門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』創元SF文庫

 

記憶翻訳者 みなもとに還る (創元SF文庫)
 

  発売日に買ったにもかかわらず、読み始めるまで2ヶ月以上掛かってしまった。滞っていたあれこれに、ようやく手が付けられるようになったこの頃。

 

 それはさておき。

 

 創元叢書版『風牙』収録作の『みなもとに還る』と『虚ろの座』を、書き下ろしの『流水に刻む』と『秋晴れの日に』で挟み込む形で再構成した文庫版。

 『風牙』収録作が、『記憶翻訳者 いつか光になる』とこの『記憶翻訳者 みなもとに還る』の2冊に分けられたことで、作品内部の時間と空間が掘り下げられている。どういう世界の出来事を描いた物語なのか、という意味で作品の奥行きが深まったとも言える。

 

 『いつか光になる』のあとがきで、文庫化に際しての再構成について懸念されている様子が書かれていたが、叢書から読んでいる読者からするとお得感がある。

 オムニバスとはいえ一貫した作品なので、全体の構成を変えることには当然意味があるからで、読者としてはその意味を読むことも楽しみに加わるからだ。

 

収録作

 

『流水に刻む I wish it would never disapper』

 記憶の記録化、その翻訳による汎用化(誰でも閲覧可能にする)という技術が出てくるからには、擬似体験のコンテンツを扱うのは自然な流れ。これは既に『いつか光になる』収録の『閉鎖回廊』で扱われた題材なのだが、『流水に刻む』では西洋風ファンタジー世界を体験できるコンテンツ、というよりわかりやすい形で提示される。

  主人公珊瑚の勤め先であり、記憶翻訳を扱う同社の名を冠した擬験都市〈九龍《くーろん》〉の第二階層〈二狐《アーフー》〉(※1)。

 ここは第一階層〈一兎《いっと》〉よりも領域が多様に設定されている娯楽に特化した階層になっている。本編に出てくる西洋風ファンタジー世界をはじめとして、スペースコロニースチームパンクサイバーパンクを合成したような世界、日本の戦国時代をイメージしたような世界などの擬似体験領域が設定されており、今後もそうした領域は増えていくとのこと。

 この作品が様々な形で展開していく予感をさせられる背景設定であると同時に、当然あるであろう技術を描いている。

 収録作の中では、オムニバスの性質が最も強く、現在の珊瑚と彼女を取りまく人々にスポットが当たっている。

 存在感はあるものの、これまで個人の側面があまり描かれなかった眞角専務の横顔が窺える短編でもある。

 眞角と珊瑚の担当エンジニアのショージに入社以前の繋がりがあったり、調整役にカマラが出張ってきたり、と九龍が小さな会社であることがよくわかる。トラブルに際して、どうしていつも同じメンバーが当たるのか、という当然の疑問に対する答えにもなっていた。

 

 人間は現在から未来へ進んで生きているがゆえに、何かを語るときには過去を語るしかない。

 本来、その人にしか把握できない記憶が記憶翻訳による汎用化によって、誰にでも理解できるようになった世界おいて、あえて残るようにした記録がどの様な意味を持つのか、ということを描いた短編でもあると思う。

 

 珊瑚はスタンドプレーで周囲を引っかき回してしまう傾向のある主人公なのだが、その彼女がNPC(つまりコンテンツのために作成されたデータ)に翻弄される姿はなかなかの見物である。

 

 この短編の特徴は、過剰共感能力者よりも記憶翻訳やその基盤になっている動的外部刺激調整モジュール《トランキライザ》に関わる事柄に力点を置いていることがある。この技術自体がすごい発明なのだが、もしかしたら実用化されるかもしれない、という可能性を秘めているため、シリーズにおける大切な要素だと思う。

 過剰共感能力者がフィジカルかつセンシティブな面での作品の土台だとしたら、動的外部刺激調整モジュールはロジカルかつテクノロジカルな面での土台になっているからだ。

 この記憶翻訳者シリーズがSFたり得ているのは、空想と科学双方からのアプローチが表裏一体の関係にあるためだと思う。

 

 現在の珊瑚がどんな現実を生きているか(どんな立ち位置にいるか)を知る上でも大きな役割を果たしている作品なので、この後の作品で彼女の過去に触れるときの足掛かりにもなっていた。

 

 

※1:振り仮名は原文そのまま。なぜか「くーろん」、「いっと」、「アーフー」なのである。日本の企業とはいえ、読みの基準がバラバラなのはなぜだろう?

 

 

『みなもとに還る My dear, tell me your stories』

  表題作。擬験都市コンテンツのレビュー中に遭遇したマヒロとの不可解な出会いから、珊瑚の死んだはずの母親が生きていると知る。事実関係を調べていくうちに、珊瑚は過剰共感能力者の生活共同体〈みなもと〉に自分が幼い頃に母とともにいたことを突き止め〈みなもと〉に赴くと、真尋と名乗る過剰共感能力者の少女に出迎えられる。

 

 『風牙』収録時よりディテールが見えやすくなった印象があった。

 過剰共感能力者の生きづらさを克明に描いた短編。話の雰囲気は穏やかで事件と呼べる事件も起きないがやや重い。

 一方で、珊瑚が普段よく接しているショージやカマラの出番が多く、『流水に刻む』を踏まえているため、公私両面で彼女が二人を信頼していることがわかる。特にショージの人の良さと技術屋気質が『風牙』収録時よりも強調されているような気がして、読んでいて楽しかった。

 半ばからは珊瑚が都内にある九龍から離れて、通信環境が電話くらいしかない場所にいるため、彼女とショージとカマラの動きが相対的に描かれるバランスもいい。

 

 過剰共感能力とは言うが、実際には社会生活に支障を来す身体障害に他ならない。

 

 作中でも記憶翻訳に必須の能力として位置づけられているが、自他の感覚や感情が交じることによる本人の苦痛(ときには苦と感じることすらできない人格形成への影響を引き起こす)は無視できない。

 

 他者からの好意的ではない視線が存在すること、いわゆる普通にはできないし普通には見られないこと。

 珊瑚はその中でも最も重度のグレード5であり、能力を抑える共感ジャマーがあってようやく社会生活が送れるようになっている。

 

 この点は、物語を進めていくに従って──珊瑚が生きている限り──ずっとついて回る事柄なのである。 

 珊瑚が一生抱えていくしかない自分自身のことに対して語られると同時に、本人も知らない生い立ちについての謎が明らかになっていく構成は、どちらも彼女の根本に根ざす事柄という点で一致している。

 珊瑚自身もこれまであえて考えないようにしてきたことと向き合う機会と捉えて踏み出していく素の珊瑚の姿と、物語の序盤からつきまとっていた違和感の正体を見抜くインタープリタ(専門家)としての珊瑚の姿がしっかり等分に描かれている。

 

 珊瑚の過去についての物語と言うより、現在の珊瑚がいまの自分を確認する物語という向きが強いと思う。

 

 記憶への潜行プロセスが客観的に読み取れるのも本作の見どころでもある。

 

 世間話のように他愛のない会話を交わしながらも、珊瑚はうなじのスロットから送り込まれてくる記憶の断片を識域下で吟味し、意味を捉え、判別できたものを翻訳辞書に登録し続けていた。

 インタープリタにとっての記憶翻訳のプロセスは、子どもが言葉を覚えていく過程と似ている。少しずつ断片を蓄積して初期辞書の構築が完了したとき、突然世界が理解できるようになるのだ。

 

   門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』創元SF文庫 P206

 

  これまでは、解釈を行っている珊瑚の様子のみが描かれていたが、今回はこれに加えてモニタールームでバックアップしているショージやカマラの様子も描かれている。

 それによって、これまで珊瑚の主観を追う形で記憶翻訳の手順を見てきた読者の視界も広がり、さながら集中治療室における執刀医の手元と手術室全体を見渡せる俯瞰の視点を総合して見ているような感があった(無論、このたとえはTVドラマなどでしか成立しないが)。

 

 ところで、いまさらな気付きなのだが、作中に出てくるふるほん喫茶・紫音《しおん》は、叢書版の表紙を描いたしおんさんにあやかっているのだろうか。

 

 

『虚ろの座 It's the day Iwant to be there again』

 珊瑚が九龍に入るよりずっと前、彼女が覚えていない過去の物語。

 『みなもとに還る』に出てくる過剰共感能力者の生活共同体〈みなもと〉が、まだ(組織の体裁を保つために)宗教的な側面を有していた頃の物語でもある。そのためか、『風牙』収録時よりも胡散臭さが増していたように思えた。

 叢書版ではこの作品が一番最後に置かれていた。どう描いても後味の悪い終わりになるにもかかわらず、読後感がそれほど悪くないのはこれが過ぎ去った時間の物語だからだろう。

 読者は現在の珊瑚を知っているし、ここで描かれている悔恨は彼女のものではない。なにより、『風牙(叢書版ではなく短編のこと)』において、珊瑚が自我を確立した際の経緯が描かれているため、重度の過剰共感能力者であることを踏まえてなお、どういう事情があって彼女が自我を確立できなかったのか、という背景が明らかになるからだ。

 視点・語り手(この作品のみ一人称)が珊瑚ではないこともあり、情景の見え方も少し変えられているようだった。

 手近なところは鮮明なのに、それらを含む全体像がぼやけて見える。

 地名や地図上の位置がはっきり描かれないのはこのシリーズに共通する特徴だが、その分ディテールはちゃんと描かれているので世界がぼやけることはない。

 情報は欠落していても認識の欠落はないためだ。

 しかし、『虚ろの座』に関してはそうした情報がないのではなく、一人称ならではの認識の偏りが表れている。

 解説を書いている香月祥宏氏は「(前略)ホラー/心理サスペンスとしてはじゅうぶん怖い」と述べていたが、まさしく、胡散臭くて、不気味で、おぼろげで、恐い。

 

 『虚ろの座』がシリーズの中で果たす役割は非常に重要で、この作品があるからこそ最初の『風牙』からずっと家族を描いていると訴えかけてくる。

 

 今回の文庫化における再構成は、作中の出来事や取り上げる事柄に家族が関係している、という表面的なこと以上に作品の根幹に根ざす要素だと、読者に気付いてもらう意図もあったのではないかと思った。

 

 

『秋晴れの日に Intermission - A small piece of myself』

 書き下ろし新編。珊瑚が休暇を利用して〈みなもと〉を訪問する挿話であり、現在からこれからを繋ぐブリッジ的な作品になっている。

 時系列としては、『みなもとに還る』の2ヶ月後で、そこから『追憶の杜』に収録されている作品集との間に位置することもわかる。そうした位置関係にありながら、『追憶の杜』の先の物語が続く予感を覚えた。

 真尋と話していると、珊瑚が相対的に普段より年上に感じられるのも面白い。

 

 

  

 この作品が未来を舞台にしながら、懐かしさとも言える読み応えがあるのは、記憶をメインテーマに据えているからだろう。

 記憶を記録できるようなったとき、その記録は誰かが生きた証になる。もういないあなたへの思いが強くなるのは自然なことだし、ビジネスとしてもそちらのニーズが高いだろう。先に「人間は現在から未来へ進んで生きているがゆえに、何かを語るときには過去を語るしかない」と書いたとおり、語る口がないからこそあえて記録を見つめ直す意味も大きくなってくる。

 記憶翻訳というSF的なアイディアは、未来の技術でありながら過去を語る術なのである。珊瑚が暮らす現在の世界のディテールが抑え気味なことも相まって、記憶の解釈で描かれる情景の印象が強いからだろう。

 それでも、作品そのものが後ろ向きになってしまわないのは、記憶翻訳が過剰共感能力者にしかできない仕事であり、うつむきがちな珊瑚達が前を向いて進んでいく物語だからだ。

 珊瑚自身の性格よりも、周囲にいる人々の存在に珊瑚が支えられていることをそこはかとなく描くことで、珊瑚と作品が掴み取った前向きさだと思う。

 

 

 お話しや人物以外の部分では、この時代の人間がうなじにモジュールスロットを着ける際にどんな処置をするかが気になりはじめている。

 脳内インプラントチップなどよりは外科的処置の印象はなく、体内ナノマシンネットワーク構築などよりは人の手が介在していそうな印象のあるモジュールスロット技術なので、機会があれば突っ込んだところを読んでみたい。読んでみたいが、モジュールスロットの仕組みは、言わば重箱の隅なので描かれなくてもそれはそれでありだろう。

 こうしたSF的な想像の余地を読者に残しているのは、この作品の懐の深さだと思う。

 

 

 などと書きながら、2ヶ月以上積んでいた私である(ごめんなさい)。