源孝志『グレースの履歴』河出文庫

 

 ちょっと前にチラ見したドラマに興味を惹かれたので原作本を読んでみた。普段あまり手に取らない類の本のような気がする。

 亡くなった妻が遺したカーナビの履歴を追う旅なのだけど、主人公が旅を通して得た縁の中で旅を終えた後も強く生きる縁がいまを生きている自分だからこそ得られたもの、というところが良かった。

 ロードムービーが好きなのですんなり物語に入り込めた部分はあると思う。

 

 

 

小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ3』早川文庫

 

 これ続くよね?(疑問) 続くよな(確信)という終わり方だった。

 

 二人が出会った最果ての星系を飛び出して、銀河をまたにかける逃避行。天然でうかつなテラと跳ねっ返り娘ダイオードの旅路が平穏なはずもなく、行く先々でトラブルが起きる。

 トラブルの原因は彼女らにあるわけではないのだけど、基本的にお人好しなテラが人助けをしたがったり、テラ以外に過剰な警戒心を持つダイオードの対処が裏目に出て、二人が事件の当事者になってしまう。

 25歳と18歳。年齢的な若さよりも二人がそれまで過ごしてきた銀河辺境惑星が小さく閉鎖的で排他的な社会だったため、ものの見方や捉え方が狭まってしまった。因習社会の怖さがそこから離れてもなお追いかけてきた感がある。

 

 そうした背景があるため、二人ともしがらみを嫌うのだけど、二人で生きていくことを選んだ以上は自らあらたなしがらみ(関係性)を生み出すことでもある。二人なら二人の、そこから発展して自分達の子供を含めた家庭を築くことに繋がる、という視点がテラにもダイオードにも欠けている気がした(あるいはそれを自覚することからも逃げている)。

 そのため、二人の間ですらすれ違いが起こり、一方が幼さを見せるともう一方が理性的にたしなめる、という構図が見られる。この二人、強く結びついているようで実はかなりあやうい関係なんじゃないか、と思わされる場面が多々あった3巻だった。

 

 小川一水作品はこのシリーズしか読んでいないので、超光速航法の背景だとか銀河に広がった人類の形勢だとか拾いきれていない部分があるような気がした。壮大さというかスケールの大きさは感じるのだけど、読者である自分はテラとダイオード以上にそうしたあれやこれやを知らないので、風呂敷が広がっていくたびに散漫になっていった感は否めない。『天冥の標』を読んでいると違うのだろうか?

 

 さまざまな問題提起がされた3巻だと思うので、これからの答えあわせが楽しみではある。

 

 

TNSK『うちの師匠はしっぽがない11』講談社

 

 まめだの色気が牙を剥いてきた。

 

 ……この巻、ネタバレしないように内容に触れて書くのは無理だった。どこを開いてもどんでん返しの大展開がある。

 

 相変わらずなにに対しても真っ向から体当たりなまめだなのだけど、かつてはがむしゃらにやっていたその姿勢が確たる信念になったのが10巻、11巻だと思う。

 

 そして、これまでも折に触れて描かれてきた「芸を継ぎ名を継ぐ」ということを通して芸人同士だからこそ伝わる愛情の深さが切々と語られる巻でもあった。自分達にとってどう言う意味を持つのかを言葉にするのは重要だと思うし、それを登場人物達に語らせるのは難しいと思う。

 

 電子特装版のリンクを貼ったけど、このシリーズは紙で揃えている。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』新潮文庫

 

 『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』に出てきて、どういう本か気になったから読んでみたが、いぶきもぼたんもよくこれ途中で投げずに読んだな、と思う*1

 作品背景の1980年は、1970年代後半と思って読んだ方が感覚をつかみやすいだろう。

 

 ラストに出てくる〝シャネルの白いワンピースを着た三十二、三歳の素敵な奥様〟という感じの女性〟に対する主人公の憧憬が全てを物語っている気がした。

 

 「ああ、美しく生きていきたい」ってことかな、と……。

 

 書いてみたら虚しくなってしまった。

 ただでさえ読んでいて空疎な思いを抱いてしまう小説なのに……。*2

 

 記事タイトルが新潮文庫なのにリンクが河出文庫なのは、amazonリンクに出て来なかったからである。

 

 ほったらかしにしていたブログを読書ブログとして再開しようと思ったものの、この調子ではいつまで続くかあやしい。せいぜいどういう意図でこの本を手に取ったかを記す程度になると思う。

*1:『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』の登場人物

*2:空疎さの半分は内容に起因するが、残り半分は背景として描かれている2023年現在の日本と1980年現在の日本の経済的な豊かさの落差に(そして部屋に花を飾るくらいの心の余裕もない自分に)。

片倉青一『人形たちのサナトリウム』完結

 完結、連載終了ということで記事にすることにしました。


 以下、片倉青一さんによるWeb小説『人形たちのサナトリウム』終章の感想ですが、最初から最後まで読んでいることを前提として書いています。

 

novelism.jp

 

kakuyomu.jp カクヨムでも読めます。

 

 

10−4「反人形造形主義」 - 人形たちのサナトリウム(片倉青一) - 書いて読んで楽しめる!次世代WEB小説投稿サイト - Novelism(ノベリズム)

 

 ハーロウを作ったバンシューを始めとした一等人形造形技師は、「混沌歩き」だとか「ひとでなし」だとかひどい言われよう(本人等が自称するので言いようが正しいか)なのですが、後者に関しては自戒や悔恨が込められているようでした。

 

 バンシューは最初(1-1)から登場しているのですが、ずっと本心をひた隠しにしてきたのだなあ、と。
 本心をはっきり見せられるようになったのは、ハーロウが成長してようやく親子の会話ができる人形になったからなのではないかな、と。

 

 ハーロウの成長とは、与えられた能力(機能)を使いこなせるようになった道具としての進化を意味しています。
 この辺り、バンシューは徹底しておりハーロウの精神的な成長を認めている節はあるものの、明確に言葉にすることはないのですよね。
 せいぜい「君もだいぶ欲張りになったね」と口にするくらいで。

 

 人形にも人間と同じように精神があると認めつつも、人間と同様には見ないようにしているとでも言いましょうか。
 おそらくバンシューら止まり木の療養所の一等人形造形技師は、「人形を擬人化して見る」ことを厳に禁じている……というより「人形を擬人化して見るようなやつは人形造形技師失格だ」くらいのことは思っていそうです。

 

 私達人間は、愛着のある道具や物に対してあたかも人と同じであるかのように接したり、時には無いはずの心(精神や感覚、気持ち)を投影することがありますが、『人形たちのサナトリウム』における人形には〝人形なりの心〟があるので、人形専門の医療従事者でもあるバンシューらにとって、そうした行為は禁忌にあたるのでしょう。

 

 バンシューとの会話からハーロウが過去(3章)でレーシュンから叩きつけられた正論を思い出すのは、どういう心境でどんな意味を込めてそう言われたのか悟った瞬間でもあると思いました。

 彼らが常に身体(バイタル)と精神(メンタル)をセットで見るのは、医療的なアプローチであると同時に、人形の命の定義が「心身共に健やかに揃っていること」であると示唆しているようでもありました。

 

 「混沌歩き」のくだりでは、「これってもしかして創作を行う全ての人に掛けている?」というような考えがふと脳裏をよぎりました。

 

 実際に、自分の作品が「言葉を用い、自ら動き、意思を持つ」ようになっていたら、作者は自分勝手に生み出した命(作品)に対してどう向き合えばいいのでしょうか?

 

 そんな問いかけと、もしそうなったらどう相対するかのシミュレートがバンシューらの立ち居振る舞いに表れていたように思えます。

 

 とはいえ、そんなことを考えていたら、作中の世界とは相容れないでしょう。
 人形は、すでに製品としての側面を持ち、人類社会の中に溶けこんでいるためです。

 

 だからこそ、止まり木の療養所は地理的にも社会的にも電子的にも思想的にも孤立した場である必要があり、情報因子《ミーム》を抱え既存の社会からはじき出された病理を持つ人形の居場所たり得ます。
 同時に、そうした人形達を診る医師の居場所たり得ます。


 これまで色々な病理(情報因子の種類)を通して、人形の心の在り方や作中世界における生きづらさは描かれてきましたが、その世界がどんな有り様で、人形はどんな位置づけにあるのかについて語られるのは、1章以来だと思いました。

 

 

 以下は『人形たちのサナトリウム』を最後まで読んだときに書き殴ったメモです。少しまとまりに欠けるのですが、言いたいことが素直に出ているのでここに掲載します。

 

 

人類と直接関係を構築する人形は社会的存在である。ゆえに、自然科学の発明であると同時に社会科学の発明でもある。であるならば、人形は社会のありようを変えてしまう存在であるため、社会の仕組みについて言及は避けられない。
これは人形が人と同じ形を備えているために生じる問題でもある。
この点を踏まえていないと、作中でどんな大事件か起きても読者はいまいちピンと来ない。脅威に共感できないのである。

 

 


 ハーロウ達の基本治療方針として「観察・理解・共感」が繰り返し上げられますが、観察も理解も共感も対象の設定が明確でなければできません。

 

 人形はどの様な存在なのか。

 

 作品の根底にある問いがこれで、その回答がこれまでの物語だと思います。


 〝人の形をした人ではない物〟を描こうとするとまずぶつかる問いが「では、人間とはなにか」という恐ろしい問いなのですが、作中における人間の立ち位置と接し方で自ずと答えが出てきます。

 

 すなわち〝人の形をした人ではない物〟に対する立ち位置と接し方です。

 

 この時点で問いは変化して、「〝人の形をした人ではない物〟とはなにか?」という架空の存在が実在する想定における存在の定義を求められます。

 

 噛み砕いて言い換えると、〝ない〟ものを〝ある〟と言うためにはどうすればいいか? といったところでしょうか。

 

 この問いに関しては、作中において「最初の人形がどのように生まれたか(10-5)」で描かれていますが、この過程が作中で現実味を帯びるのはこれまで読者がハーロウを通して人形達の生き様を観てきたからです。
 順序としては、最初の人形があってハーロウ達がいるのですが、我々は現在からしか過去を観測できないので、最後に明かされることになった歴史なのでしょう。


 でまあ、上記で出した問いなのですが、突き詰めて考えると非常にグロテスクな想像に行き着きます。

 

 現在から過去を観測するしかなく、ヒトが無から生まれてくるわけではないことを知っているからです。

 

 このグロテスクな面は、ハーロウとメラニーが介入共感機関という他の人形に対する特権をどうやって持ち得たのか(10-5)が語られる彼女達の意識形成の土壌とでも言うべきものがになっていると思いました。

 

 また、語り得ないことに沈黙する代わりに、唯識論という語り得る言葉で語ることを選んだのが『人形たちのサナトリウム』が持つ側面のひとつでもありますね。

 


 『人形たちのサナトリウム』は、「人形という道具が当たり前に存在する世界の物語」である以前に「ハーロウという少し変わった看護人形の物語」でもあります。
 終章では、ハーロウが自分の生い立ちからその前提までさかのぼって事実と相対していくわけですが、彼女の生は現在進行形であり、生きていく限りこれからも続いていくと示されていたと思います。

 


 『人形たちのサナトリウム』を知ったのは2021年12月のことでしたが、Kindleで読んでそこからノベリズムで毎回の更新をほぼリアルタイムで追っていました。
 メインテーマに強く惹かれたのがリアルタイムで追い始めたきっかけでしたが、ハーロウらキャラクターの持つ魅力、話の構成や文章その物の良さ、知識や情報の的確な扱い方など、思い返してみれば様々な部分に引きつけられていました。

 

 連載開始から2年間お疲れさまでした。

 最後まで楽しませて頂きました。