としての知見を交え、先行研究の事例や人がものを認識する能力や発話能力、言語表現能力についてまで及ぶ興味深い論旨が展開されている。そのためか、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考(論考)』で述べた「語る」と「示す」の相違も引き合いに出されており、私としてはつくづく『論考』を再読しておいて良かったと思わされた。
ちなみに、私にサックスを薦めてくれたのはSCA自さんで、Twitterでのちょっとしたやり取りの折、「(前略)ちなみにオススメはジュリオ・トノーとかリンデンとかR・ダグラスとかダマシオとかラマチャンドランとかサックス先生も読んで欲しいですし、贅沢言えばカーネマンとかカリーリとかザルカダキスとか」というリプライを頂戴したのである。
トノーとリンデン、ダグラスは読んだことはないものの、傾向は大体知っていたため、ダマシオ、ラマチャンドランに惹かれたのだが、前者はあちこちで「訳が悪い」と翻訳者の専門知識のなさを糾弾するレビューが散見され、後者は地元の図書館が所蔵していなかったので、「サックス先生って、オリヴァー・サックスのことかな?」と一点読みで検索してみたら、『意識の川をゆく』を見つけたのである。これが、非常に興味深かったのと、地元の図書館がサックスの本はほぼすべて所蔵していたので『心の視力』、『見てしまう人々(いまこれを読んでいる)』、『意識の川をゆく』を借りてきた。
門田充宏さんの『風牙』を読み終えたその勢いで『追憶の杜』を買ったものの、知覚や認識といった分野の知見に、欠けている部分があるように思えて専門書を少し読んでからにしよう、とAmazonを眺め図書館を漁ってみたのである。幸いなことに、上述のように参考意見は頂戴していた。
最近強く感じるのは、知識は自分の中で体系化していかないと全体が機能しないということである。私は物事を考えるとき、櫛形のツリー状に捉える傾向があるため、途中が欠けていると自分の想像で繋ぐしかない。表面上は問題ないのだが、いわばハリボテの知識なので簡単にボロが出るし、本当に必要な場面では役に立たない。
櫛形のツリー状とは書いたが、トップダウンでもボトムアップでもなく、全体表示すると大体そういう形になるというだけで、XYだけではなくZ軸もある。ホワイトボードやコルクボードに項目ごとのメモを貼り付けて、点と点を線で結ぶ捉え方(これもXYだけに見えて隠れたZ軸がある)もあると思う。