門田充宏『コーラルとロータス』東京創元社

 

 

 2月の新刊文庫『記憶翻訳者 みなもとに還る』を読むにあたって、本作を読んでいなかったことに気付いてKindleで購入した。

 すでに単行本『風牙』と『追憶の杜』を読んでいる読者であるので、図らずも絶好のタイミングとなったと思う。

 これからこのシリーズを読む方は『記憶翻訳者 いつか光になる』→『記憶翻訳者 みなもとに還る』→『追憶の杜』という順で読むのがよろしいと思う。

 『コーラルとロータス』は、上記の『いつか光になる』と『みなもとに還る』の間か、『みなもとに還る』と『追憶の杜』の間に読むと入りやすいだろう。

 

 

 本作はシリーズ本編から10年前の、まだ珊瑚が新米社員で、記憶翻訳者《インタープリタ》としてはまだ事業に携わる前の物語だ。

 そのため九龍自体も、社員も若い。珊瑚は16歳、特に明記はないが社長の不二、眞角と那須の両専務は30代に入ったくらいのイメージで、カマラ女史に至っては推定20歳である。

 少なくとも『記憶翻訳者 いつか光になる』を読んでいる方ならば、この時点でわくわくすると思う。

 

 物語の構造は『閉鎖回廊(単行本『風牙』及び文庫『記憶翻訳者 いつか光になる』収録作)』と少し似ていて、珊瑚達にとっては社員が関わる問題、読者にとっては物語上の謎と向き合うことになる。

 その鍵となるのが記憶翻訳技術と過剰共感能力で、今作では後者に力点が置かれている。 

 すなわち、過剰共感能力者がいる社会とはどういう社会なのかという作品世界を登場人物のプロファイルに関わる身近なところから描いているのだ。

 

 その上でスポットが当たるのは、珊瑚とカマラの関係である。

 

 記憶翻訳者は過剰共感能力者しかなれないため、珊瑚は例外としても十代での入社というのはこの世界でも珍しいらしく、出会った頃に「カマラさんとは歳が近い者同士なんとかお近づきになりたい(意訳)」と会話の取っ掛かりを掴もうとして、若干空回りする珊瑚は中々の見物である。

 

 作者の門田充宏さんはヤング珊瑚と書いていたけれど、まさに本編の珊瑚の若い頃の物語であり、考え方や人物の根本の部分は同じなのだけれど、やることなすことがいかにも若いというか青い感じが出ていた。

  読む前は「ヤング珊瑚? 16歳ならロリ珊瑚では……」なんてことを思ったのだが、読んでみるとなるほどこれはヤングである。そっちの方がしっくりくる。

 ぶっちゃけ、若気の至りもやらかしていると思う(外的刺激変換モジュール使用時のアレ)。

 

 同時に、本編で(能力の高さはさておいて)、珊瑚がカマラを九龍立ち上げメンバーの不二、那須、眞角と同じような親しみを抱いている理由、あるいはその距離感を掴むきっかけが描かれているとも思う。

 

 記憶翻訳を専門に扱う企業とはいえ、九龍内部でも記憶翻訳者《インタープリタ》はそれ以外の社員と必要以上に関わらないことは、10年後の本編で珊瑚が接触を持つ相手が極端に少ないことからも明らかである。

 むしろそうした本編での珊瑚は、インタープリタの中でも同僚以上の友人知人や社外の人間との関わりが多い過剰共感能力者だと思う。

  これは、珊瑚は自宅の一階部分の喫茶店(というより軽食店)の店主と気さくに話す仲であったり、行きつけの古本屋兼喫茶店があったりするところからもわかる。

 

 恐らく、珊瑚がトップインタープリタに上り詰めることができたのは、翻訳による汎用化において必要となる一般的な知見を他のインタプリタよりも多く持っていたからではないだろうか。

  過剰共感能力が高ければ高いほど、自他の境界が曖昧になるため記憶翻訳を行う上では有利だが、この能力を抑える共感ジャマーなしには日常生活すら覚束ない。

 作中でも過剰共感能力を障碍だと言及している通り、いわゆる健常者と障害者という分け方をした場合、過剰共感能力者は間違いなく障害者である。

 共感ジャマーによって社会生活が送れるようになっても、過剰共感能力者にとって他者と関わることに足踏みしてしまうのは想像に難くない。

 

 それでも珊瑚は一歩踏み出してきた。

 だからこそ、トップインタープリタになれたのだと思う。

 

 そうした現在の珊瑚を形作っている背景の一端が垣間見える短編だった。